女のものの考え方 h14.8.13
女は一生の間現象界の中に生きている。
五感界、つまり遺伝的に受け継いだ実在観だけに基づいて反応している。
言葉になった理由がない。
それでも、下手な理由よりは当たることがある。


ガンダム第12話「ジオンの脅威」を見て h14.8.13
みんなが一体、幼稚な世界観だ。
医学があるから個人に分かれる。
脳があるから感覚できる。
脳が一人一人別々であれば、感覚だってそうだ。
感覚界はその人独りだけのものだ。
自分の感覚界は自分が創る。
実在に行こうが、現象のままでいようが個人の勝手だ。
もっとも、人間は本当は実在の中に生きているのであり、
現象は実在と違うので、現象では実在に不適応になる。
感覚界の外に実在が在る。
実在の中に生きる物にとっては実在に従うしかない。
五感で見えるものを知覚で考えれば実在が見える。
実在は在る。しかし、五感で見たものとはかなり違っているのだ。
実物はこんなに楽しい色なんかついているわけがない。


終りなき道 h14.8.14
ひとつ文を書くことは、一歩前へ進むことだ。
一歩一歩積み重ねていけば遠くまで行ける。


第16話「セイラ出撃」 h14.8.15
これでセイラさんも頭のおかしな連中の仲間入りだね。


私の夢 h14.8.20
ミンキーモモではないけれど、この私でさえ夢がある。
それは、『仕事のない社会をつくること』だ。
人間が仕事をせずに生きていけるようになったら人生ハッピーだ。
そのためには、奴隷を機械に置き換えればいいのだ。
残念ながら今の私には自分の夢を実現する機会はないが、それでも私は自分の夢を捨てるつもりはない。


どうして私はアニメを見るのか? h14.8.20
人間は自分が思っているほど実在的ではない。
人間の感覚界は実在と現象がゴチャまぜだ。むしろ、ほとんどが現象で、一部分が改良されて実在になっているにすぎない。
人間には実在に従う心と現象に従う心の両方がある。ほとんど大部分が現象に従う心で、一部分だけが実在に従う心であるにすぎない。
だから、現象に従う心を満足させねば、人間は安定に存在できないのだ。(甘え)


テレビアニメの正しい見方 h14.8.22
私は劇場版アニメのコリコリの絵よりも、テレビアニメの簡素な絵のほうが好きだ。
テレビアニメは劇場版のようには見れない。
劇場版アニメはディテールが細かくて非の打ち所がないが、テレビアニメはディテールが甘くてコンセプトだけだ。
だから、テレビアニメを見るときはディテールにこだわってはいけない。
例えば、ガンダムを見るときに、そのあまりの絵のデキにあきれて「絵が汚いなあ」と思っても、その不快な気持ちにとらわれずその不快な気持ちを打ち消すようにして見なければならない。
テレビアニメは必要なことしか描いていないので、ディテールはいいかげんなのである。だから、ディテールは下手で汚い。ディテールにとらわれると、せっかくのおいしいところを見逃してしまう。
テレビアニメはディテールを打ち消してコンセプトだけを拾うようにして、“抽象的に”見なくてはならない。そうすれば、テレビアニメは楽しく見られる。


頭の良い子はアニメを見る。 h14.8.22
アニメは眼(五感)と頭(知覚)の両方で見る。
たしかにアニメは絵だから眼で見るものには違いないが、同時にアニメにはストーリーもあるのでストーリーを解するには頭で見なくてはならない。
つまり、アニメはけっこう頭を使って見るものなのである。けっして、バカが見るものではない。


守護霊よ、さらば h14.8.22
自分が生まれつき持っている実在の(に対する)イメージは、自分の両親・先祖から遺伝的に与えられたものだ。
子供のうちは生まれつき持っている実在観の(に基づいた)反応だけで生きている。喜びも悲しみも、その世界観の内にある(世界観に従属する)。
自分に遺伝的・先天的に与えられた実在観は、いわば自分にとっての守護霊のようなものだ。
自分が考えて作った知覚(界)は、先祖から与えられた実在観をのりこえる。それは、自分の先祖と縁を切ること、守護霊が自分から離れることでもある。
例えば、それが哲学第一原理にほかならない。


ホームページのindexのデザインがダサいと、Yahoo!の登録から削除されるらしいぞ。


「強襲トリプルドム」 h14.8.23
トリプルドムのジェットストリームアタックに対し、ガンダムパーツとコアファイターを分離して3対3で戦ったらええやろ。


第17話「危険なおるすばん」 h14.8.23
魔法で学と力を女の子に変えて、家事をさせたらええやろ。

ア一般
ゲームはアニメの敵だ。 h14.8.23
アニメはテレビを見るだけなので、まだ実在とのつながりが半分残っている。
ゲームは、ゲームの世界の中だけで見て行動するので、実在から完全に切り離れていて、くだらなさすぎる。
ゲームが出来たおかげで、1990年代以降アニメがつまらなくなった。昔のアニメはもっとおもしろかった。


ア一般
男の見るアニメ h14.8.23
最近のアニメは絵がキレイなだけで話におもしろ味がない。
その点昔のアニメは絵こそ汚かれ、話はすんごくおもしろかった。
なかでも、タイガーマスク、あしたのジョー、宇宙戦艦ヤマト、ガンダムは出色だ。
毎回涙がチョチョ切れるぐらいおもしろかった。うる星やつらなんか足元にも及ばない。
美少女アニメもいいけれど、しょせん絵がキレイなだけだ。
美少女アニメは本来女の子が見るもので、女の子の心には眼で見えるキレイなものに対する快感しかないので、美少女アニメを見てもそんな喜びしか得られない。安っぽくて、たわいない。どうりで、パステルユーミが受けなかったわけだ。
女には眼(五感)で見る喜びしかないが、男には頭(知覚)で見る喜びがあるので、男のほうが女よりも楽しみをより多くより強く味わうことができる。男に生まれて幸せだ。睾丸という字は‘血の幸せ’と書く。少なく見積もっても、男には眼で見る喜びと頭で見る喜びの二つの喜びがある。
男として生まれたら男心を興奮させるような‘戦う系’アニメを見るべきである。
ひいてはそれが日本の景気回復につながる。

ア一般
絵だけアニメ h14.8.23
ぴえろのアニメをよく‘絵だけアニメ(話はおもしろくない)’と言うけれど、裏を返せば「絵はいい」ということだ。
女の子は眼で見た喜びしかないから、「絵がいい」ことは女の子向けアニメにとってはとても大事なことだ。
絵だけアニメは絵しか取り柄がないけれど、それでも取り柄があるということだから、その取り柄を大切にしてもらいたいです。
今の男の子が女の子みたいになったのは、‘絵だけアニメ’のせいだろう。情報操作でフヌケにされたのだ。
昔のアニメはスポ根格闘系アニメが多かったから、女の子が男の子みたいだったぞ。

ア クリィミーマミ
男女関係 h14.8.23
うる星やつらのあたるとラムのイザコザした男女関係とは違って、優と俊夫の男女関係は若くてすがすがしくて気持ちがいい。
実在の男女関係もこんなだったらいいな。

チャット h14.8.25
マジカルエミDVD−BOX2が着いた。あいかわらず背景が色にじみがなくてきれいだった。音も澄んでいて心地よい。映像特典の艶姿魔法の三人娘のペルシャのOPが色が濃くてきれいだった。でも、さすがにペルシャは線が太〜い。ペルシャと舞が優を階段からこかすところがよかった。

チャット h14.8.25
CS仮登録完了。
インターネットで申し込んでから20時間くらいで見えるようになった。ひさしぶり(5年ぶり!)にアニメが見れる、万歳!

チャット h14.8.26
君はどのチャンネルがいいと思う?

チャット h14.8.26
今日見た中では、AT−Xの‘仰天人間バトシーラー’と‘ついでにとんちんかん’がおもしろかった。私は、‘未来少年コナン’が見たかったのだが、ANIMAXで昨日で終っていた。

ア h14.8.26

アニメのペルシャなんかより、うちのお母さんのほうがずっといい。うちのお母さんのほうがずっと感情豊かだ。ペルシャは美人だけど、心がちょっと冷たいね。

ア h14.8.26
エミ
第32話「お風呂場でドッキリ」
岬の頭が邪魔だ。

チャット h14.8.28
もっと早くからCSに入っていたらよかった(泣)。でも、再放送のアニメが新しすぎる。できれば、もっと古いアニメ(線に味のある毛筆タッチのやつ)をやって欲しい。

不思議の島のフローネ
『船が見えた』 h14.8.28
仰向けに寝そべって双眼鏡を覗きながら足で身体を回すところが子供っぽくてかわいらしい。
これこそ私が長年追い求めていたものだ。

チャット h14.8.31
ファミリー劇場とアニメシアターXに決めた。

☆☆☆
ファンシーララ
『勝平君の話(サブタイトル忘れた)』8.26
羽根石さんて、カッコが立派なだけで、中身はズタボロだね。
ひと皮むけばただのバカだ。
こんなプロダクション、そのうちつぶれるわ。

まんが世界昔ばなし
『おばあさんとクマの話』(エスキモー)8.26
ええ話やなあ。これこそ文学やー。

ミンキーモモ(初代)
『夢見るダイヤモンド』8.26
美しい話でした、ありがとう。
アニメは絵やない、話や。
もくだい典子の絵も、素朴で純情でよかった。

アニ一般
“熱血スポ根アニメ”8.26
アニメのほうが真剣勝負で、実戦のほうが八百長だ。
アニメのほうが盛り上がるのもしかたがない。

モモ(初代)
『大いなる遺産』8.26
空モモのわたなべひろしの絵はイキがっていてかわい気がない。
絵がきれいで細かいだけで心が出ていない。
でも、海モモの絵は好き。

アニ一般8.26
男の子をゲームに取られて、女の子しかアニメを見ない。
最近のアニメは女の子ばっかりだ。

新ルパン3世
『十年金庫は破れるか?』8.26
「開けゴマ!」
で笑えるのが大人なんだろう。
二度と見るか!

パステルユーミ8.26
これを面白いとする人は、一生面白さとは何かがわからない人だろう。
面白くないものは面白くないとしよう。
面白くないものがわかれば、面白いものもわかる。
それにしても、絵心のないスポンサーやなあ。

エミ8.26
話のことはよくわからんが、とにかく絵がかっこいいアニメだ。


エミ
『お風呂場でドッキリ!』8.26
将君は冷静にヘアブラシのことを考えているのに、舞は浮ついて自分のハダカのことしか考えていない。
女は自分のハダカに価値があると思っているが、男の目では一円の値打ちもない。
女は自分のハダカの代償に当然男がお金を支払うものだと考えているが、それは女の思い上がりだ。
男の目で見れば、女は家事育児をこなしてこそ価値がある。それ以外は無価値だ。
一般に、女にとっては現象が価値で実在が無価値だが、
男にとっては現象が無価値で、実在こそが価値なのだ。
将君がもっと男だったら、スーパーの百均のブラシを同じブラシだと言って舞いにあげたかもしれない。

アニ一般
後進国日本8.27
日本が世界に誇る(?)産業はアニメだ。
アニメは絵の文化だ。
絵は眼で見るものだ。
五感の発達した日本人の感性は、知覚の発達した西洋人の感性に劣っている。
西洋人は言葉を使って考えることにおいて長けている。
それにひきかえ日本人はただ眼で見るだけで考えない。
日本の文化は程度が低い。



どうして分裂病者は自分の間違いを認めようとしないのか?8.27
分裂病者は自分の五感(現象)と五感に複合する心を肯定しようとする。
だから、五感と複合する心において不快と見なされる対象に対して、これを排除するために攻撃する。
分裂病者における‘正しい’の意味は、自分の五感(=遺伝的に与えられた実在のイメージ・似姿)と合っていることにほかならない。反対に、‘まちがい’の意味は、自分の五感と合わないことである。分裂病者は自分の五感を絶対肯定しようとするから、自分の間違いを認められないのだ。つまり、本来間違いや正しさや無意味は知覚(界)における概念であり、五感(界)においてはそもそも間違いや正しさや無意味という概念が存在しないから、感覚が五感しかない分裂病者にとっては‘まちがい’とは何であるかがわからないために、自分の間違いをいつまでたっても認められないのだ。
正常者の感覚は五感から知覚へ進行するが、反対に分裂病者の感覚は知覚から五感へ退行する。☆分裂病者は自分の‘感覚の運動’の方向を決める意志(思想)に間違いがあって、‘感覚の運動’の方向が正常者とは向きが反対なのである。☆言葉(知覚)を使って考えようとする意志こそが、人間にとって必要不可欠なものである。
分裂病者は五感を肯定しようとするが、実際には五感(現象)は実在とは違っているから、五感(現象)の肯定は実在(知覚)の否定であり、実在に適応できなくなる。だから、五感を肯定しようとする者は最後には病気になる。

エミ
『お風呂場でドッキリ!』8.27
DVDーBOX2で聴いた“南国人魚姫”は小幡洋子の声が透き通っていて実に美しかった。
あと、お風呂の湯気がかわいかった。(LDだとよく見えん)


アニ一般
残念。8.27
ガンダムが敵のモビルスーツを倒す一瞬は実にかっこいい。
しかも、ガンダムでは毎回この一瞬が登場する。
魔法少女でも、‘めちゃくちゃかわいい’と思える一瞬があったらいいのになあ。
ないなあ、それが。


分裂病の治し方8.28
分裂病では五感は働くが知覚は活動しない状態になっている。
だから、知覚を活動させればいい。
そのためには、言葉を使って考えることを日常生活に取り入れればいい。
その際、他人の本を眼で見ながら書き写すのではなく、自分が頭の中で考えたことを言葉で表現することが肝心である。
これを毎日やり続ければ、そのうち治る。


女8.29
いつでも眼を大きく見開いて、黙ってただ見るだけだ。
頭の中では何も考えていない。
何も考えずにただ見るだけだ。
見て思うだけだ。
そんなことなら動物でもできる。
野蛮で下品だ。

ドラゴンボール8.30
鳥山明が仕事で描いただけ。ストーリーがありきたりでつまらん。

北斗の拳8,30
センスがヤボ。カッコつけすぎ。バカ好み。

ドクタースランプ・アラレちゃん8.30
まるで幼稚園の中にいるみたいだ。ムンムン。
くつろぐ、くつろぐ。


どうして私は音痴なのか?8.30
五感は現象であり、知覚は実在である。
五感はもともと真実ではないから五感では冗談が許されるが、知覚はできるかぎり真実でなければならないから知覚はつねに本気である。
五感は映像(イメージ)・絵の世界であり、知覚は概念(イデア)・言葉の世界である。
知覚はつねに真実でなければならないから、言葉を現象化してはならない。
すなわち歌は許されない。
アニメは絵だから見てもいい。

エミ
『ごめんねミーちゃん』9.1
高倉の絵がいい。顔の表情が冴えている。さすがDVD。

『妖精の森へようこそ』9.1
DVDで見ても岸義之の絵がヘタ。顔の表情があいまいで間抜け。

ファントピーの森がDVDで見るとずっときれいだった。
それにしても、「ガラス>宝石」なんて女の子のわかることじゃない。

『飛べ!スノードラゴン』9.1
DVDだと、ビッグバン前の雪像がきれいに見えた。
DVDだと顔の表情が細かくはっきり見えて楽しさが増す。
加藤鏡子でも高倉佳彦でも、LDだと表情がボヤけてわけがわからなかった。
はじめからDVDを買えばよかった。お金がもったいないことをした。

それにしても、陰気臭いタイトルやなあ(普通は明るい意味なのに)。

モモ初
わたなべひろしの絵9.1
自分の絵がうまいことを示すのが仕事の目的じゃないだろ。
モモを道具にするな。
モモの気持ちを絵にすることだけを考えて欲しい。
海モモではそんな気(自分の画才をひけらかそうとする気持ち)はないな。
さすがに年の功だ。

ガンダム
43『脱出』9.2
アムロのテレパシーの効果音がヘン。音が低い。

エミ
31『仲良し夫婦のギザギザ模様』9.2
こてまりショッピングアーケードが異様に狭い。高知の大橋通よりも狭い。
DVDで新しくわかったことは、小金井滋が自分の名前を書いた旗を持っていたことだ。
本放送をテレビで見たことがないもんで。
LDでは全然見えんかったもんね。

花の魔法使いマリーベル
『お菓子の家とおかしな二人』h14.9.2
マリーベルはかわいいけど、ユーリの‘声’がかわいくない。

一般論
今のアニメと昔のアニメh14.9.2
最近のアニメの絵はどうでもいいところばかりが細かく丁寧で、大事なところが手抜きで雑だ。つまり、背景ばかりが丁寧で、動画が下手だ。昔のアニメは、背景こそ雑だったが、その分動画が細かく丁寧で、まるでキャラクターが生きているようだった。動画にしても、ムダがなく大事なところしか描いていないので、すっきりしていて見心地がいい。動きがハデで感情表現がオーバーで面白い。かえって昔のアニメのほうが今より画風が洗練されていると言える。


‘実在しない’ことh14.9.2
知覚は五感から時間をかけて作られるから、はじめは知覚が五感に従属するが、最後には五感が知覚に従属する。大人においては五感が知覚に従属する。
したがって、五感は知覚に従属する五感と知覚に従属しない五感とに分かれる。
つまり、知覚に従属しない五感もある。
知覚は実在だから、知覚に従属しない五感は‘実在しない’ことである。いわゆる、‘ありえない’ことである。
そういう五感は‘実在しない’こととして楽しめばいい。
例えば、アニメやゲームの世界には、‘実在しない’けど楽しいことがいっぱいある。

エミ
h14.9.2
DVDの香月舞のほうがLDのペルシャよりも上だ。
ペルシャはキャラはハデだが話は地味で、このチグハグさがイマイチだ。キャラが話に合っていない。
エミはキャラも話も地味で統一されていて、見ても頭が混乱しない。


ガンダム
41「光る宇宙」9.2
アムロがうんこのポーズで前に出るところがおかしかった。
ララがインド人みたいで無表情でかわいくない。口ぶりも偉そう。
全然アムロのお母さんに似ていない。
よくもあんな娘好きになれたもんだ。
デギンのハゲ頭でコロニーレーザーをはね返してしまえ。
椅子に座るだけで、何にも‘出来ん’から、デギンと言うのだろう。

チャットh14.9.4
さっき、アキハバラ電脳組#1,2録画予約した。

アニ
仰天人間バトシーラー h14.9.4
ゴルコちゃんがブランドもんを欲しがっていたので、このマンガ家はいい人だと思った。
このアニメ(マンガ)、ほかのまねでないところがすごくいい。
OPのメロディが、いかにもナゴヤっぽい。
キャラクターがおもしろい。ウェーブ・ナイトが好き。

チャット9.4
明日のネオランガとハローレディリンも録画予約した。


バト9.5
ジャンヌ・ザルクの絵よりおさるの絵のほうがうまい。

中国の動画がこれほどおもしろいとは思わなかった。
普通じゃないよ、これは。

ドッとKONIちゃん
早口で何しゃべってるかわかんないよー


チャット9.5
アキハバラ電脳組#1良かったです。泣きました。胸にグッと来るアニメっていいですねえ。#2は今週土曜日に見る予定です。

チャット9.6
アキハバラ電脳組#3,4を録画しそこねてしまった。毎日やるなんて知らなかったから。どうしよう?

ア9.6
仮面ライダー
下手なミニチュアを使わないぶん不自然さがなくていい。

ハロー!レディリン
ちえっ、つまんねえ。思ったほどじゃねーや。

あずまんが大王
見てまーす。おもしろいよね。

OPはサイケばしっているけど、本編はおだやか。
絵は簡潔で見やすい。
毎週土曜日に塊めて見たほうが楽しい。

コニちゃん
画力もなかなか高い。
最近のアニメはまったくおもしろいですな。


ガンダム
女の子は主役でいるより脇役でいるほうが映えますなあ。

チャット
>パンジャさんへ ありがとう。でも手遅れでした。アキハバラ#3,4は過去の記憶と想像で補うことにします。


コニちゃん9.7
絵よりも声で魅せるアニメ。
感情のない早口が毎回笑える。
犬の早口があんまり早くない。
ライオンと白くまのけんかがよかった。

東進チャンネル1
私が中学生のとき英語や数学がよく出来た(軽く満点は取れた)のは、科目が好きだからではなく、先生がおもしろかったからだ。
ハンサムとかアニメの話題とかあると、だんぜんその科目が好きになる。
予備校の講師にとって一番大事なのは、講師の経験や知識なんかではなく、“講師のキャラクターがおもしろいこと”だ。

走れ!ケー100
K100ではなく、ケー100。
子供の頃は、本物の蒸気機関車だと信じていたから全話見たけれど(誰かが隠れて操縦しているまでは許せる)、大人の目で見れば、ただ排気ガスを煙突から出るように改造した自動車が見え見え。
こんなインチキ臭い番組バカバカしくて見る気がせんわ!

☆☆☆
フローネ9.3
フローネの家出9.3
眼が大きい分、ペリーヌよりはかわいい。

「名犬ジョリー」のセバスチャンに似ている。

ガンダム
最終防衛線9.3
ア・バオア・クーと月の反対側から行けば、楽にジオンに行けるんじゃないの?


4次元空間9.5
自分が住んでいるのは、時間のない3次元空間ではなく、時間のある4次元空間である。
自分が生まれる前も死んだ後も、自分はこの宇宙に存在している。
ただ感覚の発生が自分の生存中にしかないということだ。

ア一般
H14.9.6
これまでLDとDVDに百万円近く投資した。
都会にいて電波が来ればタダで済んだ。
アニメなんてちょっと見て楽しいと思ったらそれでいい。
‘楽しい思い’がアニメの価値なのであって、なにもLD自体に価値があるわけじゃない。
高いLDも見飽きたらなんの価値もない。
“物にこだわる必要はない。”
ソフト代に金かけるのが田舎者やなあ。

H14.9.6
アニメは娯楽であって実学じゃない。(アニメは現象であって実在ではない。)
実学には高い投資は認められても、たかが娯楽に高い金をかけるのは利口ではない。
アニメはなるべくタダで楽しもう。
お金は有効に使おう。


私はなぜ笑わないのか?9.7
お前ら(≡私以外の大部分の人間)が笑うのは、現象か空想の喜びのときだけやろうが。
現象や空想の喜びは実在の喜びに較べてくだらない。非人間的だ。
私の感性(≡感覚の性質)が知覚的で実在的であるために、私は実在の喜びでしか笑わないのだ。


北斗の拳9.7
ムダッ気(=どうでもいいことに凝っていること)ばっかり。
いかにもアホが喜びそうな絵だ。

チャット9.8
夕方の《ドラゴンボールアワー》がいいので、アニマックスにも入ることにした。未来少年コナンや侍ジャイアンツもおもしろいしね。

ア一般
ぴえろ魔法少女9.9
ぴえろ魔法少女は“かわいさ”に始まり、“中性感”に尽きる。
“かわいさ”では洞沢由美子の右に出る者はいない。でも、中性感はあまりない。
“中性感”においては、
ペルシャでは、三原武憲(第29話)、千葉順三(第43,46話)が優れている。
エミでは、岸義之(第13話)、高倉佳彦(大体全部)、加藤鏡子(大体全部)、高岡希一(全部)が濃い。

あと、岸義之の絵がヘタ。岸の回はストーリーがいいだけ。
ファンシーララの篠原みほも(ララも)“中性感”がかなりあるが、絵がちょっと手ぬき。
“中性感”のおもしろさは、ペルシャのほうが舞やみほよりも強い。
クリィミーマミは、優が太目で男の子には見えにくい。
ユーミは男女の区別にかかわらず不細工すぎて見ても気持ちがよくない。

ア一般
アニメと実在の関係9・9
マンガやアニメはあくまでも冗談。実在のほうが大事なことは言うまでもない。
アニメはしょせん仕事の間の暇つぶしにすぎない。

チャット
さっきヤフオクを覗いてみたら今年の11月25日にファンシーララのDVD−BOX発売(定価2万8千円)とあった。ファンシーララは絵が手ぬきだけど、みほは中性感がそこそこあるし、どうしようかな?

コニちゃん9.9
MOROちゃんが髪型がせこくてぼくと同じでかわいいでみゅー。

ア一般9.9
テレビとぼくとはもはや一心同体。寝るときもテレビをつけとかないと眠れないのだ。

バトシーラー9.9
転身したときだけまとも(?)になれるポンコツ人間ばっかりのパーティーが
わびしくもまた楽しい。

ガンダム9.9
“マグネット・コーティング”9.9
ふつうパワーアップしたら形も少しは変わるやろうが。前と同じやないか。

侍ジャイアンツ9.9
番場蛮のあまりの田舎者くささ
に、同郷の私ですら眼をおおいたくなる。
前のEDの歌がいい。

コニ9.9
#10、2題/平成14年9月9日
MOROちゃんがゆで卵にされて悲しかったでみゅー。

MOROちゃんに興奮したエレキ団のおっさんのモッコリに思わず大笑い。

ネオランガ9.9
ストーリーで見る。2nd.Seasonの虚神が出てくるまでねばりぬくぞ。

コニ9.10
#11の1/9月10日
イワンの娘の早口が早すぎてオチがわからなかったよー。

ガンダム
“ガルマ・ザビ”9.10
ガルマの意味は、‘オカマ’(女っぽい男)。
‘ガルマ’のルを取ったら‘カマ’。それにオを足したら‘オカマ’だから。
髪を指でなでるしぐさが、それっぽい。

コニ9.12
#13
今回はMOROちゃんのアップが多くて、とっても萌え萌え〜。

侍ジャイアンツ9.12
あまり有名でないはずなのに、アニマックスでやっているのが不思議。

チャット9.12
篠原みほのキャラのインパクトが弱いから、DVDはやーめたっと。どうせ全26話しかないし。それよか早く、ペルシャのDVD売ってくれんかな。きれいな絵でぜひ見てみたい。

コニh14.9.13
HIGHちゃん、NARIちゃん、MOROちゃん、みんなバカの代表だね。まるでバカのデパートだ。
KONIちゃんだけがバカじゃない。
バカがいるから、おもしろい。おかしい。
ギャグとは、人間のバカさ(現象への囚われ)を描いたものだ。反面教師だ。
それはバカの見本であって、自分の見本(とすべきもの)ではない。ここが肝心。

ネオランガ9.14
#4「閃光に抱かれる」h14.9.14
爆発寸前の戦車からいちいち人が抜け出さないかんもんやなーっ。

☆☆☆
今月の目玉h14.9.9
2002年9月
ファミリー劇場
 天使になるもんっ
 アキハバラ電脳組
アニマックス
 超時空要塞マクロス10/7〜
 ドッとKONIちゃん
 ドラゴンボール
 未来少年コナン
 侍ジャイアンツ
ATーX
 あずまんが大王
 仰天人間バトシーラー
 ネオランガ
 東京ミュウミュウ9/29〜
 六門天外モンコレナイト9/26〜
地上波はおもしろくないから無視。

ア一般9.9
“中性感のわかりかた”h14.9.9
海モモ→花園ユーミ→ファンシーララ→香月舞→ペルシャ

Step1.海モモ(二代目モモ)…わたなべひろし、梶浦紳一郎、堀内修
 ↓
Step2.花園ユーミ…伊達真紅郎、上條修、下田正美など
      ファンシーララ…大体全部
 ↓
Step3.香月舞…高岡希一、高倉佳彦、加藤鏡子、岸義之
      ペルシャ…三原武憲、千葉順三
     (ペルシャが最高!)
注)男顔に見えるまでは、次のStepに進まないこと。



私と同じことを考えた人々 h14.9.10
私が哲学日記でこれまで書いて来た文を、私は他人の書いた本の中で見たことがない。ただ、昔NHK教育でやっていたYOU(司会:糸井重里)という番組の中で、ある一人の若者が「自分の認識していることは、自分の頭(脳)でやっていると考えたらいい。」と訴えているのを見ただけだ。これはまさしく私の実在哲学第一原理と同じであり、デカルト哲学の原理でもある。
デカルト哲学の原理は「われ考えるゆえにわれ在り」だが、この意味は、「人間の思考はすべて人間の‘脳’において行われる」ということだ。つまり、人間は自分の脳においてしか認識する(感覚する)ことができない。自分の脳がなくなれば、自分の認識もまた消えてなくなる。今、自分に見えているものは、自分の脳において生じている像であって、対象自体ではない。したがって、自分が考える自分自身の姿もまた自分の‘脳’の所産(はたらきによって生まれたもの)にほかならない。
今日びでは、「人間が‘脳’で認識する」ことは、もはやあまりにも常識と化してしまっているが、このことは近代ではデカルトが最初に考え出したことなのである。


文化と文明9.10
もの(五感的イメージ)をことば(知覚的イデア)にすることが文化(つまり文に化えること)であり、逆にことばをものにすることが文明(つまり文を眼で見えるように明らかにすること)である。
文化あっての文明であり、文化なくしては文明もまたないのだ。


アニ一般
“どうして田舎ではアニメが少ないのか?”h14.9.11
解1)
田舎は百姓が多い。
百姓は頭(知覚)が生まれつき弱く、自分から頭(知覚)を働かして考えようとしない。
だから、百姓は‘実在の世界’がわかっていない。
そのため、百姓がアニメを見ると、アニメのことを真(ま)に受けやすい。
ところが、アニメは空想であり実在とは違うから、アニメを真に受けると実在に適応できなくなる。
つまり、田舎でアニメをやるとキチガイが増えるので、田舎ではアニメが放送できないのである。

解2)
田舎はおじいおばあばっかりで、若い夫婦は都会に出て行くので、田舎では子供があまりいなくて、お菓子やおもちゃが売れないから。



“日本の政治家はダメ人間”h14.9.11
今の日本の政治家に自分の人生を管理させても、自分が“人間らしく”生きて行けるとは思えない。
それはそもそも今の日本の政治家たちがダメ人間(人間をやめた動物)だからである。
そいつらに管理させると、人間が悪くなるだけだ。人間が動物に変えられる。
私は他人に管理されるのがいやだから、自分で自分を管理することにしたのだ。

管理そのものが悪いのではない。
悪人が管理すると社会全体が悪くなり、善人が管理すると社会が善くなる。
ただそれだけだ。


“英語と数学の類似点”h14.9.12
英語でひとつひとつの単語(例、boy,pen,…)の意味がわからなければ英文全体の意味がわからないように、数学でもひとつひとつの数学記号(例、0,1,∫,…)の意味がわからなければ数式全体の意味がわからない。ただし、英単語の意味の多くが五感のイメージの世界の中にあるのに対し、数学記号の意味は知覚のイデアの世界の中にある点が違っている。
数学の問題を解くのに、数学の問題に公式(定理)を適用して解くように、英文の読解にも、英語の問題文に構文(公文?)を適用して読解する。
このように、数学と英語とは見かけが違うだけで、やっていることは同じである。



“ことばの意味”h14.9.12
ことばは五感のイメージや知覚のイデアの表現であって、ことば自体は無意味である。
ことばとイメージやイデアとを‘対応づける’ことによって、はじめてことばが意味を持つ。


“実在”h14.9.12
眼(大脳皮質視覚野)で見えている世界は現象であって実在ではない。
ことば(ことばの実体としてのイデア)で考えている世界が実在の世界である。
つまり、実在の世界とは、物理学でいう電子・陽子・中性子・光子などの素粒子と、実在哲学でいう五感・知覚・感情などの感覚子から成る世界である。感覚子も素粒子の一種(つまり、感覚という‘量’を荷う素粒子)であるから、この世はすべて物質から成ると言える。


アキハバラ電脳組
「黒いディーバ」h14.9.16
黒いディーバが3匹のおばさんをやっつけたところがとてもカッコよかった(第二の感動)。
なんだか、すずめがいい味出している。
(第一の感動は第1話でひばりがデンスケを抱きしめるところ。)



アキハバラ電脳組
「新生」h14.9.17
絵がガタガタ。
そのうえビリケンがつぐみといっしょに歌っているのはなぜ?!


チャット9.17
やっぱ、ファンシーララは‘中性感’が最強! ‘中性感’がお好きな人は絶対買いでしょう。


#28「吸血鬼はバラの香り」9.17
富田祐弘の脚本がおもしろいのでまた見た。
いきなり吸血鬼(の影)がヘンな踊り。ムードがない。
はじめは絵が13号室の中に掛けてあったのに、
おわりでは通路に飾ってある。
絵そのものも屋敷が小屋に変わっている。
なんのこっちゃ?

#8「大変!学が女の子に」9.17
三原武憲が作監。
最初のころはホッペがブクブクしていて、
明らかにミンキーモモの上條修のマネだ。

アキハバラ電脳組
h14.9.17
「大鳥居つばめ」で検索していたら、アキハバラ電脳組について書いてあるすご〜い詳しいHPを見つけました。まさにHPの鑑です。(魔法少女のHPとはだいぶ違う。)
http://member.nifty.ne.jp/nelly/Sakuhin/CTiA/Scen17.html

アキハバラ電脳組にオンエア版とリテイク版の2種類があるなんて知らなかった。
私は今CSのファミリー劇場で見てるんだけど、オンエア版の回とリテイク版の回とが混ざって流れているみたい。
#17「新生」のときは、絵がガタガタなオンエア版だったけど、
#13「つばめ」のときは、くるっく1号2号が出ているリテイク版だった。
ああ、わからない!

チャット9.17
ペルシャへ>今日「大鳥居つばめ」で検索したら、2chに「大鳥居つばめ」のことが書いてあった。東大物理学科卒業で、ザコい仕事を転々としているとか。私と同じだね。前はつばめさんのことを東大卒とは思わなかったけど、今は本当だと思っている。

ペルシャへ>君は「大鳥居つばめ」が好きなのか。ぼくは「花小金井ひばり」が好きだ。

ガンダム
「君は生き残れるか?」9.18
予告篇の最後にこのセリフが毎回出るけど、
私は、戦争は自分が生き残る覚悟では絶対にやれないと思う。
自分が生き残りたければ、さっさと白旗を揚げてじっとしていればいい。
私は、戦争は自分が死ぬ覚悟でなければできないと思う。
自分が死ぬ覚悟がなければ、誰が弾丸の雨の中に突っ込んでいけるものか。
戦争は死ぬ覚悟がある者にだけできることだ。
「君は勇ましく死ねるか?」
男の私には、それだけの度胸が備わっている。

アキハバラ9.18
つばめが出てからは、
ハヤシバラ電脳組だな。


ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット
h14.9.17
でじこが泣き声で話すのが、悲しいんだか楽しいんだか、なんともおかしい。

アニ
バトシーラー
h14.9.19
私は第6話まではおもしろく見れた。

アニ
ついでにとんちんかん
h14.9.17
つまらないギャグを絵で盛り上げているだけだろ。

アニ
エイトマン
h14.9.21
単純極まりない構図。
ド迫力。

海底人8823(ハヤブサ) h14.9.21
カラーで見られないのが残念です。


コニちゃん
#20の1 h14.9.21
南央美の美しい声音(こわね)にウットリ。

☆☆☆
アニ
魔法少女
ペルシャVS香月舞 h14.9.17
ペルシャは一見絵がザツなように見えるが、よく見るとペルシャの絵に‘気合い’がこもっている。
エミは一見絵が念入りなように見えるが、よく見ると香月舞のインパクトが弱い。香月舞の絵は一見ディテールが細かいけれども、よく見ると絵に‘ノリ気’がない。
よって、ペルシャの勝ちぃ。

バンダイビジュアルは見る目がないなぁ。
絵の価値というものがわかっていないょ。

コメットさん
h14.9.17
下膨れ。平安美人。脇キャラ以下。


イデア(概念) h14.9.17
イデアは人間の頭(脳)の中にある。
イデアは知覚細胞が荷う情報である。
五感においてイメージが見えるように、知覚においてはイデアが見える。
知覚が働くかぎり、イデアは見えている。

イデア その2 h14.9.17
五感において花のイメージ(花の姿)が見えるように、知覚においては花のイデアが見える。
花のイデアとは、花についてのさまざまな知識(知覚的認識)である(*補足1後述)。
花のイメージよりも花のイデアのほうが、花の実体に近い(似ている)。

*補足1
知識は言葉で表現されるが、その実体は知覚におけるイデア(概念とも言う)である。
知覚におけるイデアと、五感における文字や音声を対応付けたものが言葉(知覚的言語)である。
五感におけるイメージ(視覚像)と、五感における文字や音声を対応付けたものも言葉(五感的言語)である。
言語中枢(音の系列としての音声と、線の系列としての文字が言語である。)は左脳にあるが、イデア中枢は右脳にある。
イメージ中枢は後脳にある。
言語中枢とイデア中枢またはイメージ中枢とを対応付けることが、言葉である。

イデア その3 h14.9.17
とにかく、☆‘イデア’という眼には見えないものが人間の脳の中にはあるのだ。☆赤大
(もっとも、脳細胞の神経結合まで入れると、イデアも眼で見えることになるけれども。)

イデア その4 h14.9.17
人間は知覚の中にあるイデア(概念)を組み合わせて実体をつかむ。
例えば、哲学第一原理によって、認識の実体をつかむことができる。
イデアと実体とは抽象的に同じなのである。(つまり、イデアは実体の一面をとらえているにすぎない。)

イデア その5 h14.9.17
イデア(概念)はイメージ(眼に見えるものの像)を分析することによって作られる。
または、イデア同士の関係から作り出されることもある。
つまり、観るか考えるかしないかぎり、イデアは生成されないのだ。

人類はたくさんのイデアを作り出し、(それらを用いて)実在を理解してきた。
これからもまたそうしていくであろう。

男と女 h14.9.17
女は五感のイメージの世界の中に生きている。女心は五感のイメージの世界と複合する。だから、女心は原始的で野蛮で動物的で下品で汚い。(母親も女の一人である。)
男は知覚のイデアの世界の中に生きている。男心は知覚のイデアの世界と複合する。だから、男心は現代的で洗練されて人間的で上品で美しい。

五感界は時々刻々と変化する。だから、女心は秋の空のように変わりやすい。
知覚界は永遠に不変である。だから、男心は岩のように変わらない。

人類の宿命 h14.9.18
行きつく先が地獄だろうが何だろうが(つまり、将来不幸になろうが幸福になろうが)、実在に近づかねばならない。
心よりも知覚が優先する。
それが人間として生まれてきた者の宿命だ。

人類(≡人間の集団)とはそういうものだ。

現象よりも実在が大事。 h14.9.19
知覚でものを見る者(つまり、眼で見えないイデアの組み合わせとして実在をとらえる者、すなわち言葉で実在を理解する者)が五感でものを見る者(つまり、姿形を見ただけでわかったつもりになる者)に従うべきではない。
われわれ人類が見るべきものは、実在であって現象ではない。

昔の人は偉かった。 h14.9.19
昔の人は実在が理解できてなおかつ文学(冗談=おもしろい作り話)までもできた。
例えば、宮本武蔵は剣術のみならずマンガもうまかった。
2刀流でやれば、2倍の速さでマンガが描けただろう。
今の人は実在の理解がなくて冗談しか言えない。
たとえ文学の才はなくても、せめて実在の理解はあって欲しい。

分裂病になりやすい人 h14.9.19
勉強や仕事の上だけ知覚的で、その他の日常生活では五感的な人たちがいる。
実生活においてはまったく言葉を使って考えていない。
勉強や仕事ばかりして(勉強や仕事で忙しすぎて)、その他の自分の人生のことについては何も考えていない。
得意なことと不得意なこととの差が大きい。(躁鬱病でもそうだが、躁鬱気質の人は不得意なことで落ち込むだけで興奮はしない。)
☆感性が知覚と五感の両方あって分裂している。☆赤大
こういう人が、五感で過度に興奮すると、知覚が働かなくなって分裂病になる。
五感界は実在界とは法則が違うから、五感界にとらわれると、実在界に適応できないようになる。例えば、五感界では自分と他人の身体が見えるだけだから、五感界には‘自分と他人の区別’がない。したがって五感界では、自分(の精神)が他人の身体を支配することが可能である。(もちろん、実在においては不可能である。)‘自分と他人の区別’は知覚で考えることによってはじめて出来るのだ。

補足)五感(とくに視覚)界とは、眼(というか、大脳後頭葉視覚野)で見える色・形のある世界である。
「知覚で見る」といっても、もちろん対象を眼や耳を使わずに知覚だけで見ようとするのではなく、対象を眼や耳で見たもの(いわゆる五感(界))をさらに知覚で見るということである。
分裂病は、今は‘感覚統合不全症(?)’と呼ぶらしいが、何もそこまで正直に言わなくても分裂病でいいと思う。今のネーミングは暗に五感界を積極的に肯定するような意味合いがあって好ましくない。
五感は知覚に従属すべきであって、五感じたいを肯定すべきではない。
それでは分裂病と同じだ。‘五感の肯定’はあくまでも冗談であって本気にやってはいけないのだ。
自分が人間であるかぎり知覚的であらねばならないのだ。

物理
量子力学
ボルン原理に対する考え方 h14.9.21
宇宙の万物は完全にシュレーディンガー方程式に従う。
ただし、観測系が絡んでくると方程式が複雑すぎて解けないので、
シュレーディンガー方程式を解く代わりにボルンの原理を用いる。

相対性理論に対する考え方 h14.9.21(※一部改変)
結局、時空間はコトであってモノではない。これまでの私の説明(とくに一般相対性理論のところ)がまちがっていました。ゴメンナサイ。
時空間はモノではなくコトだから、どれが上でどれが下だということもない。つまり、コトとしての時空間は相対的である。
「時空間がコトである」とは、時空間がモノ(実体)ではなく、“しょせんモノを測るためのモノサシ(実体のない目盛りの付いた線)にすぎない”ということである。
時空間というもの(透明な連続体)がまずあって、それが長さや時間を決めているのではなく、時空間は人間が便宜的に宇宙空間に導入することによって、はじめて決まるのだ。つまり、長さや時間(すなわち時空間)は宇宙によって自然に決まるものではなく、人間が自由に‘決める’ものである。(「この芝生に入るな!」というルールは人間が決めるのであって、自然に決まるのではない。考えてみれば、太陽暦は私が生まれる前に‘誰かが決めた’のであって、自然に決まったものではない。1mの長さにしてもそうだ。これらはみな‘人間が決めてはじめてこの世にある’のであって、自然によってひとりでに出来たものではない。)
「時空間がはじめから存在しているのではなく、時空間は人間が宇宙の中に勝手に作ったものだ。」というアイデアは、リーマン幾何学とまったく同じである。(カントもリーマンもアインシュタインもみんなドイツ人だ。ドイツ人は時空間に対する独特のセンスがある。)
例えば、相対論では(つまり実在では)「動く物体は長さが縮む」が、‘物の長さを決めるのはつねにモノサシ’なので、物の長さを云々(うんぬん)する場合には、物に対して静止しているモノサシと物に対して動いているモノサシの関係になるのである。

アキハバラ電脳組
h14.9.23
クレイン様へ
人間の代わりに働いてくれるロボットを作ってください。

#26最終回
クレイン、お前出てくるだけで何にもやらんかったやないか。
ひばりも土壇場で王子様よりも町のほうを採るなんて、なんか不自然。おもしろくない。

h14.9.23
#26最終回再び
ひばりにとって王子様はたんなる冗談で、町の人のほうが実在だったんだね。
もしも、俺がひばりだったら…
宇宙に行っても寝ることしかないなら、やっぱ地球に居るほうがマシか。

#23祭壇都市 h14.9.23 
竜我崎鷲羽のマスクがはずれるところが、あえて言えば第3の感動かも(絵的に)。

人間は何のために生きるか☆ h14.9.23
人間は“自分が人間であるために”生きているのであって、
自分(の心)が幸福になるためや、自分(の身体)が生きるために生きているのではない。
人間にとっては、自分が『人間である』ことが、自分(の心)が幸福であることよりも、自分(の身体)が生きていることよりも優先する。
『人間である』とは、知覚的であることである。知覚が五感や心を支配していることである。
人間の本質は知覚である。
人間は、知覚が五感や心を支配するようにしながら生きていけばよい。

発明 h14.9.24
電気炊飯器、電気洗濯機、クーラー、テレビなどの発明品は、人の実在についての知識と人のもっと楽しくなりたいと思う心とから作り出されたものだ。(自動車は酔うから嫌い。)
知識だけでは発明できない。知識と複合する人間の心があって、はじめて発明が生まれるのだ。
「日常生活が便利になる」ことが、人間だけにわかる実在における楽しさなのだ。
これらの発明品は(知覚=実在に従属する)人間の心を満足させるためにあるのであって、(五感=現象に従属する)動物の心を満足させるためにあるのではない。

発見 h14.9.24
五感(ただし、知覚=実在非従属性五感)や古いまちがった知識と複合する心に迷わされず、ひたすら知覚(言葉や図を使って考える)だけで推し進むことが発見のコツだ。
発明においては知覚と複合する心が重要だが、発見においてはむしろ心がないほうが都合がいい。真理の探究心だけあればいい。

レインボーマン
『妖術・人間化石!!』ヘロデニア3世登場 4:49 2002/09/24
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
レインボーマンがヘドロン3体にやられなかったのは、
レインボーマンが生死の区別を捨てて
人としてのあるべき道に徹したからである。
すでに生死の区別を超えていたから、ヘドロンに殺されなかったのだ。
殺されまいと思うから殺されるのであって、
生死の区別を超えていれば、殺されることはないのだ。

(つづき)
レインボーマンは星っ子を助けるために自らを犠牲にしたわけだが、
実際にこれを実行すると自分が死ぬことがある。
線路の上に酔っ払いが寝ているのを助けるために、ある韓国人の学生が列車に轢かれたことがあった。
韓国ではこれを‘義死’といって名誉なこととしている。
韓国では他人のために自分を犠牲にすることが立派なことなのだ。
しかし、私はそうは考えない。
線路の上に寝ている人が政府の高官や有名な学者ならば、無名である自分の身を犠牲にしようとも思うが、そこら辺の名無しの酔っ払いのために大事な自分の身を犠牲にすることは正直言ってバカだと思う。
私の実在哲学においても『自分より正しい者には従属し、正しくない者には従属してはならない』としている。
線路の上に寝ている酔っ払いを闇雲に自分より正しいと考えることは不当である。
むしろそいつは自分よりもバカだと思う。
したがって、日本人の一人としての私は、線路の上に寝ているバカを無視してほったらかしにすべきだと考える。これが日本における道徳だ。
正義(正しい者を尊ぶこと)こそが日本社会の秩序なのだ。
人情にほだされて自分の命を無闇に損ねる韓国の道徳はくだらなく野蛮だ。
このように、レインボーマンのまねをして他人のために自分を犠牲にすることは必ずしも正しくはない。
アニメの内容をそのまま鵜呑みにすることは間違いでよくないことだが、
アニメをきっかけにして実在のことを考えるのはいいことだ。

アニ
8823(はやぶさ)
h14.9.25
はじめて見たときは敵と間違いました。


△正義の味方って姿形じゃないんだね。

アニ
コニちゃん
h14.9.25
最近MOROちゃんも見飽きた。
お人形さん(ペソメちゃん)のほうが本音をしゃべるからかわいい。

アキハバラ電脳組
h14.9.25
私だったら、『平和を愛する心』の感覚子を世界中に放射するのに(幻聴の一般化)。

魔法少女
ペルシャVS香月舞 その2 h14.9.25
『魔法の妖精ペルシャ』の話は“面白まじめ”だったけど、
『魔法のスターマジカルエミ』の話はただ真面目なだけで面白味がない。
ペルシャでは、真面目だけれどちょっと浮いた(実在離れした)話が楽しかった。
よってペルシャの勝ちィ。
反対に、近頃のアニメはただ面白いだけでサビが効いていなくて物足りない。
実在離れしすぎだ。

アニh14.9.27
アキハバラ電脳組
ぷに絵。


チャットh14.9.27
私の場合は不得手な医学部への進学で人生を誤ったと思うけど、つばめさんは物理が得意で物理学科に行ったなら何の問題もないはず。どうして就職しなかったんですか?

アニ
六門天外モンコレナイト h14.9.27
豪華声優陣。井上和彦(キレイ)VS千葉繁(ダミ声)

チャット h14.9.27
つばめさんへ>君は、どうすれば楽に死ねると思うか?私は『外科手術用の吸引麻酔剤(催眠ガス)を吸って眠りながら呼吸が止まれば楽に死ねる』と思う(注射も要らんし痛くない)。問題は、その物質をどうやって手に入れるかだ。私は医師免許(本物)を持っているから、自分が住んでいるアパートの部屋を一時的に病院(診療所)にして、金を出せば買えるかな(知らん)。

掲示板 9.27
楽に死ねる方法
外科手術用の吸入麻酔剤(催眠ガス)を吸って眠りながら呼吸が止まれば楽に死ねる。
問題は、‘その物質’をどうやって手に入れるかだ。金で買うか、または自分で合成するか。

☆☆☆

動物と人間とキチガイ h14.9.24
五感しかないのが動物で、(知覚において)五感に対して実在的意味づけができるのが人間(天才)で、(知覚において)五感に対して非実在的意味づけができるのがキチガイ(分裂病者)である。
ところが、五感は実在にある程度は近いとはいえやはり知覚には及ばないのであり、つまり五感は実在に対する非実在的意味づけと考えられるので、動物とキチガイはほとんど同じと見てよい。ただし、(知覚における)五感に対する非実在的意味づけ(例えば、自分が他人をマインドコントロールできると考えること)は、五感そのもの(つまり、見たまんま、聞いたまんま)よりも正しくないので、キチガイは動物(例えば、女性)よりも正しくない、すなわち実在に適応していない。キチガイは動物(例えば、女性)にも劣る。とも言える。
だから、例えば、☆他人の‘咳ばらい’(つまり、五感的刺激)に対して、動物とキチガイはそれを真(ま)に受けて『他人を不快にした自分が悪い』と考えるが、人間(天才)はそれを無意味と見なして『他人は実在しないものを五感で見ているのだから、他人が悪い』と考える。☆黒大それが‘咳ばらい’に対する正しい(実在的な)意味づけであって、五感に対して実在的意味づけができるから人間(天才)なのである。

イメージとイデア(現代物理のこころ) h14.9.25
P.A.M.Diracは物質の実体はイメージ(視覚像)ではもはやわからず、イデア(知覚的代数的概念)でなければ理解できないものだとした。

Einsteinは物質のイメージ(視覚像)にこだわりつづけたので、量子力学(物質の真実)がわからなかった。

物質の実体は五感ではなく知覚でなければ理解できない。
五感にこだわってはならない。(Einsteinが五感=現象にこだわるところにGoethe以来のドイツ気質が表れている。)
現代物理における‘わかる’とは、‘五感(とくに眼)で見える’ことではなく‘知覚で見える’ことである。
物理学の歴史は、哲学の歴史でもある。
量子力学を勉強するときには、イメージ(視覚像)でわかろうとせずに、イデア(代数的概念、ことば)だけでわかるようなつもりで勉強するといい。
なぜなら、実在は五感(絵)ではなく知覚(ことば)によってとらえられるからである。

古典力学はイメージの力学だが、解析力学はイデアの力学である。
量子力学が‘眼に見えない’のは解析力学をもとにしているのでやむをえない。

人間はどこまで五感のウソ(例えば、近接作用)を見破れるか?!

《精神病まとめ》 h14.9.27
動物:五感しかない(現象的)。
正常人:五感に対する実在的意味づけが知覚においてなされている(実在的)。
分裂病者:五感に対する非実在的意味づけが知覚においてなされている。つまり、実在でないことを考えている。
五感もある程度は実在について正しいから、正しさの順に言えば、正常人(人間)>動物>分裂病者。
鬱病者:知覚(でわかることの範囲)が狭い。
神経症:五感の中に一部分興奮しやすいところ(いわゆるトラウマ)がある。

私の場合 h14.9.27
隣の席に座っている不良が英語の授業中に教科書のパラパラめくり遊びをしているのを見て『学生にあるまじき態度だ』と怒るまではかまわないが(なぜなら、それは実在に基づく感情といえるからである)、『あいつの身体を超能力で操ってやろう』とまで考えることはまちがっている。(やはり、マンガの読みすぎが原因か。)
☆まちがい(例、自他不可弁別性のイデア)を知覚の中に植えつけると、五感に対して広くまちがった意味づけがなされ、実在に適応できなくなる。これが、精神分裂病だ。神経症では、まちがいが具体的な五感(イメージ)の経験だけに限られるので、あまり広い障害(実在への不適応)は起こらない。☆赤大
『ふざけすぎたことは本気になって考えるもんじゃない。』ことを当時(高校一年生)の私は知らなかったのだ。

どうして幻聴が聞こえるか? h14.9.29
知覚における非実在的(マンガ的)概念‘自他不可弁別性のイデア’が大脳上の五感の中枢に作用して幻聴覚(感覚波に対する感覚)を目覚めさせるのだ。
知覚における‘自他不可弁別性のイデア’が五感を支配することによって、五感そのものを‘自他不可弁別性のイデア’に従属するように作り変えて、幻聴が聞こえる(他人の脳から出た感覚波(感覚子が真空中で振動することによって立てる波)が自分の聴覚に変換される)ようになるのだ。(動物に幻聴がないところを見ると、五感にもすでに‘自他の区別’はあるようだ。)
‘感覚がある’ことに較べれば、‘幻聴がある’ことなんかさほど不思議ではない。

チャット h14.9.29
『物理学の歴史は哲学の歴史でもある。』哲学日記[811]見てね。

アニ
未来少年コナン h14.9.29
NHKはCMないのに、なんでかアイキャッチがあった。
(アニマックスはCMないからアイキャッチもない。)
アニメが面白いから、文庫本(角川)も買ってみたけど、アニメと全然違っていてガッカリした。

デラ掲示板9.29
感覚子は今のところ理論的仮説にすぎませんが、将来技術が進めばその存在を実験で確かめられることでしょう。
とにかく、私が言いたいことは、‘感覚’(つまり、自分が感じること)が実在するということなのです。それを眼で見えるように表現したのが、感覚子なのです。

物理h14.9.29
観測問題とシュレーディンガーの猫 h14.9.29
『この宇宙にあるすべての物質は厳密にシュレーディンガー方程式に従うのであり、観測系が絡むと方程式が複雑で解けなくなるから便宜的にボルンの原理を使う。』とすれば、要するに「多くの粒子が絡んでくると波動関数の収縮が起こる。」ことになる。したがって、シュレーディンガーの猫の場合には、「波動関数の収縮は多くの原子からなるガイガーカウンターのところで起こるから、箱の中の猫は生きているか死んでいるかのどちらか一方の状態しかとらない」ことになる。「生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせた状態の猫」なんて実在しないのだ。
それとも『‘感覚子’が発生すると波動関数が収縮する。』のだろうか。そうだとしても、猫には脳があり猫が認識すると感覚子が発生するから、やはり箱の中の猫は生きているか死んでいるかのどちらか一方の状態しかとらないことになる。

イメージとイデア その2 h14.9.29
イデア(知覚概念)はイメージ(視覚像)よりも普遍的・一般的である。
例えば、‘花のイデア’は世界中のすべての具体的に存在する花に当てはまるが、‘花のイメージ’は具体的に存在する特定のひとつの花(固有名詞)だけに限られる。
イデア(言葉)はイメージ(絵)よりも当てはまるものが多いので、それだけ普遍的・一般的なのである。

2002年10月
ファミリー劇場
 TV特撮「仮面ライダー」時々見る
アニマックス
 TVシリーズ「超時空要塞マクロス」10/7 いっぺん見たことある
 劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」10/13 見たことない
 魔法騎士レイアース10/15 途中まで見ていた
 ドッとKONIちゃん もうすぐ終り(泣)
 OVA「魔神英雄伝ワタル 終りなき時の物語」
 侍ジャイアンツ 毎週見ていたが、内容をほとんど忘れた
 未来少年コナン 懐かしい
アニメシアターX
 あずまんが大王 絵がきれい
 仰天人間バトシーラー
 ネオランガ BSでちょくちょく見ていた 2ndシーズンが見たい
 東京ミュウミュウ9/29〜 
 六門天外モンコレナイト9/26〜 豪華声優陣
 魔法のエンジェル スイートミント10/9〜 楽しみ 

☆☆☆
バビル2世 9.30
バビル2世は、再生能力がふつうの人間の一億倍もあるから、いくら拳銃で撃たれても平気なのだ。


天使になるもんっ 9.30
やっぱり主役の性格は基本的にnormalでなくっちゃ。
ノエルはふつうの人の感情がないから嫌い。
絵はヘタでもいいから、“感情”をしっかり出して欲しい。
それがぴえろのたったひとつの取り柄じゃないですか。

東京ミュウミュウ 9.30
‘顔型’はかわいいけど、髪の毛が分け目がやたら多くて汚い。
それにしても、学校の給食に焼き魚が出るか!?

まんが水戸黄門 9.30
オジンくさい画風が時代劇にマッチしていてよい。

コニちゃん 9.30
光文社カッパの本の挿絵(さしえ)に出てくるようなキャラだな。
(とくにラブリー先生なんか。)

キン肉マン h14.10.2
かつての日本にはこんなにも面白いアニメがあったのか。
マンガも毎週おもしろくて必ず飛ばさずに読んでいた。

デラ掲示板 10.1
テストで100点取る方法
まず、半分ぐらいの時間ですばやく全問を解いてから、あとで2〜3べん見直すと、いい点が取れるよ。



人間とは h14.10.1
デカルトは『われ☆考える。☆赤大ゆえにわれあり。』と言った。
パスカルは『人間は☆考える☆葦である。』と言った。
両者に共通する点は、とにかく『人間とは☆考える☆赤大ものだ。』ということだ。つまり、人間は☆知覚☆のある生物なのだ。人間の本質は☆知覚☆である。人間性とは☆知覚☆にほかならない。


マンガ家とは h14.10.1
マンガ家とは、まちがった思想を子供たちの頭に植え付けて子供たちの人生を不幸にするのを生きがいにしている意地悪な大人である。


“親に頼んで生まれてきたんじゃない。”10.1
仕事をしないで生きていける時代にならなければ人生が幸福とはいえない。(考える頭があったら、それぐらいのことわかるやろうが。)
今の時代に生まれてくることがそもそもまちがっている。
このまちがいを正すには死ぬしかない。
そもそも不幸の原因は、今の人類が実在について無知すぎることにある。
100万年後に生まれてくれば、なんでも思い通りにできて、みんな幸せだ。
100万年後に生まれたかった。

しかし、実際には、人間として生まれたら人間として生きていくしかない。
幸福を問題にするには、まだ100万年早いのかもしれない。


食べ物が大事 10.3
おいしいものを食べれることが生活の基盤である。
うまい食い物がないとヤル気が出ない。
おいしいものを食べれることが何よりの幸せだ。

衣食住が生活を支える3本の柱だ。
衣と住は私の給料では満足されない高嶺(たかね)の花だ。
近所のスーパーでおいしいおかずを買って食べることが、たったひとつの人生の支えだ。
衣(気に入った服)はダメ、住(よく眠れる家)もダメ、食(おいしいおかず)もダメでは、私の人生は成り立たない。

T市はバカの集まり h14.10.4
私の住んでいるT市はおいしい食べ物がない。
☆まずいもんばっかり食べていると、頭がだんだん悪くなる。☆
町並みが陰気くさいのも、住民に悪気が多いのも、みんなここの人の頭が悪いせいだ。
私がここへ来る前は収入は今の半分以下だったけど、倍以上楽しかった。

貧乏 h14.10.4
私がここ(T市)へ来てからすっかり暮らしが“貧乏”になった。
貧乏とは、収入とは無関係に、暮らしぶりが貧しいことだ。
例えば、おいしいものが食べたいのに、スーパーにおいしいものが売ってないこと。
自分の眼に合うメガネが欲しいのに、メガネ屋がヘタクソで度がやたらきついメガネしか作れなくて、結局かけずじまいでお金が無駄になること。

五感と知覚の関係 h14.10.5
知覚が五感に従属しているあいだは、知覚は曖昧模糊であり、
知覚が五感を支配するようになると、知覚は明晰判明になる。
(なぜなら、五感界がそもそも実在について曖昧模糊だからである。)

コニちゃん 10.5
『晴れブタ』も『エクセルサーガ』も、
ワタナベシンイチのアニメはみんな嫌いだけれど、
『ドッとKONIちゃん』だけは面白かった!
 
チャット 10.5
私の親は両方とも中学校しか出ていませんが、父親は本が大好きで休日は暇があるかぎり本ばかり読んでいました。小学校ではつねに主席だったそうです。私がいい会社に入れなかったのは、親の学歴のせいではなく、私が医学部に入ったために要らない歳をとったからです。進路を決めたのは私なので、全部私の責任です。(つづく)
(つづき)医学部にいるとき、親への孝行心だけでは生きていけないことを知りました。自分が生きているのは、親への孝行のためではなく、自分の知的好奇心を満足するためだとわかりました。それで、物理学科へ入りなおしました。そうこうしているうち30歳を超えてしまいましたから、普通の会社へ入るのはあきらめざるを得ませんでした。そのためにたとえ死んでも後悔はしていません。今の自分が‘人間らしく’生きていればいいだけですから。

アニ
超時空要塞マクロス 
リン・ミンメイと早瀬未沙 h14.10.6
リン・ミンメイは見かけだけの五感女で、
早瀬未沙は知覚女(じつは親のコネ)だから、
ミンメイより未沙のほうがいい。
というのは富田祐弘が理論家だからだ。
五感より知覚がいいのは男についてであって、
女の場合は別だ。
女のよしあしは“心の味”で決まるのさ。

心の味 h14.10.6
相手の態度や言葉をよく観察して、その観察に自分の心を複合させることによって、相手の心を自分が感じることができる。こうして“心の味”がわかるのだ。
私は自分の母親と同じ“心の味”のする者をいまだ3人(母も含めて)しか見たことがない。
見栄を張るのは他人を恐れているからだ。
最近の人は心に“勝ち気”がない。

キン肉マン 10.6
キン肉星王位争奪編
マンガの絵もアニメとそっくり。
フェニックスなんて、名前が‘不死鳥’だから、自分が死ぬ間際にキン肉マンの死んだ仲間をよみがえらせるのかと思ってたら、何もしなかった。

つばめさんへ>自分たちが親に学歴(コネ)がないから、割の悪い仕事に当たるのは仕方がない。それも嫌では生きていけないでしょう。たとえ割りの悪い仕事でも、毎日きちんとやっていれば、そのうちいい事もあるでしょう。そんなことより、私は子供の頃から、『仕事のない社会を作りたい。』と思っていた。はるか大空の彼方から、そんな‘声’が聞こえていた。ギリシア時代の昔から、仕事は(五感しかない)奴隷がすることであって、(知覚のある)人間は仕事をしないものだ。仕事は機械がして、人間は自由に議論をして遊ぶ。そんな世の中がはやく実現して欲しいものだ。

ミュウ 10.7
#2まじめな雰囲気が好きよ。

トムとジェリー 10.7
元祖闘う系。ケンカの面白さに尽きる。

チャット h14.10.7
だれか〜、スーパーのおかずのうまい県知らんか〜?

チャット 10.7
東大出たら働かなくても月収100万円もらえたらいいね。(それでも足りん人だけ働くとか。)やっぱり日本が貧乏な国だからみんなが働かなくてはいけないんだろうな。


T市は地獄 h14.10.7
おれらあの貧しい給料で買えるもんゆうたらせいぜい‘スーパーのおかず’だけやんか。かんじんのそれがゲロゲロにまずかったらなんちゃあおもしろうないわ。なんの喜びもないまま仕事せんといかんがか。そんなんできるか。ここは地獄や。

東京ミュウミュウ 10.8
絵があんまりうまくなくても、まじめにやっているところがいい。
(絵がうまいのは葦プロ。アキ電の絵がスゴかったから。ぴえろの絵は発展がない。)

チャット 10.7
ぼくも中学生のころはスタートレックのミスタースポックのような‘心のない人間’に憧れていたけれど、大人になって自分で人間について考えるようになってからは、スポックのような人間観では人間は生きていけないことがわかりました。
人間は自分の感情を肯定するからこそ生きていられるのです。‘心のない人間’は、クリューバー・ビュシー症候群の患者(遺伝子の欠陥のため生まれつき‘心のない人間’)のように、自分で自分自身の身体を傷つけて死に至るだけです(ナンセンス!)。

補足:クリュバー・ビュシー症候群が自分自身の身体を傷つけまくるのは、‘痛み’の感情がないからです。

スイートミント 10.9
#1 あまりのチープさに唖然。絵的な価値はゼロ。幼稚園児でもなけりゃ、見てらんないよ。(動画は一枚一枚の絵の集まりだから、アニメを見るってことは、30分間絵を鑑賞しているのと同じことだ。絵にも気持ちのこもったいい絵と手抜きの悪い絵とがある。)


滋賀県高島郡安曇川

ミント10.10
霧がかかったみたいに見えるのはなぜ?(マリーベルも)
こうすると絵が上手に見えるのかな。

ミント10.10
あんな服でもお姫様かね。

ミント10.10
#2 これでも絵がうまいほうやったんか。

掲示板10.10
首吊り―もろに体重が縄にかかると首が痛くてたまらないので、斜面(例えば、公園のすべり台)を使って体重が首にかかるのを軽くしてほどよいきつさで首がしまるようにすると、楽に死ねるかも。

仮面ライダー(1号) 10.11
シンプルだけどディテールが細かい。
ヘタなCGを使うより味がある。
やはり役者の演技力の差か。
(龍騎なんかと比べると)

アキ電
人間は永遠に生きられるか?!
遺伝子のテロメアという部分が少しずつチョン切れて短くなって死ぬなら、テロメアの部分にテロメア切断酵素では切れない構造を組み込めば寿命が無限に延びるのでは。

☆☆☆

仕事心得 h14.10.7
1.☆運を当てにするな。☆あいまいさを残すな。「たぶん、いいだろう」は通用しない。
2.☆数字に出ないことをせよ。☆(結局は出るけど。)数字だけ上げようとするな。数字は人を欺く(あざむく)。数字だけ上げようとする者にまじめな者はいない。
3.ムダをなくすのはよいことだが、要ることまでしないのはよくない。


食事が第一 h14.10.7
まずい食い物を自分の口につめこむことが楽しいことか。
毎日毎日自分で自分をいじめているだけやんか。
そのうち性格が意地悪になる。
まずい食べ物は身体にも悪い。
T市に来てから毎年冬にカゼひいて休まないかんようになったわ。


アニメ
アニメを見る資格 h14.10.7
あらかじめ正しいことがわかっていないと、まちがいをウノミにしやすい。
まちがいを冗談として受け止められない。
自分で考えない者はアニメ(マンガ)を見る資格はない。

チャット10.13
昔の子供たちはミスタースポックに憧れたものだが、今の子供たちは大鳥居つばめやルリルリや綾波レイに憧れるのか。いつの時代にも‘心のない人間’が子供に受けるキャラだ。


実在哲学の原則 h14.10.11
われわれの眼で見える世界は五感(=現象)であって実在ではない。
実在は五感を超えたところにある。
実在は知覚によって見ることができる。
五感と心を知覚(≒実在)に従属させよ。
五感においてではなく知覚において心を満足するようにせよ。

超時空要塞マクロス h14.10.13
#1スゴかったぜ。絵に対するこだわりがタツノコアニメならでは。思わず絵の世界に引き込まれてしまった。

ミント h14.10.13
キャラデザがへた。‘丸み’がないもん。

チャット
最近ヤフオクにも飽きてきた。

最近態度の悪い落札者が増えましたね。

ペルシャのDVDを売ってくれるらしいぞ。今から貯金しようっと。
1.2003年2月25日 2.2003年5月23日 ねだん各¥36,000−

劇場版『超時空要塞マクロス』 h14.10.14
ガウォークってハエに似とるなー。

ミュウミュウ h14.10.14
#3 髪の毛がウットリするほどきれいやった。
ミントが一番おもしろい。まじめぶってるわりには幼稚なところがおかしい。

チャット 10.14
ペルシャのDVDはめでたく発売されることになったので今から貯金しようと思うが、ペルシャの魅力はなんと言ってもその絵としての美しさにある。シンプルだがディテールが細かいのが本命の証(あかし)だ。キャラクター(つまり動画)としての魅力は香月舞を凌駕している。背景のディテールはLDでは残念ながら失われていたが、DVDなら十分に期待できる。ラブリードリームは絶景かな。高倉作画監督の後半もDVDだとLDとは見え方が違ってくるので楽しみだ。ぜひ最終回を見てみたい。三原武憲と千葉順三のペルシャもお楽しみだ。DVDにしてようやくはじめて本物のペルシャが見られるので、絶対買わんといかん。
なんと言っても特典が付いてないまま売るところがすごいですぅ〜 マミもララも買わないでよかった。

ガンダム h14.10.14
戦争とは弾に当たりに行くことだ。
死を恐れては何もできない。

掲示板10.14
相対論は素晴らしいですね。相対論を見ると、「宇宙は人間が自分自身で創り出すものだ」というドイツ人の意気込みが感じられます。
ぼくとしては相対論よりも量子力学のほうがよく書けていると思うので、ぜひそちらのほうも読んでください。
哲学はぼくとしては本命(ライフワーク)なんですが、アブナイと感じたら読まないほうがいいです。最後のほうから読まれるといいでしょう。

モンコレ10.14
バラの部屋に出て来る‘福知山’は俺の近所だが、俺の住んでいるところよりも都会だ。
スーパーのおかずが俺のところより美味いそうだ。田舎は金はあっても物がないので不便だ。つまり、田舎は慢性のインフレ状態にある。田舎ではお金を使うことがないので貯金がたまるだけだ。物がないので本質的には貧乏だ。とくに食い物のマズさは想像を絶する。金持ちでも物がないのと、貧乏でも物があるのと、どっちが本当に幸せなんだろうか。田舎の人は人の心を考えているのだろうか。食事の味は数字に出ないが、そこのところが大事なんだよ。

七人のナナ h14.10.14
吉崎観音(よしざきみね)は、前に少年ガンガンのガーディアンエイトを読んだことがあるので知っている。

マンガ家よりもアニメやゲームのキャラクターデザインのほうが『ワリのいい仕事』だと言って、ガンガンのマンガ家をやめていった。
アニマックスの‘ドッとKONIちゃん’が終わって見る物がなかったのでちょうどよかった。(AT−Xで月〜金の朝8:00〜8:30放映中)

モンコレ 10.14
ドイツにいるのになんで‘福知山’なんだよ。


マクロス10.14
(リンミンメイ→早瀬未沙)=一条光の成長

赤ちゃんパンジャ様へ
実在の世界には重力場、電磁場、その他の力の場以外に、感覚場と言うものがあり、脳細胞は感覚場と相互作用ができる物質であります。
人間の大脳における感覚には知覚、五感、心といろいろな種類がありますので、感覚場の運動方程式は非常に複雑になるものと予想されます。でも、あるいは、光の色が一見七種類あって複雑であるように思われるも、じつは波長の違いで統一的に捉えられる様なこともありますので、案外簡単なのかも知れません。
量子力学において、国語の世界では粒子と波の統一は言葉がないのでできませんでしたが、数学の世界ではデルタ関数と三角関数の間を埋めることができ、めでたく統一を成し得ました。数学の概念のほうが細かい表現ができるので、それだけ実在に近づくことができるのです。
電子と中性子と陽子が、クォークと言うさらなる素粒子の組み合わせとして考えることができたように、知覚と五感と心もより基本的な感覚子の組み合わせで捉えられるのかも知れません。(つづく)
(つづき)人類があと100万年経てば今の物質についての知識と同様に感覚子についての知識が得られ、感覚子とそれ以外の物質の間の相互作用がわかれば、新しい技術の分野が切り拓かれるかもしれません。例えば、脳細胞の神経興奮によって感覚子が発生する、すなわち古典的に言い換えると感覚場の振動が起こるのだから、逆に感覚場の振動によって脳細胞の興奮が起こっても不思議はありません。これがテレパシー(いわゆる幻聴)の原理です。光のエネルギーでも強めれば分厚い鉄板をも溶かすレーザー光線になるように、感覚場の振動も強めれば大きな物体を動かせるようになるのかもしれません(もっとも、そのためには、感覚場とその物体との間に相互作用のあることが条件になりますが)。普通の物体を動かすことは無理でも、脳細胞程度のものなら動くかもしれません。
量子的な感覚子の発生と古典的な感覚場の振動とは同じものだから、古典的な感覚場の振動についての波動方程式を立てることができればいいのですが、残念ながら暇がないのでまだやっていません。(つづく)
(つづき)とにかく実在の世界の中に‘感覚’と言う自然現象が実在することは実感として確かだから、それについての数学的記述が可能になれば、今の物理学における物質と同様に感覚子の実在性が認められるようになるでしょう。そのためには、まず最初に感覚を測る物差しを作り、それを用いていろいろな感覚を測定しデータを集めることをやらねばならない。それがいっぱい集まったら、数学のセンスのある人が法則を見つけてくれるかも知れない。残念ながら、私にはお金がないので実験をしてデータを集めることができない。
量子力学における非局所場の相関(EPRパラドックス)のように、感覚場の波の速さは光の速さを超えるかもしれない。アインシュタインは古典力学と電磁気学の世界しか知らなかったから非局所場の相関を理解できなかった。幸いにも私たちは非局所場の相関の実験事実(光子のスピンのやつ)から入ることができる。私たちの頭の出来がたいしたことがなくても、アインシュタインの実在観をすでに超えている。物質波の波の速さは確かに光速を超えている。光速を超えることがないのは、古典力学と電磁気学の世界の中だけだ。私たちの知っている世界のほうがアインシュタインの知っている世界よりも広い。「実在は五感ではなく知覚において理解される。」ことすらアインシュタインは知らなかった。アインシュタインは最後まで‘眼で見えること’にこだわりすぎたのでとうとう実在を見ることができなかった。このまま人類が進化し知覚が発達していけば、ますます実在を自由に制御できるようになるであろう。衛星軌道上にあるアンテナから快感子のシャワーを浴びて毎日幸福な人生を送れるような時代が来るかもしれない。

超光速通信の原理 h14.10.15
EPRパラドックスの実験事実を使う。

今、地球と火星の中間にある小惑星から、互いに反対のスピンを持った光子を発射する。地球において光子のスピンの向きを測定することを1、しないことを0としてこれらを信号とすれば、火星において超光速で(と言うか瞬間的に同時に)信号を送ることができる。
図h14.10.15_1

魔法騎士レイアース 10.15
見なかった。主役の赤髪の女の子の中性感が男っぽくなりすぎていて下手。反対に、他の二人は女の子にしか見れず問題外。
世界観も悪魔との戦いが中心でハードすぎて女の子らしさがない。
女の子が見れば男の世界への憧れだけで見つづけられるのかも知れないが、男が見たってしょうがない。

チャット 10.15
超光速通信の方法を発見した!詳しくは、物理勉強室>わかる量子力学の最後を見てねっ。

数学の歴史 h14.10.15
古典数学(ギリシア時代)は‘有限’の数学だ。
近代数学(ニュートン以後)は‘極限’の数学だ。
現代数学(カントール以後)は‘無限’の数学だ。

カントールの対角線論法において、『実無限(加算無限)個の数に順番を付け小数第何位目かの数字を別の数字で置き換えることができる』と決めたように、ルベーグの積分論においては、『実無限(加算無限)個の長方形に順番を付け面積を計算しそれらの和をとることができる』と決めた。古典数学の積分論(アルキメデスや関孝和ら)においては、有限個の長方形(一般には図形)の面積を計算しそれらの和をとることしかできなかった。例えば、円の求積法など。極限の概念を回避しつつ球の体積を求めるに至った技術は驚嘆に値する。近代数学において、実数が少数の極限としてとらえられるに至って、積分は古典数学におけるような有限積分の極限としてとらえられた(リーマン積分)。現代数学においては人間にそれ以上の能力が付与されているのだ。その能力の下でどれだけのことがわかるかを調べるのがルベーグ積分論なのである。

平成14年10月21日
らんま1/2
10月“20日”がたまたま日曜日だったので見れた。ラッキー!!
話の内容は、東風先生のおばあさんが来て嫁探しをするのと、シャンプーが中国かららんまを探して日本に来たのと二本立てだった。
スタッフは作画監督も、美術監督も、音響監督もぴえろ魔法少女シリーズの有名な人と同じだった。絵がフワフワしていて楽しい。絵のディテールも丁度でいい。
うる星やつらは話がマジだったけど、らんまは話がファンキーでバカバカしくてノリがいい。
シャンプーは女らんま(かわいい)を見て殺そうとするけど、男らんまのほうは愛している。らんまは水をかぶって女になったり、お湯をかけて男になったりするけど、ただドタバタがおかしいだけで、とくに意味がないのがサイコー!現実にありえないのが話を幼稚っぽくしていて、なんかかわいい。
私はらんまが大好きだ。ファミリー劇場やめて、キッズステーションにしたくなった。月300円でらんまが8本見られれば安い。

滋賀県の安曇川(あどがわ)というところに行って来た。琵琶湖の苔のニオイがものすごく臭かった。蚤が多い。店閉まるのが早い。あえて言えば静けさだけが取り柄だ。この苔(藻?)のニオイは京都〜福知山あたりまでずっとしていた。福知山を過ぎるとようやく空気が変わった。京都も大きい町だけど、あんな臭いところに大勢でよく住んどるなあ!?こいつら鼻が麻痺しとるんと違うか?

にこにこや
私は小学校のころから国語はバカがやることだと考えていました。理科と数学だけ出来ればあとはどうでもいいと信じていた。そのため国語の作文は苦手でした。いつもいやいや書いていました。
仕事については、私は汽車が好きだったので母親は汽車の運転手になれと言いましたが、私は汽車に長時間乗ると乗り物酔いがするので嫌でした。また、夏休みが取れるので学校の先生になれとも言いましたが、私は文部省の指導要綱の言いなりになっている先生というものがあまり好きじゃありませんでした。生徒の前で偉そうにしている態度が気に食わなかったんです。結局、子供の頃から(勉強は好きでしたが)仕事は人間の自由を奪うことなので大嫌いだったので、将来自分が何の仕事に就くかなんて全然考えていませんでした。いまでも考えていません。
科学が人間を肉体労働から解放したんだったら、もう少し時代が進めば人間を頭脳労働からも解放することでしょう。そのときこそ、ギリシア時代以来蝕(むしば)まれつづけて来た人間の自由が回復されるのであり、人間ははじめて人間らしく生きていけるのです。今の時代は奴隷根性の持ち主のほうが優利に生きていける狂った時代なのです。

京都駅で買った三色寿司¥380(海老、さば、あと忘れた)が駅弁として分量も丁度よくて美味かった。

量子力学とルベーグ積分は私の日常生活と何の関係もありませんが、ときどき右脳が自分勝手に働いてそれらについて考えてしまうのです。大学で習ったけど、十分消化ができてなかったので、今でもそれらについてよくわかるまで考え続けているのです。

10.21
まんが水戸黄門
フィルムぼろぼろ。
たいして面白くもネーのに、ウケ狙いだけで放送すなッ!

らんま
いい作監を使っているだけあって、絵の出来はサイコー。
熱闘編に入ってもこれだけの画質であれば言うことなし。
話がうる星に較べて幼稚(ギャグが低年齢向け)なところがかわいい。

らんま
らんまの魅力を分析すると、
女らんま(魔法少女)×男らんま(格闘系)
となる。
魔法少女の物足りなさを男らんまで補っているわけだ。
格闘よりもじゃれ合いと言ったほうがいいけど。
してみると、『女らんまはじつは女ではない』ことになる!(ここが大事)
中性感がじつに素晴らしい。
実際私は(絵において)、女っぽい女らんまよりも、中性っぽい女らんまのほうが好きだ。

すいません。
昨日のらんま1/2
#14「骨盤占いEらんまは日本一のお嫁さん」と
#15「激烈少女シャンプー登場!ワタシ命あずけます」は、
らんま1/2熱闘編ではなく、らんま1/2でした。(#18までがらんま1/2)
どおりで絵が上手なわけだ。

10月22日
らんま
どうしてうる星やつらは4年も続いたのに、
らんまは(正味)4月しか続かなかったんだ?
女らんまのキャラが濃すぎたからか?
らんまの倫理道徳のまったくないのが危険視されたからか?
真面目さのないおもしろさが日本人好みじゃなかった?
しかし、今見直してみると、
それだけにバカバカしくって笑えるとゆーこった。
本気でおもしろい作品であるとも言える。

女らんまについては、ええ歳こいた今の自分(38歳)の目から見ると、なんのこっちゃわからん存在や。私の実在における経験では、いくらなんでも男が女になるなんていっぺんも見たことがない。だから、受け容れられんのや。一歩譲って、男らんまが女装して女の子らしくなるのなら理解できる。でも、それなら、絵においてあんまり女の子らしく描かんといてくれ。もっと中性らしく(つまり、男気の混じった女の子らしく)描いてくれ。それなら、実在においてもありえることやきに納得いくわ。実際、絵において、マスカラの入った女らんまは女っぽすぎて絵空事になってしまっていて内心しらけ気味で、初期のころのあまり化粧気のない女らんまのほうがリアルで気持ちにしっくり来て見やすいわ。
男の俺としては、人間がブタになったり猫になったり、男の子が女の子になったりするような、マンガ(一般には、紙)の上だけの作りごとには耐え切れんのや。

私マンガのらんまに詳しくありませんが(38巻中5巻しか持っていない)、
なびきが水をかぶっていい女になる話って、ありませんでしたか?

昔から、人間には二重性(Duality)があるって言うやん。
女らんまと言うのは、らんまの女の部分や。
男らんまというのも、らんまの部分や。
らんまという一人の人間には、男らんまと女らんまの二つの部分があるということや。
これは、たとえ認めたくなくても、認めねばならない現実や。
人間は、ち○ぽがついているから男、ついてないから女というふうには簡単に行かんのや。
もちろん実在する人間は身体が男になったり女になったりすることはないが、頭の中の感覚は男(知覚)になったり女(五感)になったりすることはよくある。
マンガは人間の頭の中の感覚の変化を眼で見えるように描き表す。
子供が一人前の大人の男になるために、女の部分を克服して男の部分だけになるのではなく、人間にはもとから男の部分と女の部分の両方があることを認めることで大人になっていく。
男だからといって女の部分があるのが悪いんじゃない。男には男の部分がちょっとでもあればよいのだ。全然ないと困るけど。
女の子でも男気のある人がいる。(ジャンヌ・ダルクのように)歴史を塗り替えられるのはそういう人だ。

(男)らんまが女らんまになるのは、
たんなるドタバタのための場合と、
男の中にある甘えが出た場合(例、フルーツポンチを食べるため)の二つある。
前者は他人に水をかけられ、後者は自分の意志でなることが多い。

モンコレ
キャラクター原案の西川秀明氏は、少年ガンガンでマンガ家をされていたかただ。
はじめて読んだのは、『爆力冒険メガバーン』。空飛ぶ機関車のまんが。これからおもしろくなりそうなところで突然終わったヘンなまんが。
『炎のエルク』も最初のほうだけ読んだ。病院のことを‘白い家’と呼んでいた。
通りで、モンコレを見たときどっかで見たことあるキャラだと思った。

モンコレ
少年ガンガンについては、高河ゆん先生が時間が足りなくて落書きを載せたので、次の週に夜麻みゆき先生が怒ってわざとに出来かけの原稿を平気で載せたりする、読んでいて悲しくて泣きたくなるような雑誌です。(それも買わなくなった原因のひとつ)


#5トランス・フォーメーション
#6ダイダロス・アタック
ビルの屋根がつぶれたり、敵艦が内部からボコボコになるなど、アニメならではの名シーンだ。それにしても、あのダイダロス・アタックが早瀬未沙の発案だとは知らなかった!

レディリン
この番組、いったい何のために放送しているの?
でも、ソフィアが母親の言いなりから、みんなと一緒に暮らしていくうちにしだいに自分の気持ちに目覚めていく成長の過程は、じつに丹念に描かれていて素晴らしい。

10.23
バトシーラー
バトシーラー=ビックリマン(仲間でピース・ストーンを集める)×らんま1/2(転身)

らんま
そもそも欄間という物は、同じ一つの木彫りが左から見たときと右から見たときでは違う模様になることだ。
らんまという一人の人間には男の部分と女の部分が同居する。
実在においては女の部分が露(あらわ)になることはないが、マンガの世界においてはそれが平然と具現する。
バトシーラーを見ていて感じることは、キャプテンファッツがキャプテンファッツだけであるよりも、キャプテンファッツとガッツが転身して一人の人間でいたほうが、(赤ちゃんのいないいないばあのように)おもしろいし、人間存在として安定化するということだ。(つづく)
(つづき)自然界にはひとつの素粒子があれば、必ずそれと反対の性質を持った反粒子が存在するが、人間の性格についても一人の人間には相反する両方の性格があるのだ。それなのに、表にはそのうちの片方しか現れていない。長らく接していると、裏の性格が徐々に見えてくる。例えば、うちの母親も男勝りで凛々しいところもあるが、反面おサルのようにキーキーヒステリーっぽいところもある。二つの性格のうちの片方が優位で他方が劣位ということはあるが、ともかく一人の人間には相反する二つの性格が備わっているものなのである。性格が偏りすぎると実在への適応が低下するからだろうか。それとも、人間における相反する感情の共存が知性への扉でもあるというのか。ひとりの人間に相反する二つの性格があるおかげで、(クリィミーマミの歌のように)好きと嫌いが相殺されて普通すなわち知性があるのだ。あるいは、躁鬱病があるように、人間は相反する性格の間を振り子のように行きつ戻りつするものなのかもしれない。それは脳内神経伝達物質の濃度の周期的変化によるものなので、人間が物質からできている以上もはやいかんともしがたい。人間の都合だけで理想的にはいかんのだ。
良牙が表にはツッパってすかしていながら、裏では甘えん坊のピーちゃんであるように、シャンプーが表にはスケ番まがいの格闘女でありながら、裏では人なつっこいメス猫であったりする。そして、らんまが表には武闘家でありながら、裏ではか弱い乙女であったりする。とにかく人間の心とはそんなものなのだ。ふだんは眼に見えない表裏のある人の心の世界を露骨に眼で見えるように描いたのがらんま1/2のまんがの世界なのだ。例えば、らんまが女らんまであるときは、らんまの心が女になっているときなのだ。実在の世界では心と身体は別々だけれども、まんがの世界では心と身体はもはや同一なのだ。この世界、意外とリアルで矛盾がないとは思いませんか。表裏のない世界、私はいいと思いますがね。

実在の世界では心と身体は別々だが、まんがの世界では心と身体は同一である。
例えば、らんまが女らんまであるときは、らんまの心が女になっているときだ。
実在の世界では他人の心は直接眼には見えないから、そういうことは不自然に思われるけれども、実在の世界においても男が女心になることはしょっちゅうあることだ。実在の世界ではたとえ男が女心になっても身体が変わることはないが、まんがの世界では心の変化がそのまま身体の変化として現れるのだ。まんがの世界では心に応じて身体が自由に変われるのだ(ここがウレシイ)。らんまのまんがはそんな人間のヘンテコな心の世界を画いているのである。

まんがの世界では心に応じて身体が自由に変われるといっても、らんまでは男と女、良牙では男と豚というように、二つのタイプしかない。
まんがの世界にもある程度のルールがあるってことだ。そのルールの下での自由しか許されないってこった。

10.23
らんま
らんまのまんが1巻、24,25巻、37,38巻とメモリアル・ブックを読んで勉強したぞ。
つまり、らんまというのはドラゴンボールの代わりだ。サンデー版ドラゴンボールといったところだ。
だから、男らんまの格闘が基本だ。らんまは“格闘まんが”なのだ。
女らんまは(男)らんまの弱点なのだ。
レインボーマンにヨガの5時間があったように、らんまには水をかぶると女の子になるという立派な弱点が備わっているのだ。
どんなに強いヒーローにも何らかの弱点が必要なのだ。そのほうが戦いが盛り上がるからだ。
だから、らんまはバトルシーンに力入れて読むべき。らんまが女らんまのときは弱くてドキドキハラハラ、男らんまに戻って(というか、変身して)パワー全開で楽勝。慣れれば盛り上がるパターン。
だから、女らんまはけっして女の子になりたい男の子なのではなく、主人公である(男)らんまが窮地に陥っている状態と解するべきなのである。らんま負けるな、ガンバレ。
もちろん、格闘まんがと言っても、細かいギャグが至るところに散りばめられている。格闘の間の息抜き。くつろぐ。
バトルあり、ギャグあり、ラブシーンありで、お買い得感アリアリ。
男らんまはバトル担当で、女らんまはギャグ担当。一人二役で大いそがし。
でも、ぼく格闘まんがは嫌いだから興味ない。高橋留美子先生は女だし、格闘まんがに向いてない。ドラゴンボールのように‘戦いの味’が出てない。戦いと言うよりじゃれ合いだ。やっぱり、高橋先生はギャグマンガ家なのだから、らんまもギャグ中心でやったらもっとおもしろかったかも。

10.24
ナナ
#10『恐怖の赤点!期末試験を突破せよ?』
ナナの着ているセーラー服がよかった。
ナナがいつもより男の子っぽく見えたから。
日本のセーラー服は女子学生の象徴とされているが、
そもそもセーラー服は男の水兵さんが着るものなので、
“セーラー服は女の子を男の子のように見せるための服装”なのだ。

うる星では竜之介がセーラー服に憧れているように、
セーラー服はより女らしく見せるための服装とされているが、
それは日本人の顔や体型がセーラー服に似合わないために、
セーラー服の性能を十分に発揮できていないせいだろう。
今回の七人のナナでは、ナナがセーラー服によく似合っていたので、
ナナが男の子のように見えてとってもかわいかった。

らんま
らんまは自由に女の子に変われていいなー。
うらやましいなー。

しかし、実際には、私の妹によれば、女の子の身体は不便なものらしい。
だから、たとえ“かわいい”女の子に変われたとしても、
そんなのはしょせん他人眼の上のことにすぎないのだから、
自分自身の直感としてはどうでもいいことだし、
“かわいい”という概念が実在的なイデアでない以上、
本質的にどうでもいいことに思われてしかたがない。
つまり、仮にこの私にかわいい女の子に自由に変われる能力が備わっていたとしても、
私はその能力を用いて強いてかわいい女の子に変わりたいとは思わないのだ。
たとえ五感のイメージの世界=現象の世界においては、かわいい女の子のほうが男よりも有利であったにせよ、
知覚のイデアの世界=実在の世界においては、かわいい女の子よりも男のほうが有利なのであるから、
私は自分がかわいい女の子であるよりも自分が男であるほうを選ぶのだ。
その点では、実際男に生まれてきた自分が幸福なのだと思う。

らんまは水をかぶると女の子になるけど、
どうして脳だけは男のままなんだ?
人間て言うのは、脳と身体が連動していることが大切なんだ。
女心(つまり、女の脳)は女の身体と連動(調和といってもよい)してこそ自然なのだ。
そこに美しさがある。
なのに、女らんまは脳が男で身体が女で不自然だ。美しくない。
いっそのこと心も女になってしまえ。
女らんまがかわいいとは思わんな。
女の子のかわいさは、身体と心が一致したときに発揮されるのである。

らんまは水をかぶると女になり、お湯をかぶると男になるけど、
それならぬるま湯をかぶるとなんになるんだ?
水とお湯との温度の境目っていったい何度だ?


つばめさんは国家公務員の掃除夫なんですか?

ベムベムハンターこてんぐテン丸
陽子(女化した秀才の真面目な男の子)のファン。

2002年11月
●AT−X
七人のナナ セーラー服のナナが男の子みたいでかわいい
スイートミント だんだん絵が上手になってくる!
東京ミュウミュウ 子供向けの幼稚さがいい味出してる!
忍者戦士飛影 戦国魔人ゴーショーグンの二の舞 
バトシーラー キャラの魅力に嵌[hama]った
モンコレナイト コレクションの“バラのお部屋”が聞き逃せない

●ファミリー劇場
月光仮面 パイロット版「マンモスコング編」がかっこいかった
ゴレンジャー 今見ても本物という感じがする
宇宙戦艦ヤマト 死ぬまでにぜひもう一度見てみたい

●アニマックス
マクロス この作品の独自性をもっと理解してもらいたい(受け売り)
未来少年コナン 前フリのギガントの大群が飛んでいるシーンが見たかった
侍ジャイアンツ 宮崎駿が原画した第1話を見た ここだけ絵がおもしろい

10.25
らんま
仮に自分がらんまのようにかわいい女の子に変われるとしても、
女の子のかわいさなんかに引っかかるのは知覚の働かないバカな男だけだ。
見る目のある男は‘認識の正しさ’だけで相手を評価するから、
かわいさだけで頭(知覚)のない女の子など鼻から問題外だ。
たとえ相手が九能先輩のような強い男でも、
女の子のかわいさなんかに引っかかるような安っぽい男は、
ただ力が強いだけで、しょせん真の男たりえない。
らんまは女らんまになってもクールなままでいるけど、
顔からだがかわいくて、しかも頭が冴えているところが、
女らんまのキャラクターと言うものだろう。
それはもはや(男)らんまから独立した一個の人格なのだ。
つまり、女らんまのいいところは、
“顔からだがかわいくて、心に男気のあること”だろう。
なめたらいかんぜよ。
女らんまは任侠の世界の住人なのだ。かっこいい!
九能が惹かれるのも無理はない。
あかねちゃんもかわいいけれど、
あかねちゃんは心が女気だから、
(最初のころは男っぽかったけど、だんだん女っぽくなった)
普通の女の子なのだ。
それはそれでいいけれど、(とくに実在においては普通のほうがいいかも)
まんが的におもしろいキャラは、
女らんまのほうだろう。
とにかく、女らんまは強い。
だから、子供たちが女らんまに甘えようとするのだ。

掲示板
さっきジャパンネット銀行の自分の口座を調べたら、
確かにオオトリイ ツバメさんから
金¥6,000が振り込まれていました。
最近生活費に困っていたので大変助かりました。
このたびはご親切にありがとうございました。
しかし、なんでまた今ごろになって
マジカルギャルズマニアックス1&2
の代金を戻す気になったのかねえ?

らんま
女らんまは、顔からだがかわいい女の子で心が男気だ。
いくら自分の顔身体がかわいくても、美しくても、それを全然気に欠けない。
だから、女らんまは気高いのだ。
女らんまが自分の顔からだのことを鼻にかけるのは、バカな男どもをからかうときだけだ。
なんて素敵な女の子なんだ!
それとは反対に、
顔からだの‘かわいさ’が“わかる”ことがすでに精神の堕落なのだ。
バカな女や男は、(一生かけても)そこから抜け切れない。
女らんまは自分や他人の顔からだのよさには無頓着だから、
感覚が十分知覚化されており、それゆえに気高いのである。
女の子でも頭がいい子は、(たとえ本人がワリと美人であっても)顔かたちにはとらわれない。
それが本質的なのだ。
学校の試験の成績なんかどうでもいい。
人間として優れている者は、試験の点数のいい者ではなく、
感覚が五感的ではなく知覚的な者なのだ。
しかし、人の感覚が五感的か知覚的かはわかりにくいことなので、
しかたなく試験の点数でそれに代えているだけのことなのである。
そのため、同じ試験であっても、五感的に解く者から知覚的に解く者までさまざまである。
いくら点数がよくても、五感的に解く者は知覚的に解く者よりもセンスが低い。
ただ、人間の感覚のランクは直接には外に現れないから、たとえバカでも試験の点がよければリコウで通るのだ。
しかし、だからといって、それをよしとしてはいけない。
たとえ子供でも、五感ではなく知覚で理解するよう心がけねばならない。
試験の点数なんかに心を奪われるな!
試験の問題が理解できるものでなければ、その試験自体がまちがっているのだ。
そんな試験問題なんか、本気で相手にしなくてもいい。
…とにかく、
女らんまは顔かたちがかわいいのに、心がおちぶれていないところがいい。
いいキャラクターに育っているじゃないか。
心がおちぶれてて顔身体がいい女なんか大嫌いだー。

女らんまは顔身体が美しいのに、心が落ちぶれていないところが素敵だ。
そしたら、普通の女の子はどうして心が落ちぶれているのだろう?
それは、自分で自分の五感を刺激したからだ。
ただでさえ生まれつきバカなのに、そのうえ自分で自分をバカにしてしまったら救いようがない。
このことは、男についても言える。
さしずめ、男の場合には、例えば、
男らんまは顔身体が汚いのに、心が落ちぶれていないところが素敵だ、となるだろう。
知覚においては顔身体が美しかろうが汚かろうがどうでもいいことなのだ。
くだらない化粧代にばかりお金をつぎ込む女が善人なわけがない。
人間としての正道を歩んでいれば、知覚の道を踏み外すわけがない。
詰め込み教育が子供をバカにする。
詰め込み教育では、知覚(イデア、知覚概念)でわかるのではなく、五感(イメージ、視覚像)でわかるだけだからだ。
そもそも人間が眼で見るだけで、言葉を使って考えようとしないことが異常だ。
今の人間観がまちがっていることがそもそもの原因だ。
最近の教育はいったい何を子供に教えているのか!?
考える習慣がないのが不思議だ。
試験勉強がただたんに点を取るためで、知覚を発達させるためでないのが残念なことだ。
知覚を使って考えることは、たんに試験に限ったことではなく、広く生活全般において言えることだ。
最近のガキってバッカじゃねえの?!

まんがの話に戻そう。
高橋留美子先生は、確かにうる星やつらのときはすごかった。
今でも、犬夜叉やっているけど、
私は全然見ていない。
らんま1/2だって、騒ぎ立てるほどのもんじゃねえだろ。
無理をしてまで付き合ってやるこたねえよ。
ほかになんぼでもおもしろいまんががあるやんけ。
犬夜叉やるくらいなら、バトシーラーでもやって欲しいよ。
犬夜叉が流行を決めるのがおもしろくないな。
だって、犬夜叉自体がそもそもおもしろくないもん。
まんが家としては何か描かなきゃ食っていけないから、
つまらないものでも描くんだろうが、
半ば強制的に読ませられる者の身にもなってみてくれ。
日テレも、高橋留美子のネームバリューにこだわらずに、
無名の新人のもっとおもしろいまんがを放送してくれ。
たのんます。

チャット
さっきヤフオクで「2003年東京ミュウミュウカレンダー」を1,330円で落札した。
絵がすっごくかわいくてきれいで、前から欲しかったんですよ、僕。

10.26
らんま
女らんまは心が落ちぶれていない。
今の時代は人間が人間らしく生きられない時代だ。
五感界においても知覚界においても快と不快の両方がある。
五感界が快で知覚界が不快なわけではない。
快か不快かで、五感界か知覚界かを選ぶことはできない。
忘れてはいけないのは、“自分が人間である”ということだ。
自分が人間だから、自分は五感界よりも知覚界のほうを選択せねばならないのだ。
人間として生まれたら人間として生きるしかない。そういうもんだろう。
女らんまは身体が女の子なのに、心が人間のままで落ちぶれていない。
そんなところがとても素敵だ。
身体が女の子だったら、普通は心が落ちぶれて動物になっているものだ。
女らんまはそうでないところがすごく偉〜い。
よっぽど、日ごろから自分の人間性を鍛えて強めているのだろう。
そうでなければ、何のための勉強だってんだ。
勉強を眼先の試験でいい点を取るためだけにやっているから、人間性よりも動物性を鍛えることになってしまうのだ。知覚界から五感界に引っ越す羽目になるのだ。
男らんまは身体が男だから、心が人間のままで落ちぶれていなくても当然だ。
男に生まれたら、五感界から知覚界に引越しながら生き続けねばならない。(つづく)
(つづき)とにかく、今の時代は人間が人間らしく生きていけない時代だ。
そのために、しょっちゅう私は周りの人間と対立する。
だからといって、私は自分の生きかたを変えたりはしない。
それは、私の周りの連中がまちがっているからなのだ。
私の周りの連中が哲学に無知でまちがいだからだ。
今の人間よりも昔の人間のほうが考え深いのでは、今の時代が情けない。
まちがっている者が正しい者に口出しすることはできない。
正しい者よりもまちがっている者を増やすんだったら、何のためのマスメディア(例、テレビやラジオ)なのか?!
※テレビで間違いを流すから、まちがっている者が増加するのだ。※
人類は道具の利用方法を間違っている。
人間はいやいや勉強してやっと正しくなるのだから、普通の人間には正しい常識がなく、テレビで公にまちがった内容を流していいほど人間は正しくはないと考えるべきである。
視聴率や金で動いてはいけない。
人類は人間性を維持し高めてこそ地球上における万物の霊長としての地位を保てるのだから、自ら人間性を否定する行為は絶対にとってはならない。
動物的欲望だけになった人間は、他の動物にも劣る。
視聴率や金だけで動くことは、人間性を否定することになるので、やってはならない。(つづく)
(つづき)フロンを捨てるとオゾン層に穴が開くからフロンの製造が禁止され、
資源やエネルギーが足りなくなるからゴミが分別回収されることになったように、
人間性を破壊するから金では動いてはならないのだ。
人間は紙の上の存在ではないから、実在の中でふざけてはいけない。☆彡名言
具体的には、衣食住を人間らしくすることだ。
衣は寒暑をしのげる程度のものでありさえすればいい。
食は毎日の仕事や思考を支えるものであるべきだ。
住は買い物に便利で、ぐっすり眠れるところがいい。
これ以外のことは極力控えるべきである。
余った時間は思考を練るのに費やせばいい。
大人になったからといって、考えるのをやめていいわけがない。
死ぬまでは油断できない。
その昔、ギリシア人が賢すぎたから、以後千年余りバカが栄える暗黒時代になった。
科学は、確かにわれわれの生活を物質的に豊かにした。
しかし、それはヨーロッパの天才たちのおかげであって、私個人の実力ではない。私たちはただそれをむさぼっているだけだ。
いつの時代にも、人間が人間であることをけっして忘れてはいけない。☆彡

ボトムズOVA 赫奕たる異端
男のアニメが絵のきれいさなんかにこだわらなくてもいいだろ。
昔のマジンガーZやゲッターロボをもっと見習うべきだ。
それにしても、赫奕…
この漢字なんて読むんですかぁ?

Windowsもひらかな入れたら漢字になるけど、
漢字を入れても読みが出んなぁ。機能がいまいちや。
だれか知ってたら教えてよ。
もちろん、意味もわからへ〜ん。

一般
アニメも文学の端くれ。
何から何まで全部がいいとはいえないけれど、
選んで見れば、けっこうおもしろいものがある。
文学が言葉を使うのなら、
アニメは絵で描いた文学☆彡だから、
確かに作り事ではあるけれども、
一片の真実を含んでもいる。
真実とは苦いものだからアニメで甘く味付けしているんだ。

アニメは絵で描いた文学だから、
黙って見るだけでは絵のおもしろさしかわからないで終わる。
だから、アニメを見たあとで、言葉に直してみよう。
そうすれば、内容の素晴らしさがもっとわかるはずだ。

文学では最初っから言葉で書いてくれているので
わざわざ自分で内容を考え直す手間が要らないが、
アニメでは具体的表現しかなく、
すべてが無言の含蓄の内に込められているので、
自分から言葉を与えてやらなければ、
アニメの意味するものがまったく見えてこないのだ。
自然科学においても、
五感の現象に対する意味づけが、天動説と地動説と二つあったが、
結局は地動説のほうが正しかった。
それは、天動説より地動説のほうが実在の世界に近かったからだ。
昔からリンゴが落ちるのを見た人は数知れないが、
それが万有引力のせいだと見抜いたのはニュートンが初めてだった。
ただ眼で見るだけで、言葉を与えなければ、
いつまでたっても眼で見ることしかできない。
アニメの場合でも、ただ眼で見るだけだったら、
アニメの絵のことだけしかわからない。絵が上手か下手か、絵が綺麗か汚いかぐらいのことしかわからない。
それでは、あまりにも子供じみているので、
大人としては、絵の奥にあることがわかるようでなければいけない。
例えば、マクロスでは、たとえブスでも頭のいい女のほうがいい女なのだと言っている。
らんま1/2では、顔身体がかわいくて心が人間のままで落ちぶれていない女がいい女だと言っている。
まんがは(アニメも)実在逃避であってはならない。
いいまんがは実在から遠ざかるのではなく、実在に向かうものなのだ。
そのほうが見る側としても安心して見ていられる。
まんが家も奇をてらったことばかり考えるのではなく、
実在とは何かについて真剣に考えて、その答えを絵にして欲しい。
具体的経験から学ぶのだったら、
現代の物理学ではまだわかっていないことでも、
わかることがあるはずだ。
売れなくて死んでもいいから、そんなまんがを描いて欲しい。

かかってきなさい
おれの実在哲学にかなうやつはいない

一般
アニメには肉と骨がある。
肉とはアニメのどうでもいい部分であり、ここに空想的要素が盛り込まれる。
反対に、骨とはアニメの重要な部分であり、ここに実在的要素が盛り込まれる。
例えば、マクロスにおける肉とは、トランスフォーメーションやダイダロスアタックや板野サーカスなどであり、
骨とは一条光が遊び女のリンミンメイよりも本命の早瀬未沙を選んだことである。
肉を切らして骨を絶つような見方をしていけば、
アニメだってまんざら捨てたもんじゃない。
理系の人は、どうでもいい肉の部分だけに眼をひかれ、肝心の骨の部分が見えていないことがよくある。
機械のことばかり勉強して、人間についての勉強が足りないぞ。

一般
アニメは空想で味付けした実在である。
女の子にとっての空想とは魔法で、
男の子にとっての空想とはロボットである。
しかし、アニメで言いたいことの本質は実在なのだ。
魔法少女のテーマは、“少女の子供から大人への成長”ということで、
ペルシャだったら年上のかっこいい男への実らぬ憧れから、
同じ教室(職場)の隣の席にいる冴えない男へ鞍替えすることだし、
香月舞ならエミリーハウエルのような天才マジシャンになることから、
デパートの屋上や老人ホームのどさまわり芸人になることなのだ。

私だって、仕事のない社会を夢見てやりたい仕事がないまま生きていくよりも、
何かひとつ自分が就くべき仕事を決めて生きていくほうがよかったのかもしれない。
要するに、夢を追いかけるよりも実在を受け容れることだ。
ミンキーモモではひたすら夢や希望を追いかけるだけだったが、
ぴえろ魔法少女では実在を受け容れることがテーマとなっている。
ミンキーモモよりぴえろ魔法少女のほうがちょっと大人だと言えるだろう。
ミンキーモモでは自分の夢をアニメの世界のモモがかなえるのではなく、実在の世界の自分自身がかなえることが強調されたが、
ぴえろ魔法少女でも実在を受け容れて夢をあきらめるのではなく、
実在を受け容れながら自分の夢も捨てないことが強調されている。
ペルシャなら、恋人(室井学)と離れ離れで暮らすつらさに耐えながら、
恋人と一緒に暮らせる日が来るのをあきらめていないし、
香月舞なら、自分がエミリーほど器用ではないけれど、
自分が(土沙周りの)マジシャンになる夢をあきらめはしない。
つまり、ミンキーモモでは自分の夢は自分自身がかなえねばならないことになったが、さらに魔法少女では自分の夢が実在においてどのようにしてかなえられるかを説いているのだ。
花園ユーミの夢は恭平さんと一緒になることとまんが家になることだった。
恭平さんと一緒になるのはペルシャでやったし、まんが家になるのはエミでやった。
さすがにマンネリだね。昔やったアニメを組み合わせているだけで新味がないよ。

一般
ぴえろ魔法少女では、“少女の子供から大人への成長”が描かれている。
クリィミーマミなら、
森沢優が人気アイドルになるのをあきらめて、
俊夫のいいお嫁さんになるのに決めることだ。
ファンシーララも、
篠原みほが人気アイドルになるのをあきらめるまでは行ったが、
“大人への成長”の部分があいまいなままで終わってしまった。
アイドルになるの?モデルになるの?それともまんが家?
アイドルになるのをあきらめたんなら、まんが家になるしかないが、
最終回ではまんが家になることについてはまったく触れていないし、
最初っから服を出すためにまんがが描けるだけみたいやし、
反対にアイドルになるのをあきらめていないとしたら、
あいかわらず子供っぽい夢を持ち続けているだけになるし、
どっちにしてもうまくいかない。
なんだろうな?
たぶん、アイドルになるのはあきらめたんだろうな。
あのヘラヘラ声からすれば、まんが家がお似合いだと思うよ。

ファンシーララの篠原みほの場合
少女が泣きながら「人気アイドルになれない自分」を受け入れることこそ、“大人への成長”と言えるのだと思うな。
その後何になったかはわからないけど。

10.27
らんま
男らんまは男の身体に男気があるけど、
そんなん当たり前だから、あんまり魅力ない。
女らんまは女の身体に男気があるから、
強くて優しくて(外柔内剛)、最高の‘女性’だ。
女らんまのキャラクターに人気がありすぎたので、
まんがでは後になるほど、男らんまの出番が少なくて
女らんまばっかりになって、
これじゃあ女らんまが時々お湯をかぶって男らんまに変身しているみたいだ。
実際、私の実在における経験では、
男が女になったり、女が男になったりするのはいっぺんも見たことがないけど、
男気のある女性や、女気のある男なら時々見たことがある。
その点、女らんまは男気のある女性だから、受け容れやすいのだ。
男らんまより女らんまのほうが魅力があるから、
らんまはいっそのこと女らんまとして生きたほうがいい。
そのかわり、あかねちゃんを男溺泉(ナンニーチャン)に入れて、
女気のある男に変えて、女らんまと結婚させたらいいだろう。
あかねちゃんは普通の女の子で、女の身体に女気があるから、
女らんまの魅力にはかなわないのだ。
いくら毎日猛練習をして自分の肉体を鍛えても、
それはけがをして東風先生に会うためだから、
やっぱりあかねちゃんの女気のなせるわざなのだ。
女らんまのような、“頭が男で身体が女”ぐらいの変態でなければ、
キャラクターとしての魅力は出ないのだ。
男らんまもあかねちゃんも女らんまにはかなわないわけだ。

らんま
あえて言えば、
女らんまの顔身体に、
もう少し凛々しさが表れているとよかった。
あれでは、どう見ても、
色っぽすぎる。

らんま
男気とは、
知覚がよく働いて実在が見えていて、
心が知覚に複合(complex)している状態だ。
(詳しくは、私の哲学日記を見てね。)
反対に、女気とは、
知覚があまり働かず実在に盲目であり、
心が五感(つまり、見たまんまのイメージ)と複合している状態だ。
人間の中身である大脳と、その容れ物である身体とは
必ずしも男と男、女と女というようには対応しない。
“頭が男で身体が女”だったらいいのになあ。
それが人類の永遠の夢だ。
でも、本当は、頭が男だったら、
身体は男でも女でも、どうでもいいんだよ〜ん。
むしろ、女の身体よりも男の身体のほうが便利がいいからそのほうがいい。
女の身体は出産育児機能が付属しすぎている。
しかし、そもそも、人は何のために出産育児するのか。
人間として生きる道は、知覚を働かせて実在を見ること、
五感と心を知覚に従属させることにあるので、
自分の子供を産むとか産まないとか、そんなことはまったくどうでもいいことだ。
第一、人間以外の動物だって子供を産む。虫も魚も子供を産む。
だから、女が子供を産んだって人間として立派なことをしたことにはならない。
出産育児は人間未満の動物としての才能なので、
人間として生きたいなら、もっと人間らしい才能を発揮しなければならない。
男としては、女性にも動物としてよりも人間として生きて欲しいのだ。
とにかく、女には出産育児機能が備わっているばっかりに、その他の機能が抑えられている。(10万円台のパソコンみたいだ。)
だから、身体としては、男のほうが女よりも機能が優れている。
男には実感できかねるが、実際にはそういうものだ。
してみると、女らんまの魅力は、
身体が不便な女であるのに、頭が男のままでいる、
その精神の気高さにあると言えよう。

一般には、人は見かけによらぬものだといえる。
私も友人からよくそんなに言われる。

△男は実在に繋ぎ止められており、
女は現象(見たまんまのイメージ、雰囲気)に流される。
頭のいい女性はたとえ身体がかわいくて美しくても心が男であり、
頭の悪い男はいくら身体がごつくても心は女なのだ。
大阪の猥談ばかり喋りまわるデブなんかは、
頭の中が女のイメージばっかりなので、いくら身体が醜くても心は女なのだ。
実際、少年ジャ○プなんかに出てくる‘いい男’とされているキャラクターの多くは、
実在の世界が見えていなくて、頭の中が女っぽいことが多い。
今のまんがの性格が実在から空想への逃避にすぎない、

魔法少女
ぴえろ魔法少女は、“少女の子供から大人への成長”を描いている。
ペルシャでは愛について、
エミではマジックについて
それぞれの成長が描かれている。
つまり、ペルシャでは憧れのかっこいい先輩よりも同じクラス(職場)のかっこわるい男の子への転向を、
エミでは天才マジシャンよりもデパートの屋上芸人への転向を、
それぞれ描いているのだ。
ペルシャの愛についての問題意識はそのままみんなにも当てはまる。
エミでは具体的にはマジックについてしか述べられていないが、
一般にはすべての仕事について当てはまることなので、☆彡
男女の区別にかかわらず、自分自身の問題として考えてみる価値がある。

特に東大の人なんかはエリート意識が強いから、なんの道でもつねに一流を目指すので、自分がいつもトップに立っていないと気がすまないところがあるが、これは香月舞がエミリーに憧れている状態と同じで、幼稚じみているとも言える。
基礎から一歩一歩の精神を忘れてはいやしないか。
私が中学生のころ数学の帝王ガウスに憧れていたように、
天才に憧れる気持ちは誰にでもあるが、
自分には天才ほどの才能がないこともまた事実だ。
その事実を受け容れて地味にコツコツと努力することが大事なのだ。
残念ながら、私には子供の頃からやりたい仕事なんてものはまったくなかったので、こんな問題について考えたことがない。今の歳になってはもはや手遅れだ。
中学のとき数学が好きだったのも、もともとはただ先生がおもしろかったからにすぎない。(中学生のときのおれは快楽主義だったのか。)
親が公務員だったので、仕事について好き嫌いも言ってらんない。
だから、香月舞のようにはいかないが、
言いたいことは、
たとえ自分がどんな仕事に就いても、天才気取りでいきがったりせずに、
自分がやれることをひとつひとつきちんと手を抜かずにやる、
と言うことではあるまいか。
それから、ペルシャのテーマである‘愛’についての問題は、
男というものは女を愛したりするものではない。
愛とは一種の病気のようなものである。
幸いにも、私はまだその病気にかかったことがない。
としてかたづける。


社会的存在としての人間 h14.10.27
他人のことはどうでもいい…のではなく、
自分より正しい者には従属し、
自分より正しくない者には従属しない。
ことが大事なのだ。
‘どうでもいい’で済ますのは実在逃避だ。

らんま
物は見方が大事である。
物は見方によって違ってくる。
物は見たままの姿がその実体なのではなく、
物に対する意味づけこそが、その物の実体なのだ。
アルキメデスの力学では、サケが卵を産むためにもといた川に戻ったり、ハトがもといた巣箱に戻ったりするように、物は土から出来ているから、もとあった土のところに帰りたがるので下に落ちるが、
ニュートンの力学では、物は地球が引っ張るから下に落ちるのだ。
眼先だけでは同じものの落下でも、二つの異なる意味づけがあるのであり、
アルキメデスの意味づけよりもニュートンの意味づけのほうが実在の世界により近かったのだ。
らんまは眼先では男が女に変わるけれども、
実際には、頭が男のままで身体が男から女に入れ替わるだけだ。
そこのところは、一種の‘魔法’と考えればいい。魔法少女を見慣れた者にとっては、さしたる問題ではない。
頭が変わらなければ、身体が変わってもたいしたことではない。
われわれ視聴者は、らんまの現象(つまり、眼先の姿形)にとらわれるのではなく、
らんまの実体(つまり、らんまの姿形に対する知覚における意味付け)を見なければならないのだ。

魔法少女
ぴえろ魔法少女は、“少女の子供から大人への成長”を描いている。
ペルシャでは‘愛’について、エミでは‘仕事’について描いている。
ここでは、‘愛’について、ペルシャとは無関係に、もっと考えてみよう。
愛…と言えば奇麗事だが、私にはむしろその意味に汚さを感じる。
つまり、愛とは、なんだかんだいっても、結局は、
男と女がHをすることだ。
汚いと言うのは、その行為が動物的だからだ。
動物が動物的であるのはかまわんが、
人間が動物的であるのは許されない。
人間と言う生物はそこまで来てしまっているのだ。
愛は表向きは奇麗事だが、裏では汚い。そういうの嫌い。

魔法少女
ここでは、ペルシャとは無関係に、さらに‘愛’について考えてみよう。
そもそも‘愛’がどうのこうの言い出す者は、みな
勉強や仕事の落ちこぼれだ。
勉強や仕事に落ちこぼれて人間的な生きがいがなくなったから、
しかたがなく、動物的な生きがいである‘愛’にすがって生きようとするのだ。

ただ生きておればいいんか?あ〜ん?
俺ならとっくに死んでいるぞ。
しかし、もっと気に食わないのは、
そういう落ちこぼれのやつらが、意外に出世していることだ。
建て前だけが立派で、裏では汚いことをやりたい放題。
こんな連中が世の中を牛耳っているのだからたまらない。なんなんやこいつら。
私はそんな連中を無視することにする。
そんな連中にかぎって、アニメは悪いて言うけれど、
アニメを肉と骨とに分けて、(肉と骨についてはアニメ感想文の一般論を参照)
骨のところだけ見るようにすれば、悪くはない。
アニメをバカにするような連中はたいがいHが生きがいだが、
Hだったら、もはや骨と肉とに分けようがないやろうが。全部が肉だ。
お前らの負けだ。
アニメでは実在と空想とが複合的なので、
実在の部分だけを拾ってみれば、けっこう真剣に議論できるものなのだ。
ちょっと古い話だが、80年代の大学生は『未来警察ウラシマン』について
そういう見方で、夜遅くまで熱心に友人たちと議論を戦わしたものだ。
それが通(つう)の見方ってもんじゃねえっスか。
アニメでLDやDVDになるやつって、たいていそういうところがあるじゃないっスか。
例えば、魔法の妖精ペルシャがDVDになることがあっても、
キャッ党忍伝てやんでえがDVDになるのはいつのことかわからん。
そういうもんじゃないっスか。(キャッ党忍伝てやんでえのテーマって何?)
やっぱり、売れ筋は、アニメの通の見方に適う物でないと、ね。

10.28
らんま
諸君、君たちはこれまでの人生の中で、
『外見はかわいい女の子なのに、中身は男だな』、
と思える女子に出会ったことはないだろうか。
私はある。
(ラッキー♪)
いわゆる、‘できる女’だ。
だから、女らんまは実在するのだ。
男が生まれつき女の子のぬいぐるみをかぶっているようなものだ。
もちろん、身体は男で中身も男な男子も実在する。
男らんまも実在する。
あと、問題は男らんまが女らんまに変身することだが、
これは、男らんまが実在するし、女らんまも実在するから、
実在するものと実在するものとを結べばいいだけなので、
多少論理的に飛躍があるものの、さほど理解に苦しまない。
あえて言えば、ポケットの中に隠し持っていた女の子のぬいぐるみに
すばやく着替えるようなものだ。
(それなら、魔法少女だって、有機的に合成された大人の身体を転送ビームで子供の身体と入れ替えているようなものだ。)
…とにかく、女らんまは外見はかわいい女の子だが、
長く付き合っていると、だんだん中身が見えてきて、
それが男なのだとわかる。
そんな素敵な女の子なのだ。(ポッ)

らんま
それにしても、「男が女に変わる」など実在においてはありそうもない。実際、私は実在において「男が女に変わる」のを一度も自分の眼で見たことがない。
だから、これは空想の部分であって、肉(どうでもいいこと)に当たる。
それでは、らんまの骨(大事なこと)とは何か?
それは、『知恵と力で敵に勝つ』ことであろう。
実在的と言えなくはないが、
あまりにも子供じみていて、
大人はついていけない。
それにしても、らんまはよくいろいろ戦った。
難しい漢字の技ばかり使って。(私は漢字に弱い。)
らんまの戦いは、いつも力より知恵が勝っていた。
高橋先生は女性だけれど、さすがに女はずる賢い。
もっと純情じゃないと、ケンカはできない。
男は頭なんかなくても力だけでぶつかっていくのだ。
あんまり戦いに機転が利きすぎるので、
戦いがお上品になってしまいましたわね。
らんまはあしたのジョーと同じくらいおもしろい格闘アニメだったけれど、
私ぐらい歳をとると戦いはもうこりごりだ。
今は実在の中でどうしたら自分が楽しく生きられるかを考えている。

チャット
いいえ。CSのAT−Xで今やってるんです。昨日の日曜日の17時には第5話をやっていました。いちごが新体操部に入って活躍する話でした。個人的には、みんとが好きです。(出番少ないけど。)私の住んでいる所ではテレビ東京が入らないので、今度見るのが初めてです!(本当は知ってたやろ?)

侍ジャイアンツ
#3「でっかい奴は嫌いだぜ」
番場蛮の家がすごかったけど、
高知はあんなに田舎じゃねー!!
高知駅から海が見えるほど、高知は家が少なくねー!!

番場蛮はでっかい奴が嫌いだけれど、
同じ土佐出身の私も、仕切り屋やリーダーは嫌いだ。
男は自分が他人に支配されるのが嫌だからだ。

未来少年コナン
#1「のこされ島」
やったー!生まれてはじめてコナンの第1話が見れた!!
昔NHKで(ナイターのない日に)夜7時半からやっていたけど、
私は第3話から後しか見たことがない。
ラナちゃんの髪がたが変。
ラナちゃんがアジサシとイメージ(五感)で話せるのは、
コナンが知覚(イデア)で実在を見るのと対照的だ。

チャット
セーラームーンは重たいけど、東京ミュウミュウは軽いので、大違いです。セーラームーンは暗くて見る気がしなかったけれど、東京ミュウミュウは明るくて最終回まで見たいです。たとえパクリでも、ぼくはぜったい見ます!

チャット
△さっきヤフオクのマジカルエミのところを見ましたが、マジカルエミDVDはヤフオクで売れ残りを買ったほうが安く買えるみたいです。

△おじいもロケットが落ちたのによく生きとるなあ?

10.29
らんま◎
らんまはケンカばかりしていて、まんがの半分以上がケンカのシーンで、
話がパートに分かれていて、テンポがゆっくりしていて、
らんまとあかねちゃんが別々の部屋で寝ていて、
子供の味がする。
私には、らんま1/2よりもうる星やつらのほうがおもしろかった。
うる星やつらにはいろいろ大人っぽいところがあって、
あたるとラムが同じ部屋で寝ていて(ラムは押入れだったけど)、
大人の味がするから。
だから、うる星はLD−BOXとワイド版全巻を買ったけど、
らんまはコミック5冊とメモリアルブックしか買わなかった。
さすがの高橋先生も、うる星とめぞんで大人ネタを使い切っていたのだろう。
だから、らんまには子供ネタしかない。
「男が女に変わる」のだって、
いまだ未分化の子供だから平気で言えることであって、
分化の進んだ大人にとっては毒だ。
私が大人になったからうる星がおもしろくて、
反対に子供から見ればらんまのほうがおもしろいのかも知れない。
ターゲットが明らかにうる星とらんまとでは違っているから、
いくら同じ高橋先生のファンだからと言って、
どっちもわかるもんじゃない。
現在放映中の犬夜叉も、らんまに似ていて戦いが中心だから、
私が楽しめなくても仕方がない。
アニメだって、大人向けのと子供向けのとがあって、
大人の世界と子供の世界はつくづく違うもんだ。
昔のアニメは子供向けだったが、
80年代から、子供から大人への成長を描くようになり、
今は大人向けのアニメだってある(パレンタルロック付き)。[つづく]
[つづき]正直言って、私は大人向けのアニメが嫌いだ。
必ず女性器をいじり回すシーンが入っているからだ。

大人の意味を勘違いしている。
大人とは、知覚で実在が見れる者のことであって、
五感でしか見れないのが子供なのだ。
女性器をいじり回すのは女性の五感を刺激することであるが、
性器の快感のように五感だけでしかわからないことは、
知覚にとってはわからないことだから、大人の男にとっては喜びようがない。
動機がなければ、誰もやらない。
女性の五感を刺激することは、女性の感覚の質を低下させることだから、
男と女が同じ人間である以上、絶対にしてはならない。
女性はほんらい‘頭が男で身体が女’なのだから、
男と女の違いは身体のうえだけなので、
男と女は本質的には同じ知覚を持った生物すなわち人間なのである。
知覚と五感の違いは、男と女の違いではなく、
大人と子供の違いなのだ。
今の大人向けのアニメは子供以上に五感的で幼稚すぎる。
私は、80年代に流行った子供と大人の中間向けのアニメが好きだ。
私の精神年齢がそこらへんにあるせいかもしれない。

[さらにつづき]でも、大人アニメに性的描写があるってことは、
実在する‘性’の問題から逃げていないってことだから、
いいことなのだろう。

子供は、そのようなことについて考えられる土台がまだ出来上がっていないから、つまり哲学的概念がまだ不足していてわからないから、
性について考えるには早すぎるのだ。
しかし、大人はもはやそれを避けることが許されない。
いつまでも「わからない、どうでもいい」では済まされないのだ。
暴力シーンについても同じことが言える。
これも、実在する‘力’の問題から逃げてはいけないということで、つまりは、
『いくら力が強くても、それに正しさが伴わなければ、人間としてふさわしくない。』
ってことだ。
アメリカがただ力が強いだけで正しさのない国であるばっかりに、人類全体を危機に陥れている。
人類は力の強さではなく知覚の正しさにおいて結束しなければならない。
つまり、力の強い者が人類を支配するのではなく、
知覚の正しい者が支配しなければならない。
そうしなければ、人類そのものが成り立たなくなるのだ。
現実に武器で支配できるからといって、それをそのまま善しとしてはいけない。
現実にできるからといって、欲望の向くまま何でもやっていいわけではない。
自分が人間であることを忘れて、自分が人間であることに背いてはならない。
バカなアメリカなんてはやく地図からなくなってしまえ。
日常生活においては、アスレチックジムに通って肉体を鍛える暇があったら、
自分でいろんなことについて考えたほうがいいということだ。

らんま1/2とは無関係に、アメリカについて考えてみたい。
物が豊かってのがまず気に入らんな。
それって、いうのは、つまり、
五感の欲望をそのまま肯定してるってことやんか。
それが、人間にふさわしくない態度だ。
アメリカは人間ではなく動物の国だ。
人間であるかぎり、物の豊かさなんか必要ない。認識の豊かさを求めるべきだ。
ただ、認識が実在的であって、実在に適応して生きていればよいのだ。
それ以外は現象(実在に従属しない五感)の生み出した無駄だ。
アメリカは実在が見えていない、実在に適応して生きていないバカの集まりだ。
自分たちのくだらん欲望満たすためだけに生きているんやったら、
そのうち自分から滅びるわ。

らんま1/2とは無関係に、人間とは何かについて考えてみたい。
人間は自由である。
人間は人間にも動物にもなることができる。
だからこそ、人間への道を選ばねばならないのだ。
そのためには、自分で自分の五感を刺激するようなことはせずに、
ことばを使って考えて自分の知覚を刺激して発達させることだ。

さらに
人間には眼で見たり耳で聞いたりHをしたり、
現象(五感)の世界の喜びしかないのではない。
知覚で見える実在の世界にも喜びはあるはずだ。
そのほうが人間的な喜びであるといえるだろう。

もとい
らんまは確かにおもしろいまんがだが、
紙の上だけの世界に逃げるのでは、
人間として失格と言うべきであろう。
実在と紙の上の世界と二つある分裂した性格が好かないのだ。
どっちつかずのいいかげんでは生きていけない。
人間は紙の上の世界ではなく実在の中に住んでいるのであり、
人間じしん実在するものだから、
人間は紙の上の世界よりも実在のほうを優先しなければならないのである。
実在と紙の上の世界とが統一されていなければならない。
そのためには、紙の上の世界を実在的な部分と実在的でない部分とに分け、
実在的でない部分は軽く見て、
実在的な部分に主に目をつけて、そこを深く考え込んでいけばいい。
例えば、アニメは絵がおもしろいが、
それは現象的な喜びであって、実在的には無意味だから、
あまり深くこだわってもしかたがないのだ。

魔法少女
ペルシャの‘愛’の世界と、この俺とはなんの縁もないけどねー。

バトシーラー
#1キャプテンファッツが、
ガイの作った竜巻に脱水されて転身するところが
カッコよかったね。

バトシーラー
最近前フリで格闘シーンをやることが多い。
人気を上げようとして、‘かっこいいアニメ’を印象付けてるね。
ウエーブ・ライトで台無しだけど。
風の国のオルガンの伴奏が、
ドラクエの港町ルプガナの曲みたいで
懐かしかった。

バトシーラー
絵のポップなところが好きなんだけどね。

マクロス
#6ロンゲスト・バースデー
柿崎がいかにもやり手で、マックスが女みたいで頼りなげで、
実際にはその反対で、
まったく退屈させませんなあ、このアニメは。

KI・ME・RA
右腕がちぎれていたところが映っていたけど、
骨が背骨みたいで変だった。
腕の骨はOs.Radius(橈骨)とOs.Ulna(尺骨)と言う2本の骨でできていて、
途中に関節なんかない。(医学部出身)
アニメに出ていた骨は1本で、しかも背骨みたいに
小さい骨に分かれていた。
アニメの人間は見かけだけまともで、内部構造はメチャメチャだ。

この番組には、いちおう視聴年齢制限(ペアレンタルロック)がかかっていますが、
適当な数字を入力して、“年齢制限なし”にすれば、
容易に解除できます。
私も知らずに、7777と入力して、年齢制限なしにしたら、
見えてしまいました。
あとで嫌な番組を見たくなくて視聴年齢制限を掛けたくなったのですが、どうやったらいいのかわかりません。
だれか教えて。

テン丸
原作のまんが家の名前がユニーク。
“かぶと虫太郎”だって(笑)。

一般
アニメの空想の喜びなんか、かったるい。
まあ、軽くていいけどね。
私には、実在の喜びのほうがずーーーっと深いように思われるが。
実在よりも空想を喜ぶなんて、キチガイの青ビョウタンのすることだ。
空想の喜びは、あくまでジョウダン。
仕事や勉強の息抜きに楽しむことや。
それやから、私は、
‘アニメはちょっとだけおもしろけりゃいい’と思ったから、
DVDやLDに高い出費をする代わりに、
スカパーに入ろうと考えたんよ。
スカパーだと自分の好きなアニメだけを見るわけにはいかないけど、
テレビでやるアニメはいちおう何でもある程度はおもしろいし、
自分がアニメを見る時間もかぎられている。だいたい1週間に10時間くらいしか見れない。
そりゃ、どうしても好きなアニメはDVDだって買うけど、
そんな本命は一生かけても5本もない。(7万円×5≒30万円)

かといって、その5本だけを一生見つづけると飽きてしまう。
実際には、そんなに本命でなくても、そこそこおもしろけりゃ満足して見られる。
お金だって、DVD1枚は6000円もするけど5話くらいしか入っていないし、
スカパーだと3000円で一月間アニメが見たい放題だ。だいたい月に50話は見る。(3000円×12ヶ月×30年≒100万円。意外と高いなあ)
…こうして考えてみると、
自分の気に入ったLDやDVDを気負いこんで大枚はたいて買うよりも、
スカパーに入ってそこそこ気に入ったアニメをテキトーに選んでダラダラ見たほうが断然お得やちゅうことに気づいたんや。

これまでに、ミンキーモモやファンシーララや魔神英雄伝ワタルのLDに高い金をかけたのがバカみたいや。
最初っからスカパーに入とったらよかったー。

バトシーラー
私は子供の頃からギャグアニメが好きだけれど、
最近の子供はギャグをくだらないと思って見向きもしないのかな。
格闘アニメなら見てくれるのか。
前フリでイメチェンをはかろうとしている。
最近のアニメには失われたものが、この作品にはある!

バト
格闘アニメが流行るのはテレビゲームのせいだろう。
ゲームはなんでも多かれ少なかれ格闘だから。
その点、ギャグアニメは複雑だ。
テレビゲームはギャグなんか言ってくれないから。
コンピューターと人間の違いなのさ。

10.30
キメラ
ペアレンタルロックがかかっているけど、
こういう作品て
‘男尊女卑みたいなこと’が入っているだけで、
そうしたやつは必ず死ぬ(殺される)ことになるから、
死ぬことはそいつが間違っていると言うことなので、
そんなに悪いもんじゃない。けっして淫らな話じゃない。
むしろすごく道徳的なんじゃないかな。勧善懲悪。
そういう作品の実在的意味(いわゆる骨)は、『Hはダメよ』ということだ。
それにしてもなにも死ななくてもいいと思うが。
ってゆーか、死ぬのはオーバー。だっちゅーの。
一般の女に対してはHがいけないのに、
自分と結婚した女に対してはHがいいというのは、
身勝手な作り事だ。
本質が見えていない、本質が。
『結婚=五感の肯定』だろうが。
男と女が結びつくのは、Hの快感においてであって、
Hの快感は現象(知覚に従属しない五感)の最たるものだから、
人間であるかぎり現象を否定し知覚を肯定しなければならないので、
人間は結婚しないものなのだ。[つづく]
[つづき]それでは人類が滅亡することになるが、
そんなこと俺が知ったことか。
宇宙には二つの解があって、
ひとつは人間のいる宇宙、
もうひとつは人間のいない宇宙だ。
どっちも実現できることなので、どちらでもいいのだ。
問題は、“自分ひとりが実在的に生きること”にあるので、
他人は死のうが生きようがどうでもいい。
“自分が正しい(実在が見える)者に従属し、正しくない(実在が見えない)者に従属しない”のも、
自分自身の行動を律するためであって、
他人が正しくあろうがなかろうが、他人の勝手だ。
そもそも自分に自由になるのは自分ひとりだけであるから、
これでいいのだ。
自分自身についてさえ、
親に頼んで産んでもらったわけではないから、
そもそも自分が生まれたくて生まれたわけではないから、
自分は生きていても死んでもどうでもいいのだ。
‘人間として生まれた以上は人間として生きる’のが正しいが、
それはあくまでも結果論にすぎない。
自分が生まれる前の時間も含めて考えれば、
自分が欲して自分が生まれたんじゃないから、
ほんらい自分が生きていても死んでもどっちでもいいのだ。
生まれた子供にとっても、
仕事を強いられて奴隷のように不自由に生きねばならない現代社会が嫌なはずだ。
自分だって、そうだろうが。
だったら、子供だって生まれたくないはずだ。
もっと、子どもの身になって考えなさい。
このように、結婚は現象の喜びにすぎず、それに伴う代償は甚大であるから、控えるべきである。
私もアニメを見るから、私にも現象の喜びはあるが、
それはあくまでも軽い冗談であって本気ではない。遊びなのだ。

サイコアーマーゴーバリアン
ゴーバリアンも、ペペロの冒険も、
主題歌がおもろいだけやろ。
主題歌のノリがいいだけで、全話放映まで持っていける
歌の威力ってすごい!

ミント
オープニングのはじめに、ミントコンパクトが開いて
ミントがにっこりウインクするところがあるけど、
テレビ画面を鏡のようにして見るのが、
こういうアニメの正しい見方ってことかな。

らんま
『女性はほんらい‘頭が男で身体が女’なのだから、
男と女の違いは身体のうえだけなので、
男と女は本質的には同じ知覚を持った生物すなわち人間なのである。
知覚と五感の違いは、男と女の違いではなく、
大人と子供の違いなのだ。』☆彡(素晴らしい。自画自賛)
…でも、実際には、
私が出会った‘頭が男で身体だけが女’と思える女性は
私のこれまでの生涯で“たったの二人”しかいない!!
‘頭が女で身体も女’と思える女性は無数にいたのに。
これは文化のせいだろうか、それともやっぱり遺伝のせい?
たとえ遺伝のためであったとしても、女性を男性と同等に見るのは、
いい理念だから、これからも続けていこう。
『人間の本質は頭であって身体ではない。』

らんま
アフターケア
[34]の一部分の文章が壊れていたので、ここに原文を再び載せることにする。
私は、80年代に流行った子供と大人の中間向けのアニメが好きだ。
私の精神年齢がそこらへんにあるせいかもしれない。
でも、大人アニメに性的描写があるってことは、
実在する‘性’の問題から逃げていないってことだから、
いいことなのだろう。
子供は、そのようなことについて考えられる土台がまだ出来上がっていないから、つまり哲学的概念がまだ不足していてわからないから、
性について考えるには早すぎるのだ。
しかし、大人はもはやそれを避けることが許されない。
いつまでも「わからない、どうでもいい」では済まされないのだ。

らんま
人間と言うものは、人間になろうとするから人間なのであって、
人間になろうとしなければ動物のままなのだ。


インデックス
はやく仕事や
勉強のない社会に
なって欲しい


△一般掲示板
ご寄付ありがとうございました。
大鳥居つばめ様のところへ
幸せの塔からの快感子が
一番強く届く様にします。

哲学ノート
西暦2002年10月30日、哲学ノート設立。
最近ネタに困ってて書くことがなくなってきたので、
「哲学日記」を掲示板にしました。
この頃アニメばかり見て気持ちがたるんでいます。
アニメのことばかり考えていて気持ちが暗〜くなっています。
これではイケナイ。
哲学に興味ある方からの
哲学に関する、疑問、珍問、難問なんでもお受けいたします。
まじめに生きる方を応援します。
固くならずに自由に人生について考えましょう。

最近ネタに困ってて書くことがなくなってきたので、
「哲学日記」を楽に書き込める掲示板にしました。
この頃アニメばかり見て気持ちがたるんでいます。
アニメのことばかり考えていて気持ちが暗〜くなっています。
哲学に興味ある方からの
哲学に関する、疑問、珍問、難問なんでもお受けいたします。
まじめに生きる方を応援します。
私といっしょに人生について考えましょう。

最近ネタに困ってて書くことがなくなってきたので、
「哲学日記」を楽に書き込める掲示板にしました。
この頃アニメばかり見て気持ちがたるんでいます。
ひとりでアニメのことばかり考えて気持ちが暗〜くなっています。
哲学に興味ある方からの
哲学に関する、疑問、珍問、難問なんでもお受けいたします。
まじめに生きる方を応援します。
私といっしょに人生について考えましょう。

△チャット
つばめ先生は本物の大鳥居つばめを押しのけて

哲ノート
『インターネット』
最初の一年は他人から見られるつもりで書いていたけど、
今では、見る人がいないことを前提に書いている。
悟りだ。

哲ノート
『プロフィール』
血液型:A型
誕生日:1月下旬
星座 :水瓶座
干支 :辰年生まれ
タバコ:生まれてから一本も吸ったことない(いちいち火をつけるのが面倒くさいので)
パチンコ:生まれてから一度も店に入ったことがない(人ごみが嫌いなので)
ギャンブル:生まれてから一度もやったことがない(確率は嫌いだ!)
宝くじ:生まれてから一度も買ったことない(期待値が負だから)
酒  :大学時代から焼酎「紅乙女」を毎日お湯わり(‘六甲のおいしい水’を沸かしたもの)で飲んでいる。あとビール少々。
コーヒー:生まれてからカップ3杯しか飲んだことがない。(小5のとき無理やり母親に飲まされて一晩中眠れなかった。以後、2度と飲むまいと誓ったが、ときどきやむをえず付き合いで飲む。)
住所 :高知市(高校まで)→福岡市(大学まで)→名古屋近郊(約1年)→兵庫県(現在)→?
好きなアニメ(お約束):ギャグ系(バトシーラー、ついでにとんちんかん、さすがの猿飛、ドッとKONIちゃん、モンコレナイト、あずまんが大王、など)かわいコ系(東京ミュウミュウ、七人のナナ、スイートミント、など)その他、超時空要塞マクロス、アキハバラ電脳組とかSFラブコメ系。
免許 :医師免許は持っているが、自動車の免許は持っていない。原付バイクの免許もない。(乗り物に超酔いやすいため)
好きなこと:はっきりしていること。数学や物理学。今は学校で習わなかった哲学を趣味にしている。
嫌いなこと:はっきりしないこと。社会科や生物学など。あと、音楽は音痴なのと体育は運動音痴(中学まで鉄棒の逆上がりができなかった)なので苦手。

らんま
うーむ。
『バンダイ ガシャポン【HGらんま1/2】の台紙』を見ていると、
男らんまと女らんまとは別人なような気がする。
別人と見ると、女らんまの魅力が上がる。
素直にかわいいと言えるから。
むさ苦しい男らんまなんかと関係つけんといてくれ。
そのほうが垢〔あか〕抜けて楽しい。
いっそ男らんまが父親との特訓の最中に呪泉郷で死んで、きっぱり
女らんまに生まれ変わったほうがよかった。

そのほうが気持ちが落ち着いて見ていられる。

いちいち男と女が変わらなくてもいいじゃねーかよー。
アシュラ男爵じゃーあるめーし。

11.1
KONI
録画したビデオを見返してみた。
わからなかったギャグがわかってうれしかった。
ふつうのアニメにくらべたらおもしろすぎるー。
ベソメがミントに似てるー。
絶対再放送希望。
GENCOってなんなの?最近注目株。

△KONI
MORO=田村ゆかり
キャラクターの‘はっきりしている’ところが好き。

チャット
DIONって、HPが“20MB”まで無料なんだって。こりゃ、絶対DIONに変えなくっちゃね。

ヤフオクでキャッ党忍伝てやんでえのビデオがいっぱい出品されてるよ。この機会をお見逃しなく。

もう一度言う。DIONって、“コミコミコースでも”HPが【20MB】まで無料なんだって。こりゃ絶対DIONに入るっきゃないね。

哲ノート
『アニメ』
ギャグアニメは、辛い人生を生きる糧になる。
かわいコアニメは、“丸み”が美味しい。
SFラブコメは、冷たい科学に夢を与えてくれる。


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