真説アイドル伝説えり子 絵そのものが好きな方は、実在との対応がどんなに付こうが付くまいが、作品に対する評価はまったく変わらないと思います。

見所)中田(仲多)先輩とえり子の友情

≪基本≫まず、キャラクターをしっかりつかむ。
田村えり子=当時の天皇(えり子は見かけは私よりも天皇に近い。話の大きな流れは天皇によっているが、話の細かいネタは私によっている。例えば、第1話でえり子の父親が死ぬのは、太平洋戦争後の天皇の人間宣言のことである。えり子の父親は神武天皇のことであり、昭和天皇の人間宣言によって神武天皇は日本神道の神ではなくなったからである。LD−BOXの箱の絵は天皇に似ていて、中のLDジャケットの絵は私に似ている。テレビの本編のえり子の絵は天皇に似ている。最終回でえり子が行方不明になるのは、今の天皇家が滅びつつあることを暗示している。elilin←eel[i:l](うなぎの意味、筆記体)←川←川野(私の姓)←私elilin→eel[i:l](うなぎ)→うなぎ→胴体が丸い→神武天皇の光の玉→天皇家、私が中学1年生の時、英語の沢谷[さわたに]先生が「一番簡単に書ける英単語」と言って黒板に筆記体でeelと書いたことがある。)、朝霧麗=私の妹(10歳下)、田村美奈子=私の母、阿木星吾=私の弟(3歳下、ただし髪型は九大工学部の吉村隆博[よしむらたかひろ]君)、田村雄介=和田高明君(高知学芸中学2年〜九大教養学部1回生までの友人;甘いマスク)&先代の私(2歳半まで)、田村項介=母の父(←声優、この人の声好き、ナッパもよかった)、朝霧良子=母の妹、大沢洋(<太平洋)=姪(私の母の妹の娘、都会派)、瀬山麻美=私(幼稚園から小学低学年ごろの私と顔が似ている。)、ピアニッシモ=東[ひがし]先生(九大精神科の同僚の女医)、フォルテッシモ=馬渡[もたい]先生(九大精神科の同僚の女医)、中田靖子=浅野耕太[あさのこうた]先輩(3歳から朝倉中学1年まで10年間一緒だった。真面目で大人しい。)+和田高明君(高知学芸中学2年から九大教養部1回生まで7年間一緒だった。浅野先輩の後役[あとやく]。行動派で、男っぽい。バイクに乗っていた。福岡で私と1年間同居した。中田靖子と顔が似ているのは、浅野先輩よりも和田高明君のほうである。)、伊集院=?、唐沢=私(爺化)、ゆき=私(婆化)、松田=高知学芸中学校生物担任の増田先生×私、内田真也=高知学芸高校古典担任の内田先生(顎のラインが同じ。いつもYシャツを着ていた。)、内田一樹=浅野先輩の弟(私より1歳下、眼が大きい)、
・私のえり子に対する第一印象は、『かわいい女の子がプールで溺れるアニメ』だった。(第1話暗すぎ。)
・OP冒頭でえり子の衣装が白色から赤色に変わるのは[ヒント;NHKの紅白歌合戦]、私が歳を取るたびに男気がなくなっていったからである。しかし、それは日本神道の者による私に対する歪んだ解釈であって、実際には気が狂って不調になった点以外は子供の頃とあまり変っていないと思う。世界大戦以前の天皇は戦争にやる気があって男らしかったが、世界大戦以後の天皇は戦争に負けて女らしくなったからである。
・DVDのジャケットに書かれているアミノ日記は、私の哲学日記を真似たものである。[アミノテツロー←アミノ酸+鉄道(私が子供の頃汽車に乗って行くのが好きだったから)]
・『えり子』は作品全体が天皇らしい雰囲気になっている。反対に、『ようこ』は作品全体が私らしい雰囲気になっている(あくまでもイメージにすぎないが)。

話数 サブタイトル 内容(元ネタ)
悲しみの前奏曲(プレリュード) ・「照明が邪魔」=照明は神武天皇の光の玉つまり天皇家の喩[たと]えだから、天皇家が邪魔だと言うことを表している。
・「鳩[はと]のへそどこにあるのかわかんない」=鳩は白くて光るから神武天皇の光の玉つまり神武天皇の喩えである。だから、「鳩のへそがどこにあるのかわからない」とは、神武天皇が哺乳類ではないことを表している。つまり、神武天皇は架空の人間だと言っているのである。
・中田靖子がえり子に香港土産[ホンコンみやげ]をやる=医学部ポリクリで一緒の班だった鈴木君が、私にホンコン土産[みやげ]に栓抜きをくれた(中田の代理)。
・田村雄介が自動車事故で死ぬ=日本が世界大戦に負けて、戦後天皇が人間宣言をしたこと。えり子は天皇なので、えり子の父の田村雄介は神武天皇である。雄介は“雨”の日に“裏”通りで“自動車”事故にあったのだから、アメリカ(雨裏car)に殺されたことになる。つまり、日本が世界大戦でアメリカに負けて天皇が人間宣言をしたことを表している。先代の私が電気ショックによる洗礼で超能力とそれまでの記憶を失ったこと(推測)私が中1のとき同じ旭のみその塾に通っていた西森年彦[にしもりとしひこ]君が鴨部の広瀬病院の前でダンプに轢かれて一ヶ月間入院したこと。
・瀬山麻美(山形麻美)=私(瀬山麻美が私なのは、当時私が山瀬まみをちょっとかわいく思ったから。名前が麻美(アサミ)なのは、高1のとき母親に連れられて行った精神病院で、先生に「麻薬をやっていませんか?」と訊かれたから。)
・田村項介=私(田村雄介と田村項介はライバルで、田村雄介は神武天皇だから田村項介は私ということになる。私はおじいさん(母の父親)似で、えり子と項介はおじさん(≒おじいさん)の関係で、えり子は原則的には当時の天皇だがときどき私にもなるから、田村項介が私ということになるのである。)
運命の序曲(オーバーチェアー) ・葉巻=私のおじいさん(母の父)は私が小学2〜3年生の頃葉巻を吸っていた。書斎の机の上に葉巻のケースが置いてあった。私は、机の上にあった表が凸面鏡で裏が凹面鏡の鏡(→ギャラクシーエンジェル【第1期】OPで蘭花が見入っているショーウインドウの上段真ん中にある鏡)が大変気に入っていた。ちなみに、タバコについては、私の父と妹は少し吸うが、私と母はまったく吸わない。
・雄介の債券=私のおじいさんが机のビニールシートの下に敷いてあった戦前の紙幣。
・欧立医科大学病院=九州大学付属病院
・マリンステージ=竜串の海中展望台(ただし、私は写真で見ただけで、私の家族はだれも行ったことがない。)
パパに捧げる鎮魂歌(レクイエム) ・ロコモーションドリーム=「走るよリニアエクスプレス」私と和田君は高1のとき、升形の刑務所跡地で開かれた高知科学博覧会を見に行った。そこで、リニアモーターカーの模型の展示があった。その後で、土佐女子中学高等学校へ行った(女入れ、にしても寂しい)。
明日への追走曲(カノン) ・緑の灰皿=実物。
・えり子の‘女の子感’が濃い回。
・福岡で同居していたとき、和田君が酔っ払ってガラスコップを握り潰して手を怪我したことがあった(身代わり入れ)。
光と闇の二重奏(アンサンブル) ・箱根は、高2の春休みの修学旅行で行ったことがある。スキーコースもあって、前田君に行ったらいいのにと勧められたが、私はスポーツ音痴なので断った。スキーは私の父親が得意で、若い頃よく滑っていたそうだ。修学旅行のとき、東京の皇居で和田君と私と和田君の東京の知り合いの女の子2人とでダブルデート?した。
・ケロッグのコーンフレーク=医学生時代には、毎晩夜寝る前に副食でコーンフレーク(特にコンボ)を食べていた。明星チャルメラも毎晩食べていた。
『ロコモーション・ドリーム』=小学校中学年ごろ、私は友達といっしょに汽動車に乗って近くの駅に行くのに嵌[はま]っていた(伊野〜朝倉〜高知〜土佐山田〜大杉)。ディスカバー・ジャパンとか言って、駅のスタンプを集めるのがブームだった。本来乗り物に弱い(すぐ乗り物に酔う)ので、小学高学年以後は、必要なとき以外は乗らなくなったが。(国鉄→こくてつ→JNR→JR。私は子供の頃あまり本を読まなかったので、漢字が苦手だった。私のイニシャルは、N.Kだ。高知城の下の動物園には、象の花子さんがいた。JR≒川(形が似ている)←川野(私の姓))断っておくが、私は小学3年ごろから歌が下手になったし、カラオケになど行ったこと生まれてこのかた一度もない。
・バイク=たった一度だけ、和田君のバイクの後部座席に高知城の下の県庁通りで1kmぐらい乗せてもらったことがある(ほとんど乗ったうちに入らない)。私は使わない医師免許を持っているだけで、自動車の免許もバイクの免許も持っていない。和田君も「バイクは転ぶから怖いぞ」と言って、私に乗るのを勧めなかった。
・田村家=赤レンガの煙突が特徴的だが、私が佐賀県神崎町から九大医学部に通っていた頃、肥前中原駅から快速列車に乗っていた(片道630円)が、中原駅の北にそっくり同じ形をした赤レンガの煙突があった。
・バイクこけ=和田君は、もともとは1浪して九大の生物学科にいたのだが、1回生の夏休みに高知に帰って私と西森君と川本竜彦君と利岡君(川本君…C3−P0に似ている。利岡君…R2−D2に似ている。川本君&利岡君は、凸凹コンビ(→ミンキーモモのフェナリナーサ(またはマリンナーサ)のパパとママ)。利岡君→海モモ#21「フォーカス?見られた変身」のアベル・ウォーカー。)に会ったあと、和田君が柴田君と一緒に原チャリで正連寺に登ったとき、自動車と衝突してガードレールに頭をぶつけて硬膜外出血で1ト月入院した。私はほとんど毎日見舞いに行った。(テレビを見ながら和田君が「小泉今日子(キョンキョン)かわいいと思わん?」と私に訊いたことがある。→ヨッキュン、ホッキョン)これがきっかけで、私はそれまで通っていた地元の高知大学数学科を辞めて、九州大学医学部を再受験をすることになった。(今になってよく考えてみると、和田君の事故は作り話かもしれない。頭にはいつも包帯を巻いていて傷は見えなかったし、包帯を外したあとも髪の禿げたところが全然見えなかった。)
・バイクこけ(その2)=私が瀬戸西町の家庭教師に自転車で通っていた頃、和田君がバイクに乗っていて円行寺口の踏み切りで雨で濡れたレールで滑ってこけた話を聞いたことがある。また、家庭教師に通う途中瀬戸西町の近くで私が手放し運転をしていて私の自転車と真正面から来たカブに乗ったおっさんと衝突しそうになって、両方ともこけたことがある(ヤラセ?)。幸い双方とも怪我はほとんどなかった。
・えり子EDの星型の手鏡=九大医学部に入学した頃、福岡市中央区笹丘1丁目にあるダイエースーパーで朝髭を剃るときに必要な手鏡を買った。黄色いプラスチック製で350円くらいした。今でも愛用している(ほぼ20年間)。
デビューへの断奏(スタッカート) ・えり子OPの冒頭の横顔=高校の美術の時間、先生が「横顔は簡単」と言いながら、人の横顔を一筆書きで板書したことがある。
・箱根のペンションのレクレーションルームの地下室の入り口=私が中学3年のとき引越しした福井町の家の一階のダイニングルームの床下にあった食器をしまう小さな収納庫。
・楽譜の譜面=福井町に住んでいた頃、私の父親と私と弟とで飯台の上でなんかの紙を取り合うようなことがあった(詳しくは忘れた)。
・「熊でも金太郎でも」=朝倉の若草町の県営住宅にいた頃、熊に乗った金太郎の人形を飾っていた。あと、薫的のおじいさん家に行ったとき、金太郎飴を食べさせてもらったことがある。
・「新聞にド派手に出ている」=私が高2ぐらいのとき、高知新聞朝刊の1面目の左半分に北(長尾山町)のおばあさんが50万円ひったくられた記事が顔写真入で大きく出ていた。
・えり子のヘンなメイク=九大教養部1回生のとき、私と和田とで吉村の下宿に遊びに行ったとき、酔っ払って私の髪を吉村に刈ってもらって変な髪型になったことがある。次の日講義に出たが、経済学の教授の原田が訝[いぶか]しがっていた。講義が終わってすぐ、床屋に行って5部刈りにしてもらった。その後パンチパーマをかけたが、似合わないのでそれっきりやめた。
父の形見の生誕曲(デビューきょく) ・『ノルウェイの森』=村上春樹は和田君が好きな作家(だったかな?)。よく赤い背表紙の文庫本を読んでいた。私は読まない。
・今回のサブタイトルは特に気合が入っている。
・ロコモーション・ドリーム=監督に言わせれば、「かわい気のない曲で、番組が潰れかけていた」そうだ(by幻聴)。
新たなる旅立ちの奏鳴曲(ソナタ) ・松田先生が喋っている場所は、高知学芸中学高等学校の中校舎1階にある会議室。私は掃除時間によくここを掃除した。
・私は朝倉中学校1年から高知学芸中学2年生に編入したし、高知大学数学科に1年半行ったあと中途『退学』して半年間自宅浪人して(浪人中は週に2〜3回福井町から瀬戸東町まで片道1時間自転車で通って高校1年生の数学の家庭教師のアルバイトもやった)九州大学医学部に入学した。高知大学の体育では、弓道をやった(→赤ずきんチャチャ、ゲートキーパーズ)。
・麻美「松田のバカー」=同級生の山見君(ニコホンのマークのように耳が大きい)がよく教室で「増田のババア」と言っていた。山見君はよく私のことをガリ勉と言って軽蔑していた。
・クリームぜんざい=私も私のお母さんも“ぜんざい”が大好きだ。冬、お母さんが大きなお鍋で作ったぜんざいをストーブの上でコトコト暖めて食べるのだ(ただし、私は猫舌)。
炎の予感の練習曲(エチュード) ・麗の歌=私の家族の中で妹だけ自動車免許を持っている。妹は成人の日に父に自動車を買ってもらった。でも、「車の運転は疲れる」からと言って、仕事以外ではあまり乗りたがらない。父は原動機付き自転車の免許を持っているが、若草町にいるとき乗っていただけでその後は自転車にしか乗らない。母は私によく「自動車免許を取ったらあちこち行けて面白いでえ」と言うが、私は子供の頃からひどい乗り物酔いをするので死ぬまで取るつもりはない。
・私の弟は若草の県営住宅にいるときに私と2階でじゃれあっているうちに階段からこけて腕の骨を折った(参考、ロボット8ちゃん。ウレタンの8ちゃんが階段をごろごろ転げ落ちるシーンがある。[高知にいたとき本放送のときにこのシーンを見てなんとなく弟のことだとわかっていたから、今でも憶えているのだ。]8ちゃんの8は、村8部の8。名古屋では、八兵衛とも言う。)。そのあとで、学校の体育の鉄棒の時間に鉄棒からこけて反対の腕も折った。折れた腕が変な形になってみんなが馬鹿にするせいもあって学校へ行くのがだんだん嫌になっていったのだろう。
・WARRIOR←わりゃあ(土佐弁であなた・君の意味)。弟の性格はバカで乱暴。学校にも仕事にも行かず、いつも家の中でエロ本ばかり読んでいた。小学生頃まではまずまず私と仲がよかったが、中学生からあとは私と顔を会わせるたびに蹴るや殴るの喧嘩をしていた。たまに台所に来ては、冷蔵庫の冷やした水をうまいと言いながら飲んでいた。私や親の物を勝手に友達や質屋に売ったりしていた(→Steal、ペルシャ『疑惑のおじいさん』、ようこ『サーカスが来た!』など)。
10 愛と憎しみの三重奏(テルツェット) ・この回には、私がわかるネタがない。
11 雨上がりの二重奏(デュエット) ・この回のえり子が車に襲われるシーンだけ、以前どこかで見たことがあるような…(デジャビュ?)おそらく、千葉県の信者のテレパシーによる幻視なんだろうけれど。もしかしたら、当時福岡でどこかのテレビ局で放送されていたかもしれない。
・えり子が車に轢[ひ]かれそうになる=日本政府が私を神とする国家宗教をやって神武天皇を神とする国家宗教をやめそうになること。車は車←car←カー←かわ←川野[かわの](私の姓)←私だから、えり子が車に轢かれることは、日本神道の神が神武天皇から私に替[か]わることを意味する。[『ミンキーモモ』第46話「夢のフェナリナーサ」でモモが車に轢かれたのと同じことである。]
・えり子はここら辺から(この回あたりから)面白くなってくるな。
・私は当時はワープロなんか持っていなかった。
・唐沢、渋い。『唐沢みたいのがいい。』(幻聴)
・ロコモーション・ドリーム=テープが‘延び’ている。エリリンの歌い方は、高知学芸中学2、3年のとき音楽の歌の試験のときに前の教壇に出て歌った私の歌い方にそっくりだ。私は上がり症で、たとえ歌でなくても人前で話すのが苦手なのだ。
・瞬間接着剤アロンアルファ=私が小学生のときプラモデルを作るときによく使った。当時はまだ剥離液が出来ていなくて、おっちょこちょいでせっかちな私はプラモの解説書の手順に従わずに、作りやすいところから自分勝手に作るので、あとで接着した部分を泣く泣く剥がさないといけなくなって苦労した。親指と人差し指がくっついて取れなくなり、手の皮がむけた。アロンアルファが出る以前は、大きなチューブに入った黄色いゴムボンドを使っていた。これでやると、乾くのに時間がかかってじれったかったし、プラモの繋ぎ目が黄色くなって汚かった。
妹、歌うまい(多分)。私は妹の歌を聴いたことがなく、妹は私の歌を聴いたことがない。妹はよく友達とカラオケボックスに行って歌うそうだ。
12 仕組まれた不協和音(ディスコード) ・タイガー引越し便=阪神タイガースが高知キャンプをすることが多い。学生時代、私は毎日タイガー魔法瓶を使って、朝は玄米茶、休日の夜は胡麻焼酎『紅乙女』の湯わりを飲んでいた。
・窓際のアイドル=私は学生時代、後ろのほうの端っこの席に座ることが多かった(窓と反対側のほうが多かったが)。
・内田、渋い。
・私は海外旅行(グアム旅行)なんかしたことがないので、背景の絵がいかにもウソっぽい。
・私は球技が苦手で、ビーチバレーなんかしたことがない。それで、アニメではえり子がビーチボールでバレーみたいなことをするだけなのだ。私は特に鉄棒とマットが苦手で、逆上がりも逆立ちもできなかった。逆上がりは中3のとき体育の大野先生に放課後補習を受けてなんとかできるようになったが、逆立ちは今でもできない。人並みなのは、競走とマラソンぐらいだ。(なぜかな?)たぶん、出産のとき首をねじったり足をひねったりして、乳児期に普通の子のように運動できず、小脳の運動機能が十分に発達しなかったためだろう。
13 絶望の分散和音(アルペジオ) ・OPの“笑う楽譜”は、えり子=私の歌が下手なことを表している。
・Aパート)MILK3.5=『特濃デカ牛乳』。医学部にいたとき、ときどき母は私の様子を見に博多に来ることがあった。マルキョウ馬出[まいだし]店で買った『特濃デカ牛乳』が「味が濃くておいしい。こんなもん高知にはない。」と言って驚いていた。
・Bパート)飯台の上の麦茶=私は暑い夏になると、よく『ハウスの麦茶』(冷水用)を作って冷蔵庫で冷やして飲んでいた。高知の母も同じものを飲んでいた。
・『風見アキラとえり子のデート』=おそらく、中3〜高1のときの私のオナニー(手淫)のことを指していると思われる。オナニーしすぎて精神分裂病に罹ったときは、学校を休んで、母と一緒に高知市城山町の清生園病院に行った。そこで薬をもらって決められた分量を飲んだが効かなかったので、もらった薬を1週間分全部飲んだがちょっと眠くなるだけで効かなかったので、それ以後は病院に行くのを一切やめた。私の分裂病がそこそこ治るのに25年もかかったのは、家の近所に住んでいる信者の連中が幻聴で私の悪口を言ったり、夜遅くわざとに気に障るような大きな笑い声を立てたり、ガンを飛ばしたり(いわゆる『眼からビーム』)したからだろう。今でもガンを飛ばされると眼が痒くなり、ガンの飛んできた方向に視線が偏る。1回ガンを飛ばされると、眼の痒みと視線の偏りが半日ぐらい続く。
・ミンキーモモは、ミンキーモモ=えり子=私であることを表している。ミンキーモモがやってたパロディも、すべて“私が入っている”アニメだ。
・大沢洋=姪(母の妹の長女)。
・麻美の電話のシーンでモチャとピピルだけでシンドブックがいないのは、麻美=シンドブック=私であるからだ。ゆえに、モチャ=弟、ピピル=妹となる。(「ゆえに」は、私が中1の数学を習ったとき、すごく好きだった言葉だ。)
・「このごろ、マスコミとの応対で何日間も眠っていない」=ここでは、例外的に内田=私。高1の頃精神分裂病で狂っていた私は、ほとんど毎日(雨天以外は)幻聴の悪口を止めるためにベランダに出て1〜2時間くらい近所の家に向かってブツブツ文句を言ったり使用済みの乾電池を投げたりしていた。そのため、睡眠時間が減ってしまい、毎日がグロッキー状態だった(眼の下の隈[くま])。
・内田が記者会見の後で倒れたときのエリリンの顔=変な顔(ちょっと地顔)。
14 希望への変奏曲(パルティータ) ・「しばらく消えるよ」=中2と中3では、私と和田君は同級生だったが、高校では別のクラスだった。でも、休み時間にはときどき話に来てくれた。私と和田君とは中2で同じ2−Cのクラスに編入したが、始業式の日に私は午後までかかることを知らずにお金を1円も持ってきていなくて、和田君にお金を借りようとしたが断られて、お昼はなにも食べれなかった。私が和田君に話しかけた初めての言葉は、「金貸してくれ」だった。
・冬美=私の誕生日は昭和39年1月22日の真夜中だったそうだ。美啓医大病院=九州大学医学部付属病院。九大病院に勤めていたある看護婦さんは、「この冬美を見てはじめて私と気付いた。顔の雰囲気が似ているし、毎日昼休みに病院の屋上に行っていたから。そしたら、エリリンが誰のことだかわかった。」そうだ(幻聴)。
・「エッチ女じゃん」=私が中3〜高1の頃までしていたオナニー(手淫)のことを指していると思われる。オナニー後、分裂病にかかった私は「出世できない。」と思って泣いた。
・中野動物園=上野動物園。中学2年の夏休み、家族全員で東京旅行に行った。東京タワーや科学博物館や上野動物園に行った。当時はパンダがはじめて日本にやってきた頃で、大人気で人ごみがすごくて1〜2秒だけチラッとしか見えなかった。科学博物館ではオーストラロピテクス?の展示をやっていたが、恐竜の化石や機織[はたおり]機を改造した自動連立方程式解法機のほうが面白かった。夕方ホテルで出た水がまずくて、とてもこんな所には住めないと思った。いよいよ高知に帰る日、フェリーの待合室ではテレビで『勇者ライディーン』をやっていて、最後まで見たかったがフェリーに乗らなければならなかったので残念だった。帰りのサンフラワーの中ではさんざん船酔いしてほとんど部屋から一歩も出られなかったが、母が是非と言うので一度だけデッキへ出て和歌山の潮岬[しおのみさき]の燈台だけは見た。
・冬美、歌うまい。
・九大病院の屋上では、晴れの日にはいっぱい洗濯物を干していた。
・そもそもどうしてアニメ?=小学2年のとき、授業中教科書の横や下の空白にパラパラマンガ(黒丸が動くやつ)を描いてよく遊んでいた。
15 束の間の無伴奏(ア・カペラ) ・カミソリの言葉=高知学芸高校の卒業文集に石元康仁[いしもとやすひと]君(徳島大学医学部精神科、かなり出世しているはず)が『カミソリとナタ』の題で『切れのいいカミソリの頭よりも、切れの鈍いナタの頭でありたい』と書いて私の頭をカミソリに喩えて皮肉っていた。(カミソリのカミは神のカミ)
・うさぎの着ぐるみ=NHK教育テレビの交通安全教室のピョン太くん。高知市立朝倉第2小学校の学校放送で毎週朝8時半から8時45分まで見ていたが、放送機器の調子が悪くてピョン太くんの顔がしょっちゅう歪[ゆが]みっぱなしだった。
・とんび=愛媛県宇和島港にはとんびの群れが飛んでいた。福岡から高知へ帰るときには、福岡から久大本線で別府まで行って、そこからフェリーに乗って宇和島まで行き、宇和島からは予讃線で窪川まで行って、そこから土讃線で高知まで行くこともあった。宇和島港から宇和島駅までは20分ぐらい歩かねばならないが、よくとんびがピーヒョロロと鳴いていた。
・スーパーイントロ当てクイズ=笑福亭鶴光のオールナイトニッポンのコーナーにあった。
・エリリン、すごい。
16 復活の詠唱(アリア) ・エリリンは私の作り変えの最高傑作キャラだ!!(目鼻立ち以外は、何にも似ていないともいうが。)山内則康氏は中学3年ごろの私の写真を見ながらデザインしたのだろう。これに対し、田中ようこをデザインした私と小学3,4年生頃同級生だったような憶えがある?近永早苗さんは自分の眼で見た私の記憶のイメージでデザインしたのかもしれない?。したがって、ようこのほうがえり子よりも6年若い。ついでに、スイートミントが12歳頃だから、ようこ(9才)<ミント(12才)<えり子(15才)となる。スイートミントは名前似。アニメの世界には最高という言葉はないから、最高傑作キャラも存在しない。
・貧乏ゆすり=母も知ってる私の癖。
・岡山=学生時代、高知の実家から福岡の下宿へ帰るときには、岡山で特急南風から新幹線に乗り換えるのだ。今も、夏の盆休みや正月などに、高知の実家に帰るとき岡山で乗り換える。駅のホームに降りるだけで、いまだに岡山の土を踏んだことがない。
・麻美「もうこの手洗わない」=麻美の後ろでえり子が怪訝[けげん」な顔で見ている。そう、ご承知の通り、私は異性愛に興味がないのだ。
・がんばれ、エリリン。
・好きよ(2番)=私が高知大学数学科中退後浪人中、10月ごろ和田君に誘われて2人でいっしょに高知県民プール(室内温水プール)に行って泳いだ。
・スカートめくり=私が小学3,4年ごろ、クラスでスカートめくりが流行していた。広瀬君や藤原君らが率先してやっていたが、私は興味がないのでやらなかった。女の子たちは嫌がっているようで、じつは喜んでいた。このシーンのえり子の顔がいつもと違うのは私だからである。[えり子の顔がときどき変わるのは、天皇のときと私のときがあるからである。]私が福岡から高知の実家へ帰るとき岡山駅で乗り換えるために私が岡山の地に足をつけるし、私が小学低学年のとき袖[そで]の短い短パンを履いていてブリーフが隙間から見えていたからパンチラがあるのである。パンティは白く光るから神武天皇の光る玉の喩[たと]えであり、神武天皇を神とする国家宗教ではスカートめくりをやっていいのである。『アイドル天使ようこそようこ』第43話「不思議の街のアリスたちPart2」で“太陽の贈り物〜♪”と歌うシーンにパンチラがあるのはそのためである。[太陽が光る玉であり神武天皇を神とする国家宗教の喩[たと]えだからである。]
17 砕かれた喜遊曲(ディベルティメント) ・「子供っぽいと言われますけど」=私は小学1年〜6年まで学研の『科学』と『学習』、それと小学館の学習雑誌『小学○年生』を小学1年〜中学1年までずっと定期購読していた。科学と学習は学校で購入したが、小学館の学習雑誌は毎月家まで販売員が届けてくれた。とくに学研の科学は付録が充実していて面白かった。小学館の学習雑誌の『紙の付録』もよかった。紙の付録は、毎月組み立てていたし、弟も小学館の学習雑誌を取っていたが、弟の付録を横取りして私が組み立てていたし、たまに父が古本屋(帯屋町の井上書店)で10円で売っているのをお土産に買ってきてくれたりもした(組み立て説明図がないので組み立てるのには苦労した)。私は物を分解・組立てるのが好きで、よくドライバーとペンチを持って時計やラジカセや電卓などを分解しては元通りに組立てたりしていた。えり子に出てくるプラネタリウムほど上等な付録はさすがに付いてなかったが、何かの雑誌で似たプラネタリウムを見かけたことがあるし、小学校の理科の教材で星座表を作ったし、学研の『宇宙』の図鑑で星座を見たことがある(当たり前か)
18 25メートルの幻想曲(ファンタジー) ・夏休み子供水泳教室。たしか小学3年のとき、高知市営プールで夏休みのはじめ7月下旬に1週間くらい水泳の苦手な子供たちばかりを集めて水泳の練習をやらされた。最終日小雨の降るなか25メートルをクロールで泳がねばならなかった。私は飛込みができなかったので、下からスタートした。なぜか、開始直前に1コーナー増えた。アニメではびりだったが、実際には8人中5〜6位ぐらいでした。なんとか泳ぎきった(ほんとは1回ぐらい足着いたかな。苦しさを乗り越えるよりは、苦しさから逃げ回るタイプ。)
19 絶望への転調(モデュレイション) エリリン、オナニー顔(近永健一画)。顔が曖昧模糊で、オナニー(手淫)によって発生した知覚界の現象性イデアをよく表している。近永健一は絵がへた。
20 潮風の交響曲(シンフォニー) ・この作品を通して“エロ本”が一度も出てこないのは、私がエロ本にまったく興味がないからである。私が小学4,5年生頃、朝倉の南団地の南の住宅に住んでいた前田君(名前忘れた。誠一ではない。)と近所(朝倉南町の付近)の宅地によく遊びに行ったが、そこにはプレハブの2階建ての事務所が建っていて、そこに忍び込んだとき、部屋の隅に数冊のエロ本とシンナー袋(シンナーの入っているビニール袋)が捨てられていた。前田君(たぶん、日本神道の者)はエロ本を片っ端から開いて私に見せつけたが、私は小学校に上がるまで毎日お母さんといっしょにお風呂に入っていたので、とくに興味を感じなかった。シンナー袋には、さすがに二人とも手を出さなかった(→オウム真理教の地下鉄サリン事件で使用されたビニール袋。この事件もいわゆる“3面記事”で、おそらく事実ではないだろう。地下鉄サリン事件はもちろん実際にあった実話だ。日本神道の幹部である国会議員が現人神制に従って日本神道に入っているオウム真理教の者達を使って起こした殺人事件だ。[ひとつの原因としては、現人神である私が地下鉄のある福岡市に住んでいたから。]もっとも、麻原彰晃は今もどこかで生きているかもしれないが。)。前田君はテープレコーダーを持っていて、田んぼで声を録音して遊んだが、再生された自分のガラガラ声に私は驚いた(→『ファンシーララ』第9話「歌手になんてなれない!」)。
21 初恋の小夜曲(セレナーデ) ・星吾は私の弟だから、私が私の弟を好きになるはずがない。むしろ、犬猿の仲でしょっちゅう喧嘩[けんか]していた。しかし、たまには仲良くすることもあった。そのときの雰囲気を描いている回。すると、“初恋”っていうのは、麻美とえり子のデートのことか。高知学芸中学では、同じクラス(3年C組)の川崎玄博[げんぱく]が「自分で自分のことが嫌いになった」と言っていたから、その“反対入れ”なのだろう。私が高知学芸中学3年C組で同級生だった川崎玄博[げんぱく]君は「自分はおばあさん子だ」と言っていた(→ドラえもん)。「自分が高知学芸中に受かったら、おばあさんが涙を流して大喜びしていた」と川崎君が話したら、和田君が大笑いしていた。
22 夕陽の受難曲(パッショーネ) ・カオリは自殺するために自転車に乗っているのではなく、じつは健康のためにサイクリングをしているのである。医学部専門課程に上がって馬出(まいだし)に引越しした頃には、週末の土日になると、近所の立花山周辺へサイクリング+山登りに出かけていた。しかも、ダサダサの紺[こん]のジャージを着て。当時の立花山山頂は、ジャングルジムのある小さな遊園地になっていた。(たしか水道もあったと思う。)西を見ると、福岡市が全貌できる。
・赤信号でも自転車が止まらないのは、私が地元の高知で高知大学を辞めて浪人していた頃、高知市民図書館2階閲覧室で勉強していたが、そのとき誰かに自転車のブレーキのワイヤーに切れ目を入れらたらしくて、昼食のために外出したとき、県庁前の交差点で赤信号でブレーキをかけたときブレーキワイヤーが切れて止まれなかったことがあったからである。ヒヤリとしたが、なんとか無事だった。あとで図書館に戻って、近くの席にいたそれっぽい2人組に「お前らがやったがやろう?ちょっとそこまで顔貸せ」と言いがかりを付けて、危うくケンカになるところだった。それ以後は、自宅でおとなしく勉強することにした。
・LEMON YELLOW←MELLOW YELLOW(関東)=MOUNTAIN DEW(関西) 和田君の事故のあと回復祝いに、和田君と私とで10月初旬に高知→福岡→東京→京都→高知のルートで1週間ほど旅行した。高校の知人宅に泊めてもらったので、宿泊費は只[ただ]だった。東京では東京大学の柴田君の下宿に泊めてもらった。そのとき、夜の宴会でMELLOW YELLOWが出されたが、中身が高知で売っているMOUNTAIN DEWと同じだったので驚いた。
・えり子「ドジな私は名前を書き忘れたのでした。」=もちろん、私は一度も試験で自分の名前を書き忘れたことなどない。試験で0点を取ったこともない(最低でも、40点ぐらい。ただし、大学での試験は除く。大学では一度も点数を訊きに行ったことがないのでわからない。)。たしか、私が高知学芸中学高等学校にいたとき、先生の誰かがそんな話をしたのを聞いた憶えがあるが、誰かは忘れた。
・自殺しようと思ったこと=小学2年生のとき、家出しようと思ってガラス戸を開けていたら父親に見つかって止められた。自殺の動機は、たしか体育が苦手だったことだ。九州大学教養部2回生(22才)のとき、ガス自殺しようと思ってガス栓を5分ぐらい開けていた(→『天地無用』)。このときは、同居していた吉村隆博が嫌だったから。九州大学物理学科を卒業して32才のとき、筑前内野の山奥の他人の家の車庫で登山用のザイルで首を吊った。その前に車庫の中で学生証を焼いた。首を吊ったもののあまりにもザイルが硬くて首が痛かったので1分ぐらいで諦めて止めたが、しばらく頭がジーンとして痛かった。ほんとは筑前内野駅から米ノ山峠を経て三郡山[さんぐんざん]へ登ってそこの山の中で首を吊る予定だったが、なぜか地図にある破線の山道が何者かに崩されて塞がれていた。その日は小雨が降っていてずぶ濡れだったし、久しぶりの山登りでズボンのお尻に穴が開いて、帰りは自宅に着くまで恥ずかしい思いをした。このときの自殺の動機は、実家へは大学院へ合格したと嘘をついたものの、実際には大卒後進む道がなかったから。そもそも物理学科へ入学したのは、純粋に物理の勉強をやりたかったからで、就職のためではもとからなかった。自殺のことは親には話したことがないが、首吊りのザイルの痕が1ト月ぐらい私の首に残っていて、その間に父親が博多の下宿へ私に会いに来たから、ひょっとしたら父が気付いていたかも。これ以後は、自殺しようと思ったことはない。
23 二つの星のための協奏曲(コンチェルト) ・リス←ジギタリス(強心剤)。医学部の学生会が発行する冊子にリスの挿絵が載っていた。
・色気過剰か=私が高校生の頃は古い鏡橋が架け替えられてなく、歩道橋が橋の横に取り付けられていただけだった。私が鏡川橋の歩道橋を朝登校するとき自転車で渡っていると、下で土方のおっさんたちが橋と歩道橋の隙間から上を見上げて「うわ〜、見える見える」と言って自転車をこいでいる女子学生達を冷かしていた。
24 心をつなぐ輪舞曲(ロンド) ・エリリン親衛隊=私が中3〜高1までオナニーをこいていた頃、同級生の女子たち5人ぐらい(岡林さん他)が休み時間に私のガリ勉姿を見るために私の席の近くに集まっていた。私が気が狂ってからは、すぐに解散した。
・アーアーちょっと赤いな=風邪を引くといつも升形の富田小児科にかかっていた。中学になるまでずっと『富田さん』にかかっていた。先生が薫的のおじいさん(母の父親)の知り合いなのだ。先生はのどを見るとき、「あーあーと言ってね」と言って、へらを突っ込んで「ちょっと赤いな」とつぶやくのだった。
・39℃の高熱=高知学芸高校の英語の教師のジュンちゃんというあだ名の先生が、東大受験のとき39℃の高熱が出て調子が出なくて受験に失敗したと言っていた。私は風邪を引くと無理しないですぐに休むタイプ。←私が昭和39年生まれ。
25 時迫る運命の助奏(オブリガード) ・真剣(ほんき)=私と和田君とは福岡市城南区長尾1丁目20番地富永ビル(寿屋スーパーの上のアパート)409号室でほぼ1年間同居していた。3LDKの部屋で2人暮らし。月謝37500円(1人当たり18750円)。私はそこから六本松にある九大教養学部に通っていたが、和田君はそこで医学部再受験を目指して毎日下宿にこもって勉強していた。毎週土曜日の夜には和田君と私の2人が、使っていない北の4畳半の部屋で2人で酒を飲みながらテレビを見たり、私が持っていたPC8001でパソコンゲーム(アスキーの本に載っていたKALAHや秋葉原で買ったゴルフゲーム)をしたりして遊んでいた。酔いが回ると近所のゲームセンターへ繰り[くり]出してゴルフゲームなんかして遊んだ。ゲームセンターの横に小さな酒屋があってそこで胡麻[ごま]焼酎『紅乙女』と出会った(それから20年間、ほぼ毎日これを飲んでいる。→清酒『美少年』)。下宿の下の寿屋スーパーで酒の肴を買って来て部屋で食べた。和田君はコーンビーフの缶詰が好物だった(→ギャラクシー・エンゼル。つまり、コーンビーフの缶が富士山の形をしているのは、私が小学低学年のとき音楽の時間に富士山の歌を歌ったことと、私が小学生のとき薫的のおじいさんが山で取ってきてくれたとうもろこしを食べるのが好きだったことと、BEEFとふじさんがB入れとF入れとふ入れだからである。小学校の算数で習った台形と関係があるかも知れない。あと、私が不恰好なのであんな変な形なのかもしれない。)。冬には私が鍋物を作って2人でいっしょに食べた。和田君にタバコを吸わされたり(けっきょく私は煙が肺まで届かずタバコは吸えなかった)、オフコースの歌をいっしょに歌ったりもした。ある晩、酒の酔いが回った私は急に和田君が好きになってしまい、和田君の顔をジーと見つめたままキスしようとした。和田君は「お前の顔が嫌いじゃ。」と言って、自分の部屋に帰ってしまった。
26 衝撃の即興曲(トッカータ) ここから後は、将来暇ができたら書き加える予定。暇がなければ未来永劫わからないままだ。
・たしか、この回のどこかに出て来る女の人が、私が九州大学医学部精神科の研修医のときの指導医の斉藤考由[さいとうたかよし]先生(当時私よりも10年ぐらい?年上の男性)に似ているが、最近(平成20年4月26日)気付いたことだが、考由←こうゆう←孝雄[たかお]で、孝雄は私と仲が悪かった私の弟の名前だから、最初から私と斉藤考由先生とは気が合わなかったのだ。
・《和田君のことA》私と和田君が福岡で同居していたとき、お母さんが買ったくれた日立の小型冷蔵庫の冷凍室のプラスチックの戸を和田君が引きちぎって壊したことがある(動機不明)。
・《和田君のことB》私と和田君が福岡で同居していたとき、和田君が冬の1月下旬に高知の実家へ1週間ほど戻っていた。そのとき、私は自室のテレビで午後5時半?(または5時)から始まる『魔法のプリンセスミンキーモモ(初代)』の第46話「夢のフェナリナーサ」を見ていた。有名なモモがトラックに轢かれて人間の子として転生するシーンで、モモの裸の姿を見た私は瞬間的に「しまった!((自分がこんなHなアニメを見ているのを和田君に知られるとヤバイな))」と思った。それからしばらくして和田君が下宿に戻ってきたが、顔を曇らして私と会うたびにゴホゴホ激しく咳払いをするようになって私と絶交状態になった。これもはっきりしたことは言えないが、どうやら私が和田君の留守中に和田君の部屋に忍び込んで和田君が隠していた『エロ本』を私が見たと勘違いしたらしい。(実際、私は和田君の部屋に一歩も立ち入っていない。『エロ本』については、和田君がベッドの布団の下に隠していたPENTHAUSEを私に見せた1回切りだ。)私と和田君の絶交状態は和田君が佐賀医科大に合格して3月下旬に引越しするまでずっと続いた。
・《和田君のことC》これも、私と和田君が福岡で同居していたとき、和田君のバイクが誰かに盗まれたことがあったが、次の日私の高級自転車(高知にいたとき、お母さんが高校の進学祝に買ってくれた4万5千円の自転車→古畑任三郎)が何者かに盗まれた。その日は1時限目が英語の?試験で遅れると大変なことになっていた。運良くバスが通りがかってなんとかぎりぎりで間に合った。私は実際に盗んだところを見たわけではないから何とも言えないが、当時は和田君と私がミンキーモモの件で喧嘩していた頃で、どうも和田君が独りよがりで私が和田君のバイクを盗んだと勘違いして、その仕返しに和田君が私の自転車を盗ったらしい。
・《和田君のことD》私と和田君が福岡で同居していたとき、和田君が「風邪を引いた」と言って私の保険証を借りて使ったことがある(詐欺罪)。
27 ガラスの枯葉の哀歌(エレジー) ・ラジオ文明←『ズームイン!朝』学生時代私は毎朝これを見ていました。
・《吉村君のこと》和田君が佐賀医科大に合格して福岡の下宿を去ったあと、和田君と交代に私と高知学芸中学高等学校で同級生だった吉村隆博[たかひろ]君が入居してきた。じつは、私と吉村君とは以前から仲が良くなかった。吉村君が入居したのは和田君が自分だけで勝手に決めたことだった。吉村君が入居したその日からゴホゴホ咳ばかりしていた。私は和田君ですでに限界に来ていたから、吉村君に復讐することにした。吉村君の歯ブラシを便器にぶち込んでやったし、吉村君のプラスチック製の青い熊さんの氷かき器『キョロちゃん』を吉村君のフライパンの上に乗せて熱して溶かしてやった。これに懲りて吉村君は2週間くらいで早々と出て行った。それから1年間、私は九大教養部2回生として3LDKの住居を快適に独占することとなった。その後約20年間、私はずっと独り暮らしだ。
28 破局への序奏(イントロダクション) 《薫的のおじいさんのこと》私が小学生の頃は毎年夏になると土佐山村の畑で作ったきび(とうもろこし)やきゅうり(50cmぐらいあるやつ)を、伊野の山で取れたタケノコを持ってきてくれた。鳥が好きで山で取ってきた20種類ぐらいの山鳥を家で飼っていた。餌になるミノムシを私が朝倉の県営住宅で集めたことがある。マンガは『冒険王』しか読んではいけないと言った。当時の冒険王には、どたまジン太や21えもんなどが載っていた。小学1,2年生のときには、“ミツバチの子”を1匹だけ食えと言われて食べたことがある。私のために鳥籠[とりかご]を作り直した虫かごを作ってくれて、私がそれを気に入っていろんな虫を片っ端から捕まえてはその中に放り込んでいた。ときには、おじいさんがミヤマクワガタやオオクワガタやカブトムシを山で取ってきて私にくれた。…ところが、私が中3のときオナニーし始めて高1のとき分裂病にかかってわけのわからないことを言って母を泣かせて、母が困って薫的のおじいさんに電話をかけたとき、私がおじいさんに「ノブくんは何のために勉強しゆがで」と怒られて以来、私はお母さんを悲しませた罪でおじいさんに嫌われてしまった。そのあと、私が九州大学医学部に入学してから少しは機嫌を直してくれたみたいだが。(結局、それも無駄になってしまった。)…このように、私のおじいさんはけっして意地悪ではなく、子供の頃にはとても優しくしてくれた。ただ一度だけ私が幼稚園の頃におじいさんといっしょに越前町へ買い物に行ったとき、私が“機関車がクルクル回るブリキのおもちゃ”(ヨネザワ製バケーションランド、電車回りともいう)を買って欲しいとせがんだのにニヤリと(“意地悪”そうに?)笑って買ってくれないことがあった(たぶん、芝居)。
29 迷宮の輪唱(ラウンド) 《お母さんのこと》お母さんは私が赤ちゃんの頃から32才で九大理学部物理学科を卒業するまでずっと私のことをかわいがってくれた。私が小学生の頃朝倉の県営住宅に居た頃には、家で内職(半田ゴテでティッシュペーパーの袋を閉じたり、YKKのチャックの金具を閉じる仕事)をしていたし、私が中3のとき旭に引越ししてから32才で大学を卒業するまでずっと自宅から平日は毎日パートタイマーに通っていた。(私が狂ったあとでは、いくらお金を送ってくれても無駄だったが。)弟が白血病で倒れて高知医大病院に入院したときには、毎日夕方5時に仕事が終わってから片道1時間のバスで高知医大病院に通って弟の世話をしてから帰ってくる生活を1年半ぐらい続けていたが、病院通いの辛さがたたって冬場風邪をこじらせて肺炎にかかって気胸(肺に穴が開くこと)を来たし入院してしまった。その後は仕事をやめた。弟は子供の頃メロンパンが好きで、入院中も母がスーパーで買ってくるマスクメロンを喜んで食べていた(→デ・ジ・キャラット)。弟にはギターを弾く趣味があり、穴の開いたギターにベニヤ板を貼って直していた(→『仰天人間バトシーラー』のウェーブライト・タタリ)。
30 心の雨に子守歌(ララバイ) 《妹のこと》妹は私が10才のときに産まれた(→マジカルエミ『雲光る』)。産まれたときに軽い黄胆にかかって光療法のために両目をガーゼで覆っていたので、私はてっきり単眼だと思ってびびった。幼稚園に入る前は、いつも弟が抱っこして弟とばかり遊んでいた。妹の顔は私よりも弟に似ている。横内[よこうち]に引越ししてから、みかづき幼稚園に入った(私と弟は朝倉第2小学校に通ったが、妹は旭東小学校に通った。弟は小学5年頃から登校拒否になったし、妹は朝2小に通ったことがない。(→えりこの阿木星吾=朝2小5と朝霧麗=朝切0))小学5年頃、私が医学生で夏休み帰省したときには、2人でいっしょに鏡川に泳ぎに行った。中学生の頃には、当時私が太っていたのを真似て妹も大食いして太っていた(→ようこの花梨)。高校に入学してまもなく、先生と気が合わなくて中退してしまった。当時私が九大医学部に通っているのを妹が真似して、自分も看護学校に通いたいと言い出したが、母がそれを許さなかった。その後、あちこちでアルバイトをして(いっときは、石鎚山の土小屋のロッジでウエイトレスをしていたが、仕事が朝早く夜遅いので3ヶ月ぐらいでやめてしまった…高校生のとき登山部だった私の真似)、18才で自動車免許を取って、21才で仕事でヨレヨレになって帰省した私に失望して(→少女革命ウテナ)、22才でコーヒーの販売で知り合った男性と結婚した。ちなみに、私と妹がけんかしたことはない。身体を触れたことすらないくらいだ。
31 嵐の中の間奏曲(インテルメッツォ) 《お母さんが私にしてくれたこと》
1.中1のとき、妹のセーターを編んで余った毛糸で私のためにマフラーを編んでくれた。茶色の毛糸で、毛糸の量が足りなかったので、マフラーは市松模様みたいにいっぱい四角い穴が開いていた。そのマフラーは、私が九大医学部4回生頃まで大切に妹のプラスチックのお櫃[ひつ]の中にしまっていたが、私が医学が嫌いで嫌いでしょうがなくて鬱病になっていたとき、「お母さんの役立たず」と八つ当たりして、お母さんの写真といっしょにゴミに捨ててしまった。
2.私が故郷の高知を出て福岡に住んでいたときには、年に4〜5回ぐらいダンボールの箱いっぱいに果物やスーパーのお菓子の袋を入れて宅急便で送ってくれた。依光[よりみつ]のごぼうの天ぷらと門田のマリネが私の好物だったので、よく入れてくれていた。九大物理学科で箱崎に住んでいたとき、ブドウを送ってくれたが、夏の高温でブドウが傷んでいて、ブドウを食べた私は顔やら首やらがパンパンに腫れ上がって、ごはんを食べるとき顎を動かすたびにヒリヒリして涙が出るほど痛かった。1週間ぐらい経って治った。
3.私が小学2年ぐらいのとき、ディズニーのバンビのパズル(30片ぐらい)の裏にマジックペンで数字を書いて算数の数字の勉強をさせてくれた。
4.料理が上手(特に煮物)。ただし、焼魚はほとんど黒コゲ。キンピラごぼうは激辛。
5.赤ちゃんのオムツは、たらいと洗濯板を使って自分の手でゴシゴシ洗う。
32 終りなき情熱の舞曲(ダンス) 《お父さんが私にしてくれたこと》
1.自転車のパンクを直してくれた。
2.小学館の学習雑誌の紙の幻灯機の付録(10円)を古本屋でお土産に買ってきてくれた。
3.小学2年ぐらいのとき、日曜日にカブで正連寺のゴルフ場や繁藤[しげとう]の山に連れて行ってくれた。繁藤の山では、オオゾウムシやオトシブミがいた。[別な話だが、医学部3回生のときサイクリングで伊野神社に水飲みに寄ったとき、境内の裏にオオナナフシ(→『機動戦艦ナデシコ』)がいた。動きがすごくのろくて大きくて(50cmくらい)葉っぱにそっくりなのでビックリした。]
4.朝倉の県営住宅23号に住んでいたとき、5分間だけ父とキャッチボールをした(→巨人の星?)。父はいかにも嫌々気[いやいやげ]でしかたなさそうだった。
5.横内の家にいたとき、玄関の天井裏の大きなスズメバチの巣を煙でいぶして一人で除けてくれた。
6.私が医学部を辞めてポケットベルの解約をNTTに頼んだら、下宿の電話も解約されて電話が不通になっていたとき、心配して家から飛行機で駆けつけてくれた(その前に、電報でも入れてくれればよかったのに)。福岡に来たついでに、西新[にしじん]の商店街や福岡タワーや福岡歴史館(邪馬台国の金印がある)や水族館などを案内してあげた。父親がぜひ水鏡神社に連れて行ってくれとせがんだので、地下鉄に乗って連れて行ってやった。
33 あぶない物語曲(レジェンド) 《私が小学生だった頃の家族の休日の過ごし方》
1.月に一度家族全員で自転車に乗って帯屋町に行く。鏡川沿いの細い道を通って自転車で帯屋町に行く。大橋通りか大丸の横に自転車を留める。はじめに日曜市を見てまわり、それから帯屋町に行く。大橋通から大丸に行って土電で折り返して大橋通まで戻るのがいつものルート。私は必ずどこかの本屋さんに寄って本を買う。金高堂が多かった。大丸横の『都まん』か帯屋町通りに面した喫茶店(名前忘れた)でお昼を取った。『都まん』では必ず“中華そば”と都まんを食べた。お母さんが「ここのラーメンが一番美味しい」と言っていた。私がラーメンをもっと食べたそうにしていると、お母さんが「もうお腹いっぱいになった」と言って、ラーメンの残りを私に分けてくれた(→一杯の掛けそば)。喫茶店では必ず2階の窓際の席に座って、私はいつも“クリームソーダ”を頼んだ。大丸か土電の地下で晩御飯のおかずやお菓子を買った。門田のお肉屋さんの“鳥の足”がすごく美味しかった。
2.天気のいい日には、たまにお母さんがお昼の弁当を作って家族全員で鏡川の河原へサイクリングへ行った。河原では、水路を作ったり、木に登ったり、平たい石を探して水切りをしたりして遊んだ。私が大きな石を川に投げ込んで、跳ね返った水でみんなの服がびしょ濡れになったことがあった(→ようこ#21)。
3.一度、お母さんと私と弟とでちょっと遠くの仁淀川までサイクリングに行ったことがある。
4.テレビ塔(烏帽子山)や鷲尾山に登った。五台山にも行った。[高知市の南には、300m級の低い山地がある。この山地のおかげで高知市には海の潮臭い湿気が届かないし、秋の台風の強風も防いでくれる。]
5.給料日の前になるとカレー、給料日のあとではくじら肉のすき焼きを必ず食べた。
34 それぞれの夜想曲(ノクターン) 《父親のこと》父親が小学生の頃は、すごい甘えん坊で、毎日母親に背負ってもらって学校まで通っていたそうだ。末っ子で、兄弟全員が男の子で女の子が欲しかったので、男でも女でも使える名前にしたそうだ(→じゃりん子チエのチエちゃんの母親の名前)。学校での成績は常に一番で、小学校の6年間ずっと級長を務め、一番後ろの席に座っていたそうだ。(ただ一度だけ、他の子に級長の座を奪われたことがあったらしい。)[とりわけ長男一馬[かずま]の記憶力はずば抜けていて、分厚い歴史の教科書を一晩で憶えたそうだ(私は社会科や生物学などの暗記物が苦手。歴史の教科書は最初の2ページ(アウストラロピテクスなど)がわかっただけ。)。]おまけに、スポーツ万能で、とくに球技とスキーが得意(私と反対)。風邪にかかって40℃を越える熱が出たが、家族全員が大の医者嫌いで精神力だけで治そうとして頑張った。ちなみに、川野家の本家は福岡の呉服町にある。先祖は与力だったが、農民に味方した罪で武士の身分を奪われ農家になった。
・項介「あたりきしゃりきの車引き」(項も介も、数学用語から。項は多項式、介は媒介変数(パラメーター))=小学生のとき朝倉の県営住宅に住んでいた頃、浅野先輩に誘われて大八車(リヤカー)をちょっとだけ(10mぐらい)引いたことがある。(→ドクタースランプあられちゃん)
・えり子の口紅=私が小学4年生のとき、母の口紅を付けたことがある。他人に知れるとヤバイと思って、すぐに拭いた。
・おさわりじいさん=升形の富田先生(小児科医者)。私が風邪を引いて“富田さん”にかかると、たいていお尻に注射をされた(→魔法の妖精ペルシャ)。
35 翼をくれた讃歌(グローリア) 《母親のこと》母親は高知の大杉の奥の立川[たちかわ]というところの山奥育ちで、戦前は地主の大きなお屋敷に住んでいたが、戦後の農地改革で屋敷も山も田畑もアメリカに取られて、焼け野原になった高知市へ引越しして来た。小学生の頃は女番長を張っていて、『鬼百合』と呼ばれて恐れられていた。友達の女の子が男の子にいじめられているのを見て我慢ができず、取っ組み合いをして相手の男の子を失明寸前にしたことがある。とにかくけんかは男勝りで強かった。子供の頃、夏の日夕涼みに河原に行ったら、突然“人だま”が現れて逃げても逃げても追いかけてきて、ようやく近所のおじさんの家に命からがら飛び込んで助かったことがあるそうだ。ある日、水泳大会の選手に選ばれたが、嫌で嫌で心の中で必死に先生に訴えたら、次の日別の人に代えてくれたそうだ。若い娘の頃は帯屋町のおもちゃ屋で働いていたが、ある日店長さんに叱られて電車通りをずっと泣きながら家まで帰ったことがあるそうだ。父親とは見合い結婚。私が小学生の頃、青森県の恐山に一度行ってみたいと言っていた。
・今から20年ぐらい前、私が医学生をしていた頃、母は高知市帯屋町にある『麺房三宅[みやけ]』でアルバイトをしていた。私の学費と生活費を稼ぐためである。高知放送のニュースキャスターもよく食べに来ていたそうだ。ところが、ある日老夫婦の2人連れが店に来たとき、店の主人が老夫婦のみすぼらしい身なりを見て、嫌な客を追い払おうとして腐ったレモンの輪切りを出した。それを見た母は怒って、その日限りで長年勤めていたアルバイトを辞めてしまった。それから母は高知新聞の求人広告を見て、2週間後別のアルバイトを始めたが、以前よりもきつい仕事のようだった。
36 魔天楼に響く交声曲(カンタータ) 《薫的のおばあさん(母親の母)のこと》子供の頃から、会うたびにいつもにこにこしている。顔を会わせている間中休む暇なく早口で話している。泣いているときでも笑って見える。アニメが大好きで、たいてい会いに行くとテレビでアニメをやっている。[『悪魔くん』の百目が私の母で、鳥乙女ナスカが親戚の叔母さんで、『ぼくパタリロ!』のパタリロが私であることを知っていて、頭の中でテレパシーで私に話していた。]私が医学生だった頃、一度だけ食べたおばあさんの作った『鯖ずし』が絶品だった。
37 愛と優しさの多重音楽(ポリフォニー) 《北のおばあさん(父親の母)のこと》
私が物心ついてから私と一番長く話をしたのは、私の母でも父でもなく、北(高知市長尾山町)のおばあさんだった。
医学部で帰省したときには、毎年必ず北のおばあさんのところに行って、話を聞いた。昔話をすることが、ボケの予防になるそうだ。
1.戦時中戦闘機に撃たれそうになったこと。迫ってくる機関銃の土煙に身がすくんで動けなくなったところに、男の人が横から飛び掛って助けてくれた。
2.終戦後、蒸気機関車に窓から乗ったこと。誰かがお尻を押してくれた。
3.愛媛で始めて複葉機を見た。
4.ハレー彗星を見た。
5.昔、鴻ノ森にお城があって、ある晩殿様が盗賊に夜襲を受けたとき、お姫様を布団にくるんで北の坂からゴロゴロ突き落として逃がした。
北のおばあさんは、福岡女学校(現在の福岡女学院)でつねに2番の成績だったそうだ。
会いに行くと必ずお小遣いを沢山くれた。お正月に会いに行くと、必ず「数え年でいくつになるか?」と訊かれた。(私は今でも“数え年”の意味がわからない。)
私が朝倉の県営住宅に住んでいるとき、長尾山町から若草町までひとりで歩いて来たことがある。
私と一緒にニチイへ買い物に行って帰りにタクシーを降りるとき、「運転手さんに釣銭は要らないと言っておくと、今度から贔屓にして早く来てくれる」と言って笑った。
私が父母とけんかして10年ぐらい高知に帰らなくなっている間に、98歳で亡くなった。
38 うたかたの聖歌(キャロル)
39 栄光への行進曲(マーチ)
40 ささやかな交響組曲(シンフォニックスーツ)
41 不死鳥の旋律(メロディ)
42 恋に恋して田園曲(パストラル)
43 未来へ続く階謔曲(スケルツォ) ・現代人の心の不安を描いている。
44 揺れ動く心の詩曲(ポエム) ・とくになにもないところがいい。
45 真冬の恋歌(ラブソング)
46 かきみだされた斉唱(ユニゾン)
47 きらめきの祝福曲(ソリュージョン) 北原さん=松田くん(高知学芸中学2年の1学期だけ同級生だった。東京に転校して行った。)
48 感謝をこめた卒業曲(ほたるのひかり)
49 さまよいの装飾曲(アラベスク)
50 風がはこんだ衆讃歌(コラール) ・田村えり子の失踪[しっそう]=日本政府が神武天皇を神としなくなったこと。天皇の人間宣言は表向きの嘘[うそ]で、実際には私が神武天皇に替わってから本当に神武天皇が神ではなくなったのである。[しかし、最近はまた神武天皇が神に戻りつつある。反対に、私が神ではなくなりつつある。(h22.10.9記す)]
なんとなく似てるっぽい絵。(私が小学中学年頃)
天皇の幼い頃
左上
大きい『杉』の字だから、大杉。
高知県の大杉。これは私のネタ。
・ロックマン上條[かみじょう]=私(ロックマン→ロック→6→の→延夫[のぶお](私の名)→私。)
51 そよ風の前奏曲(プロローグ) ・えり子がそよ風高原に現れる=世界大戦から60年以上経った今では日本の敗戦の記憶がなくなりつつあるので、日本政府が再び神武天皇を神とする国家宗教をだんだんやるようになっていること。(h22.10.9記す)
・そよかぜ高原の黒山の人だかり=天皇の顔を見るために集まった人の群れ。どこでも天皇が来ると知ったら、天皇を見に来る人が大勢いるものである。
・そよかぜ高原=私が高校の登山部のときに行った愛媛県の別子銅山近くの“一年中風が止まない峠”のこと。

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