[1] 現代物理学の構造☆☆☆ h18.1.8
まず、相対論から。
長さは、計られるもの(対象)と測るもの(物さし)との関係で決まる。
測るものと測るものの関係を与えるのが、相対論である。
例えば、質量のない二つの恒星(点)は測られるもの(宇宙に実在する対象)であり、
一つの物差しを与えると、その間の距離が決まる。
同じ対象を測っても、物差しが変わると、長さが変わるわけである。
つまり、長さ=f(測られるもの、測るもの)
同様に、量子力学においても、
観測量a=F(測られるものΨ、測るものA)で決まる。
観測量は実際には一回に一つの値しか決まらないが、ほんらい確率的(偶然に得られた一つの値)であって、
a={(a1,p1),(a2,p2),(a3,p3),…}
と書くべきものである。
このように、相対論にしろ量子力学にしろ、現代物理では、
物理量は測られるものと測るものとの関係で(一意的または確率的に)決まる。
これに対し、古典力学では、
物理量は測られるものだけで決まっていた。
ちょうど、観念論において、
対象の解釈(意味)が、対象だけではなく、
対象と個人が知覚に持っている概念(イデア)群との関係で決まるようなものだ。
対象の意味=f(対象、個人が知覚に持っている概念群)

[2] コペンハーゲン解釈(正統派) h18.1.23
シュレーディンガー方程式は相対性原理に従うが、“観測”に伴うボルン縮退は相対性原理に従わない。
“観測”に伴うボルン縮退は相対性理論の限界を超える。
人が物を見る“観測”は、相対性理論に従わない自然現象である。
この宇宙は、シュレーディンガー方程式とボルン縮退の2つの法則に従って運動している。
“観測”しなければ、万物はシュレーディンガー方程式に従って運動するだけだが、“観測”することによって、シュレーディンガー方程式から逸脱する。

量子力学における最大の発見は、“観測”が相対性原理に従わないことである。
相対論も量子力学も、“観測”についての不思議な性質について書き表している。
つまり、ボルン原理(不確定性原理)が量子力学における相対性原理(観測者による長さや時間の伸び縮み)みたいなものだ。観測するものと観測されるものが、たとえ相対速度ゼロであっても、観測による測定値や(観測されるものの)状態の変化が起こるのだ。いわば、宇宙には未知の次元の速さのようなものがあって、観測者はその上に乗って対象を観測しているのかもしれない。

Ψ(状態関数)は、観測される前の対象の状態を表す。

《観測問題》については、ボルンの原理をシュレーディンガー方程式に当てはめると、観測までもがシュレーディンガー方程式に従うことになり、シュレーディンガー方程式は相対性原理に従うから、観測が相対性原理に従うことになる。
ところが、『EPRパラドックス』の実験より、観測は相対性原理に従わない(光速度を超える2粒子間の相関がある)ことがわかっている。
したがって、ボルンの原理はシュレーディンガー方程式では書けないことになる。

このように、“観測”を物理現象に付け足すと、相対性理論を超える現象が現れる。

シュレディンガーの猫の問題は、見るものと見られるものの境界がどこになるかということだが、じつはどこでもいいということなのである。計算上はどこでやっても同じである。とにかく、“観測”が行われたことが大事なのであって、どこで行われたかは観測するものの立場によって任意である。相対論と同じで、観測は観測するものと観測されるものの両方で決まるのであって、観測されるものだけで決まると考えると間違いなのだ。例えば、観測者の入れ子を考えてみても、箱の内側の観測者にとっては観測による状態関数のボルン収縮が起きていても、箱の外側の観測者にとってはまだ観測していないから箱の中のものはシュレーディンガー方程式で動いており状態関数の収縮は起きていないのだ。そういうことが、量子力学のような観念論の世界では可能なのだ。相対論における観測者による“同時性の破れ”と同じことだ。


自動測定装置で測定する場合でも、自動測定装置にとっては測定によるボルン収縮が起こる。(誰も確認はできないけれども。)意識(感覚)の有無は、波束の収縮にとって関係ない。(と、私は今のところ考える。)

“観測”については、相対性原理と不確定性原理の2つがあることがわかっただけで、まだよくわかっていないことが多いのかもしれない。

[3] 一般相対論 h18.1.26
相対論などの観念論の世界においては、
観測される量は、観測されるものと観測するものの両方で決まる。
一般相対論における観測されるものとは、質点が置かれた宇宙であり、
観測するものとは、空間の各点に置かれた物差しの集まりである。
観測するもの(の運動状態)が違えば、空間の各点に置かれた物差しの集まりも違ってくる。
宇宙の各点における長さ=f(質点の置かれた宇宙、宇宙空間の各点に置かれた物差しの集まり)
特殊相対論では、宇宙の各点における長さは位置によらず同じであるが(向きにはよるが)、
一般相対論では、宇宙の各点における長さは位置によって違う。
質点の置かれた宇宙では、
自由落下する局所慣性系では、歪みのない空間になるから、
無限遠で静止した系から見ると、空間の各点で自由落下する局所慣性系と逆の歪みを持った局所空間の集まりになる。[このように、空間の各点に長さの違う物差しを分布させると、重力のある空間と同じものができる。]

[4] 特殊相対論 h18.1.26
動いている物差しは伸びる。だから、物体の長さは縮む。
例えば、『不思議の国のトムキンス』(ガモフ著)の挿絵を見ればわかる。
動いている時計は速く進む(時計の針が速く回る)。だから、現象の時間は延びる。
例えば、日の出から日没までの時間(普通は12時間)が速く進む時計で計ると1年だったりする。
例えば、静止系から見て寿命(“誕生→消滅”の時間)1p秒の素粒子が、動いている観測者から見ると、寿命が1秒だったりする。寿命が1秒あると、大気圏上層でγ線と空気分子の衝突で発生した光速に近いスピードで動く素粒子が地上に届くのに十分である。
観測者が動いている対象を見ることは、逆に対象から見れば観測者が動いていることになり、観測者の物差しが伸び時計が速く進むから、(動いている観測者から見れば)対象は(静止しているときに較べて)長さが縮み時間が延びることになる。
一般相対論では、無限遠の静止系から見ると、地上の座標系は歪んで動いているから、長さは縮むし、時間は延びる。例えば、無限遠で身長175cm寿命60才の人は、地表では身長170cm寿命65才となる。

9:11 2006/01/29
量子力学メモ
いわば、シュレーディンガー方程式は縦の糸であり、ボルン原理は横の糸であり、
縦糸と横糸が織り合わさって出来ているのが量子力学の世界すなわちこの宇宙である。
(観測は余計だね。)

20:04 2006/01/31
量子力学メモ
《量子力学ボルンの原理》
直方体を縦から見れば正方形でも、横から見ると長方形で、見る方向によって見える形が違う。
実体は直方体であって、その影に当たる正方形でも長方形でもない。
観測では影しか見えないのだ。
実体は影よりも明らかに1次元多いのだ。
実体=(重み×形)の総和。
動いているのは実体であって、影のほうではない。
粒子と波を統合するときに、形の次元が上がった。
2次元人が3次元の直方体の動きを理解できないようなものである。

[5] ブラックホール h18.2.2
ブラックホールの時空の境界線(面)の内から出た光がいつまで経っても外側に出てこないということは、ブラックホールの時空の境界線の内側が∞の広さを持つということだ。
ブラックホールは外側から見ると有限の大きさしかないのに、内側から見ると無限の広さがある。これはブラックホールの時空の境界線の内側がひとつの小宇宙に匹敵するということだ。
ブラックホールの外側から時空の境界線に近づこうとしても、これまたいつまで経っても到達できない。宇宙はブラックホールの近くで無限の広がりを持っているといえよう。
この宇宙は時空の境界線で小さな宇宙に分かれている。それぞれのブラックホールの時空の境界線の内側の小宇宙と、その外側の宇宙に分かれている。
宇宙が∞の広さを持っているのはブラックホールのおかげといえよう。

ブラックホールの上に玉を置くと、時空の境界線(面)に向かって上昇して行く。
時空の境界線の外側でも、時空の境界線(面)に向かって物体が落下して行く。
つまり、時空の境界線にすべての物体が集まってくる。
ブラックホールの時空の境界面の内側では、物体は時空の境界面に向かって上昇して行く。すなわち、これがビッグバン宇宙である。我々の住んでいるこの宇宙は、ひとつのブラックホールが作り出した時空の境界面の内側の世界なのかもしれない。

(おまけ)『世界忍者戦ジライヤ』の最終回で世紀の秘宝パコがミニ・ブラックホールであることが判明したが、“パコ”は私が高知大生の頃、高知市福井町にあった美容院“パゴパゴ”に由来している。

[6] 観念論の世界 h18.2.2
現象=f(実体、観測者)
観測者に見えるのは、現象であって実体ではない。
同じ実体に対して、観測者の状態によって違った現象が現れる。
例えば、電荷に対して静止している観測者には電場しか現れないが、同じ電荷に対して動いている観測者には電場と磁場の両方が現れる。止まっている観測者が動いている電荷を見ることは、止まっている電荷を動いている観測者が見ることと同じである。磁場は時空の歪みの副産物である。

[7] 相対論と量子力学 h18.2.3
現象=実体×観測者
観測者に見えるのは、現象であって実体ではない。
現象は、実体と観測者の相対速度(相対論)によっても、観測者が観測する量(量子力学)によっても変わる。
つまり、
現象=実体×時空間(相対論)(ただし、ここでの×は、相対性原理の下での分解を表す。相対論に“観測”の概念はない。)
現象=実体×観測(量子力学)(ただし、ここでの×は、ボルンの原理の下での分解を表す。)
現象は実体だけではなく、観測者にも依存する。観測者に大きく依存する場合もある。ボルンの原理は、“観測によって実体が現象に変わるときの法則”を表している。それは時空間の外側で起こるので、運動方程式が書けず確率的になる。[それにしても、量子力学は実体像を複雑にしてしまった!]

[8] EPRパラドックスはどうして可能なのか? h18.2.3

観測者に見える現象は、いくつかの素因子に分解される。
時空間と観測とは独立なので、“×時空間”と“×観測”とは可換になる。[ボルンの原理には、(x,t)が含まれていないので、相対性原理を満足しなくてもよい。]
アインシュタインは、“×観測”を知らなかったので、EPRパラドックスがわからなかったにすぎない。[そうなると、エネルギーが問題になるが、“2粒子が相関していることを知る”ことにエネルギーが費やされるので、エネルギーの得失はないと考えればよいだろう。]
現象の素因子分解が成り立つ(つまり、現象=実体Ψ×時空間×観測と書ける)ためには、実体Ψは相対性原理と不確定性原理のふたつの原理に従わねばならない。

[9] 並木理論の問題点 h18.2.4
並木理論とは、『小数の素粒子からなる系が、実体か実体+観測かどちらになるか?』という問題に対し、実体+観測になるという理論である。
しかし、私は実体にすぎないと考える。
その理由は、
1)覚めた目で見れば、この系は“ひとつの多体系”にほかならない。
2)波束が多少収束するといっても、一点にまで収束するわけではない。これでは位置の観測をしたとはいえない。
からである。
量子力学における観測とは、具体的事物(観測機器)によらない、抽象的・理念的なものであろう。

[10] 相対論と量子力学の関係 h18.2.8
相対論は現象と現象の関係を述べただけであり、実体はわからないままだった。
つまり、2つの時空間において同じ対象(実体)を見るとき、
現象1=実体1×時空間1 つまり、実体1=現象1÷時空間1
現象2=実体2×時空間2
ここで、実体1=実体2
ゆえに、現象2=(現象1÷時空間1)×時空間2=現象1×(時空間2÷時空間1)
実体は“粒子と波の統一”によって量子力学が明らかにした。

相対論では、
現象=実体×時空間
だったが、相対論における実体は量子力学における現象にすぎなかった。
つまり、実体(相対論)=現象(量子力学)=実体(量子力学)×観測
したがって、
現象(相対論&量子力学)=(実体×観測)×時空間
となる。

[11] 「EPRパラドックスはどうして可能なのか?」への補足 h18.2.8
現象=(実体×観測)×時空間
  =(実体×時空間)×観測 (∵ボルンの原理と相対性原理とは独立だから)
つまり、実体×観測が相対性原理に従うことは、
実体×時空間すなわちスピンがボルンの原理に従うことである。
ところで、ボルンの原理は“状態の瞬間的変化”を認めているから、
スピンの変化は相対性原理に従わなくてもかまわない。

[12] シュレディンガーの猫 h18.3.15
自然界には存在しない電球という物をエジソンが造り出したように、シュレディンガーの猫すなわち生きた猫と死んだ猫の中間状態の猫は自然界には存在しないが、シュレディンガーが図示したように系を組めば(つまり、放射性物質と猫をつなげば)人工的に造り出せるのである。

[13] 不確定性原理☆☆ h18.5.26
不確定性原理は空間についての原理である。
相対論において時空間が伸び縮みしたように、量子論においては位相空間に不確定性がある。相対論においては動いている物差しは伸びるが、量子論においては物差しがブレる(確率的に動く)。物差しがブレるために物(粒子)の位置を測ろうとすると、位置が確率的になる。つまり、不確定性原理とは、時空間が確率的に運動していることである。
古典力学においては、物差しがブレないから位置が確定するが、量子論においては物差しがブレるから位置が不確定になる。物差しがブレるために、ニュートン方程式がシュレディンガー方程式に変わる。
例えば、止まっている粒子の位置をブレる(確率的に動いている)物差しで測ると、その位置は時間とともに拡散して広がってゆく。粒子(点)が止まっていても、空間が動いているために粒子が動くことになる。粒子はつねに粒子だが、空間がブレ運動しているために粒子が広がって見えるのだ。


[14] 観測問題☆☆☆ h18.5.27,h18.6.2
『現象=実体×時空間』
物体の位置は実体の位置と時空間の物差しの両方で決まる。
実体の運動はニュートン方程式で一意的に決まるが、時空間の運動(微細な物差しのブレ)は運動方程式では書けない[不確定性原理]。このために、物体の位置は確率的に分布する。[実体的に止まっている物体でさえ、時空間がブレ運動しているために、現象的には動いている(拡散)。]
現象としての物体の運動[シュレディンガー方程式]は、実体としての物体の運動[ニュートン方程式]と時空間のブレ運動[不確定性原理]の重ね合わせである(S=N×U)。このため、静止している物体でも、空間が動いているために、動くことになる。(実際には、空間の運動は確率運動だから、物体の運動は拡散運動になる。)
宇宙はブレる物差しで物体の位置を測って物体を動かしている[シュレディンガー方程式]が、我々が物体の位置を測るときには物差しを止めて見る。このために運動中の物体の位置は多意的だが、我々が観測した物体の位置は一意的になる[観測問題]。つまり、素粒子の実体はつねに点だが、空間がブレ運動(確率運動)しているために、現象的には素粒子が広がって見える。(たとえ素粒子が静止していても、時空間が確率運動するために、現象的には素粒子が運動していることになる。ただし、この空間の運動は、古典力学のような方程式で書ける(時間の関数としての)運動ではなく、確率的な運動である。)空間の確率運動のために素粒子が現象的に(見掛けだけ)広がって見えているだけだから、素粒子を止めた物差しで見るとやはり点のままなのだ。

・つまり、点を曖昧な物差しで測ると雲になるが、明確な物差しで測ると点のままだということである。(とくに、静止した粒子の場合について、物差しの曖昧さ(左右にブレる量)が時間とともに増大すると考えればよい。)
・いわば、‘観測しないとき’の時空間と‘観測するとき’の時空間の2つの時空間があって、観測しないときの時空間は曖昧で(確率的に運動していて)、観測するときの時空間は正確である(静止している)と考えればよい。つまり、観測とは曖昧な時空間から正確な時空間へ移ることである。(相対論において、物体から見て“静止している”時空間から“動いている”時空間へ飛び移るようなものである。)
・例えば、観測している時空間において静止している粒子(点)を考える。そこで、観測するのをやめたとする。観測するときの時空間は静止しているが、観測しないときの時空間は確率的に運動している。確率的に運動している時空間から静止している粒子を見ると、粒子のほうが確率的に動いて見える。[確率的に運動している時空間から静止している粒子を見ることは、静止している時空間から確率的に運動している粒子を見ることと同じである。]だから、もう一度粒子を観測して、静止している時空間に戻ると、粒子は(確率的に動いた中での)どこかの一点に静止して現れる。結局、観測する時空間の間に観測しない時空間を挟むと、粒子が瞬間的に動いて見える。要するに、観測問題は不確定性原理の裏返しにすぎない。[つまり、観測問題を疑問視することは、不確定性原理を疑問視するのと同じことだ。]観測しないときの時空間に不確定性があるだけのことだ。[観測しないときの時空間に不確定性があることと、観測するときの時空間に不確定性がないこととは同値だ。]つまり、観測の前後で粒子の状態が変わる(波束が収縮する)のではなく、時空間の状態が変わるのだ。観測とは、時空間の不確定性がなくなることにほかならない。(位置の観測においては位置の不確定性がなくなる代わりに、運動量の不確定性が犠牲になる(無限大になる)が。一般の物理量の観測においても、位置の観測の場合と同様である。)

つまり、『現象=実体×時空間』より、
現象(点)=実体×確定空間(ΔX=0)…@
現象(?)=実体×不確定空間(ΔX>0)…A
@より、実体=現象(点)/確定空間
Aへ代入すると、現象(?)=現象(点)×(不確定空間/確定空間)
この“現象(?)”のことを確率波と呼ぶ。
逆に、現象(点)=現象(?)×(確定空間/不確定空間)
これが『観測問題』にほかならない。

[15] 測定の誤差について h18.7.7
理想的な測定ではΔ=0だが、一般の測定には多かれ少なかれ誤差がある(Δ>0)。
測定の誤差を許せば、素粒子の位置は確定する。
例えば、テレビのブラウン管のピクセルには有限の大きさがあり、電子の広がりよりもピクセルの大きさのほうが大きいから、電子の位置の広がりは無視できて点と見なすことができ、古典力学で運動が解けるのだ。

見るものについての量 h18.11.4
見ること(現象)は、見られるものと見るものの両方で成り立つ。[現象=見られるもの×見るもの]
時空間(または位相空間)は、見るものについての量であって見られるものについての量ではない。
したがって、相対論ではまず見るものと見るものの比較から始めるのだ。
[それにしても、なぜアインシュタインは光速度を不変と考えたのだろう?]
一般相対論では、見られる物(質点)と見る時空間との間に相互作用があると考えるのである。

[16] 量子力学と相対論 h21.3.6
相対論では、運動している空間と時間の座標系が伸びたり縮んだりするように、
不確定性原理とは、位相空間の位置軸と運動量軸とがつねにガタガタ震えていることである。
運動している位相空間では、位相空間の位置軸と運動量軸のガタガタは変わるのだろうか?変わらないのだろうか?変わるとすれば、どれくらい変わるのだろうか?
それがわかったとき、量子論と相対論が統合される。EPRパラドックスを解く鍵がそこにあるかも?

[17] 第4量子化法? h21.3.6
変数変換
x’=x+Δx、
p’=p+Δp
ただし、Δx×Δp≧h
として、古典力学におけるxとpについての方程式をx’とp’についての方程式に書き換えて解けばよい。
そんなことよりも大事なのは、『自分がよくわかることを自分は考えるべきであって、自分がよくわからないことを自分は考えてはいけない』ということである。

[18] 確率的存在について☆☆☆ h21.3.27
相対論では、実体のほかに物差しを考えて、われわれは物差しの上に乗って実体を見る。だから、物差しが動いて伸びると実体が縮んで見える。
それと同じように、量子論では位相空間の位置の物差しと運動量の物差しが相互に影響しあって震[ふる]えている(不確定性原理)が、われわれは位置の物差しや運動量の物差しに乗って実体を見るのである。
今面倒なので、位置の物差しだけがあるとし、その位置の物差しだけが震えているものとする。
われわれが震えている位置の物差しに乗って止まっている質点を見ると、逆に質点のほうが震えて動いているように見える。
だから、古典力学の質点が量子力学では確率的に存在するのである。

t=0での質点(δ波)が、時間とともに正規分布となって広がっていくのが実感できる。
もともとこの世に質点などは存在せず、この世のすべてのものは最初からぼんやりと確率的に存在しているのである。

シュレーディンガー方程式とは、震えている物差しの上から見たときの物体の運動(時間変化)を書き表したものである。特に、定常状態とは、十分時間が経ってもうこれ以上変化しなくなったように見えるときの状態である。
ひとつの対象についてのある物理量を測定すると、一般にはその状態が変わって、どれかひとつの値になる。無重力状態で回っているサイコロに重力をかけるとサイコロが倒れてどれか一つの目が出るようなものである。回っているサイコロと、止まったサイコロとでは状態が違う。つまり、測定すると、対象の状態が変わってしまうのだ。
ひとつの物理量には測定できる状態(固有状態)が限られており、一般には測定できない状態のほうが多く、測定できない状態を無理やり測定すると、どれか測定できる状態のひとつに変わってしまうのだ。つまり、測定すると状態が変わって、変わった後の状態の値が確定値として測定されるのである。測定に伴う状態変化は、『瞬間的』であって、シュレディンガー方程式で書けるものではないと考えられている。測定に伴う状態変化がシュレーディンガー方程式で書けないからこそ、シュレーディンガー方程式とは別に『ボルンの原理』が要るのである。
測定とは、震えている物差しをピタッと止めることだから、もとの古典力学的な一点に戻るのである。それと引き換えに、その物差しに相補的な物差し(例えば、位置の物差しに対する運動量の物差し)の震えが無限大になって相補的な物理量の値が失われてしまう。[つまり、見られるほうが一点なのに見るほうが震えているからいっぱいに見えるのである。例えば、原点に静止している一点について考えてみると、実体的には原点に静止しているままなのに位置の物差しが震えているから、逆に物差しに乗って見ると一点が正規分布で広がるように見える。そこで物差しの震えを止めると、逆に実体のほうが動かされるのである。つまり、実体は動いていないが、物差しが自分で震えて勝手に動いた分だけずれて見えるのだ。つまり、実在する物差しには“震え運動”があり、Ψ(x、t)は物差しの確率的な位置のずれを表す関数なのである(位置の符号が反対になるが)。『宇宙が実体と物差しの二つの要素から成る』から、こんなことが可能になるのだ。]ただし、『測定の際に一般には状態が変わるから、単純に物差しだけを止めるのとはわけが違う。』でも、そう考えれば、何となく実感できる。では、どうして測定すると状態が変わるのか?それは、その状態が測定する物理量にとっては不安定な状態だからである。つまり、測定とは、その物理量にとっての不安定な状態を安定な状態のどれかひとつに変えてから、その安定な状態について物理量を測定することなのだ。それでは、どうして不安定な状態が安定な状態に変わるのか?それは、現在の物理ではまだわからない。つまり、この世がもともとそういう風にできているとしか答えられない。でも、逆さにしたコップの水がこぼれるように、不安定な状態が安定な状態に変わることが慣れか何かで何となく納得できれば、量子力学の世界を実感できるようになるだろう。

シュレーディンガーの猫の場合は、一匹の猫がいて、物差しには生きた猫と死んだ猫の二つの目盛りがあって、その物差しが確率的に震え運動をしていると考えればよい。箱を開けることが物差しをピタッと止めることに相当する。つまり、t=0に猫を測ると生きている目盛りのところに猫が来ている物差しだけであったものが、箱の蓋[ふた]を閉じると物差しが確率的な震え運動をし始めて、素粒子の半減期が1時間だとすると、1時間後には猫が生きている目盛りに来ている物差しと死んでいる目盛りに来ている物差しとで半々になる。物差しの上に乗っている人から見ると、猫が生きた猫と死んだ猫の半々に見えるわけである。そこで箱の蓋を開けると、物差しの震えがピタッと止まって、物差しの目盛りが生きた猫か死んだ猫かのどちらかを示して、物差しの上の人から見ると生きた猫か死んだ猫かのどちらかになるわけである。

シュレーディンガーの猫の問題は、相対論の双子のパラドックスとはわけが違う。双子のパラドックスの場合には、地球上に双子がいて、双子の一方がロケットに乗って宇宙に飛び出し地球に戻って来てみると自分は若いのに地上に残った双子の一方が年寄りになって特殊相対性理論の時間の相対性に矛盾しているというのだが、地球上からロケットが飛び立つ時と宇宙で方向転換をする時と地上に着陸する時に加速度運動が加わり、加速度運動には特殊相対性理論が適用できないので、じつは矛盾がないということである。一方、シュレーディンガーの猫の場合には、古典力学と比べると量子力学が変な感じがするというだけのことであって、量子力学の世界に矛盾があると言っているのではない。だから、そもそもあまり問題にする必要がないのである。私が以前考えた、『コペンハーゲン解釈(正統派) h18.1.23』の下の図では、左の観測者では波束が収束しているのに、右の観測者では波束が収束していないが、これは『現象が実体と物差しの両方で決まる』という現代物理の世界がわかっていればなんでもないことである。つまり、相対性理論において、物体の長さが物体だけで一意的に決まるのではなく、観測者が物体に対して動いているか止まっているかで違ってくるのと同じことである。



EPRパラドックスは、ひとつの粒子が崩壊する時に反対向きのスピンを持った2個の粒子が反対向きに出るが、一方の粒子のスピンの向きを測定すると、ボルンの原理によって他方の粒子のスピンの向きが決まるから、一方の粒子のスピンの向きを測定すれば他方の粒子のスピンの向きが決まり、反対に一方の粒子のスピンの向きを測定しなければ他方の粒子のスピンの向きも決まらないので、粒子のスピンの向きを測定したかしないかの情報を瞬間的に超光速で伝えることができるというものである。相対性理論の世界の中では、情報が超光速で伝わることはありえないから矛盾であるが、それは相対性理論の世界には物差しの震え運動(不確定性原理)の概念がないせいであって、実際には物差しの震え運動があるから矛盾ではなく、実験的にもそのことが確認されているわけである。つまり、相対性原理だけでは実在認識が不十分であり、不確定性原理を考えに入れなければこれからの実在認識はやっていけないぞということである。

[19] 物体の超光速移動は可能か? h21.3.28

位置の物差しに震[ふる]えがなければ、物体は光速度以下でしか運動しない。
しかし、実際には、位置の物差しに震えがあるから、物体は光速度以上で運動し得る。
だから、量子力学の世界においては“光速度の限界”にあまり意味がないのである。

[20] 確率的な物差し h21.3.29
原点に置かれた一個の粒子を考える。
粒子の位置をつねに観測し続けることは、物差しを指でビタッと押さえつけて動かないようにすることである。固定した物差しに乗っている人から見ると、原点に置かれた一個の粒子はいつまでも静止した一個の粒子のままである。
一方、粒子の位置を観測しないことは、物差しから指を離して物差しの確率的な震[ふる]え運動を許すことである。だから、物差しは手を離すと同時に“確率的な物差し”になる。確率的な物差しに乗っている人から見ると、逆に原点に置かれた一個の粒子が確率的に正規分布で広がっていくように見える。
その後、粒子の位置を測定すると、確率的に動いている物差しを指で押さえつけてピタッと止めるから、物差しは最初の位置からずれて再び固定されることになる。固定された物差しで粒子の位置を測ることによって、はじめて粒子の位置が定まる。物差しの上に乗っている人から見ると、粒子が物差しのずれと逆向きに動いたように見える。
つまり、物差しが粒子の位置を測るか測らないかによって物差しが確率的にならなかったり確率的になったりするのである。相対論において、物差しが物体に対して止まっているか動いているかによって物差しが伸びなかったり伸びたりするのと同様である。
“確率的な物差し”とは、古典力学にはない新しい概念である。確率的な物差しは曖昧な物差しである。曖昧な物差しではっきりした物を測れば曖昧になるが、曖昧な物差しで曖昧な物を測ればはっきりする。


[21] 井戸型ポテンシャル h21.3.29
井戸の底の真ん中に一個の粒子を置く場合を考える。粒子の位置は、必要のある時にだけ測定するものとし、必要のないときには測定しないものとする。
古典力学では、その粒子は井戸の底の真ん中にずっと止まっている。古典力学では位置の物差しは動かないから、物差しの上に乗って見ても粒子は止まったままである。
しかし、量子力学では、“物差しの確率的な震え運動”があるから、われわれが粒子の位置を測定しない時には、われわれは“確率的な物差し”の上に乗って粒子を見ることになるのであり、確率的な物差しの上に乗って静止した粒子を見ると逆に粒子が確率的に広がって運動するように見える。その結果、粒子が多くいる領域と粒子が少なくいる領域ができる。

さらに、井戸の壁(側面)が完全弾性衝突をする場合、古典力学では粒子に任意のスピードを与えることができ(ただし光速以下)、粒子は永遠に左の壁と右の壁の間を行ったり来たりするが、
量子力学では、古典力学での粒子の往復運動の上に物差しの震[ふる]え運動が加わるために、粒子のエネルギーが跳び跳びの値を取り、粒子のスピードも跳び跳びの値しか取ることができない(右向きと左向きの2種類があるが)。速いスピードで運動する粒子を、震えている物差しに乗って見ると、粒子が正規分布で広がって、十分時間が経った後では(定常状態)、節[ふし]の多い波にように分布して見えるのである。反対に、たとえ粒子の実体が静止しているときでも、物差しの震え運動があるために、物差しに乗っている人から見ると粒子が反対向きに動いているように見えるので、粒子は運動エネルギーを持っているのである(零点エネルギー←縁起のいい名前ではない)。
1個の電子が陽子の周りをクルクル回っている水素原子も、電子の位置を観測しない時には、3次元の確率的に震える物差しの上に乗って見ることになるから、定常状態ではs軌道やp軌道のような分布になる。
たくさんの電子が陽子の周りを回っている他の原子についても、電子の位置を観測しない時には、それぞれの電子が内側から順番にs軌道やp軌道の分布を取ってたくさんの電子が殻[から]に詰[つ]まった状態になる。

[22] 動いている時計は速く進む h21.3.30
相対論においては、量子論における位置の物差しと運動量の物差しのように、位置の物差しと時刻の物差しが相補的である。
つまり、動いている位置の物差しが伸びると、時刻の物差しは縮む。
だから、時刻の物差しに乗っている人から見ると、逆に同じ現象(例えば、素粒子が生まれてから消えるまで)の時間が伸びて見えるのである。例えば、大気圏上層で発生した素粒子が猛スピードで地上に落下する場合、素粒子から見ると地上にいる人が逆向きに猛スピードで動いていることになるが、動いている時刻の物差しは縮むから、時刻の物差しに乗っている人から見ると逆に素粒子が生まれてから消えるまでの時間が伸びて見えることになり、したがって、地上にいる人から見ると、素粒子の寿命が延びてその分素粒子は長い距離を移動できることになるわけである。
動いている時刻の物差しは縮むから、つまり動いている時計は速く進むつまり動いている時計の針は速く回ることになる。
そもそも相対性とは、同じ実体が見る人の状態によって違う現象に見えることである。例えば、真空中を一個の電荷が動いている場合、電荷と同じ速さで動く人から見れば電場しか現れないが、電荷と違う速さで動いている人から見れば、電場と磁場の両方が現れることになる。だから、電場や磁場は実体ではなく現象にほかならないのである。これまで実体だと考えられたものがじつは現象にすぎなかったのである。一般に、時間や距離も実体ではなく現象なのである。例えば、電車の真ん中なら光が前と後ろに出た場合、電車に乗っている人から見れば光は電車の前と後ろに同時に着くが、地上にいる人から見れば、光は電車の後ろのほうが前よりも先に着く。それは、光が物差しの上を伝わるからである。量子論で位置の観測をするときに位置の物差しをビタッと止めるように、相対論では『光だけが物差しの上を伝わる』ことができるのである(光速度不変の原理)。だから、地球上で静止している時空間から見た場合、太陽の周りでは時空間が曲がっているので、光が時空間に乗って動くから曲がって見える(重力レンズ効果)。また、無限遠で静止している時空間から見た場合、地上の時空間は上空の時空間に比べて強く曲がっているので、上空で出した光が地上に届くと上空の時空間と地上の時空間が異なるために光の振動数が増えて見えるのである(青方偏移)。しかし、実際には、エレベーター(局所慣性系)に乗ってみたほうがわかりやすい。つまり、重力レンズではエレベータに乗っている人から見れば光は直進するが、エレベーターを外から見ている人にとってはエレベーター自体が自然落下するから光の進路が曲がって見る。青方偏移では、エレベーターに乗っている人から見れば光は光速で鉛直下方に進むが、エレベーターの外にいる人から見ると、エレベーター自体が自然落下しているので光が寸詰[すんづ]まって見えるので振動数が増すのである。赤方偏移は、その逆である。

[23] 天才リーマン h21.10.9
リーマンは『距離は先天的に与えられているものではなく、人間が与えるものである』と考えた。
考えてみれば、距離は紙の上には書いていない。距離は人間が定規[じょうぎ]を当てて計るから、実際には定規が距離を決めているのだ。
『空間や時間は定規のようなものであって、物体ではないのである。』
とにかく、実際の宇宙がそのようにできているのだ。宇宙はそのような構造を持っているのだ。つまり、時間や空間は定規なのだ。
そのことを元祖リーマン(1826-1866)が見抜いていたのだ。
リーマンは物理学者よりも物理学者だったのだ。
イマヌエル=カント(1724-1804)も同じようなことを言っていたから、カントも物理学者だったのだ。
カントやリーマンは哲学や数学的な洞察から、物理的な宇宙の構造を見抜いていたのだ。
よっぽどトロ臭くないかぎり、それくらいのことには自分で気付かねばなければ人間の資格がないのだろう。
カントは時間や空間についての考察を一般化して、すべての概念が人間が決めるものだと考えた。こうして彼はイデア論を理論的に正当化したが、今日[こんにち]では大げさすぎてまちがっていると考えられている。
アインシュタイン(1879-1955)が特殊相対性理論を発表したのが1905年である。
時代が経つに連れて、人間の実在についての認識が徐々に洗練されて行くのがわかる。

[24] 非ユークリッド幾何学〜光の屈折〜 h21.11.11
光は空気と水の境界面で屈折する。
光にとっては屈折した線が“直線”である。
空気の空間(第1,2象限)と水の空間(第3,4象限)を水面で“張り合わせた空間”をひとつの空間と考えれば、この空間も矛盾のない距離の定義されたひとつの空間である。


[25] 相対性原理 h22.2.6
アインシュタインは相対性原理を考えた。
相対性原理とは、『誰にとっても宇宙の方程式は同じ形をしている』というものである。つまり、何か理由があってその結果方程式が「同じになる」のではなく、もともとこの宇宙では方程式が『同じである』と考えた。[神は何か理由があって神なのではなく、最初からたんなる政府の取り決めで神であるようなものである。]
マクスウェルの式は相対性原理を満たすから正しい式だと考えた。
マクスウェルの式はローレンツ変換で不変である。
だから、正しい方程式はローレンツ変換を満たすと考えた。
それで、古いニュートン方程式を“修正”して新しいニュートン方程式を得た。
さらに、アインシュタインはローレンツ変換を拡張して“一般化されたローレンツ変換”を考えた。
正しい方程式は一般化されたローレンツ変換を満足すると考えた。
それで、古典物理学の方程式を“修正”して新しい方程式を得た。
特殊相対論は一般相対論への足がかりのようなものである。

[26] 相対性原理と不確定性原理 h22.2.10
相対性原理があるから、物の長さが違ってくる。相対性原理があるから、物体に対する物差しの運動状態によって物差しが伸びたり縮んだりするからである。
不確定性原理があるから、物の位置が一意的に決まらない。観測者が不確定な動きをしているから、観測者から見たときに物の位置が不確定である。物体の運動を記述する方程式はあるが、物差しの運動を記述する方程式がないために、物体の位置が不確定になるのである。
位相空間では、位置の物差しと運動量の物差しが2枚組みになっている。古典力学では両方の物差しが動かない。止まっている。量子力学では位置の物差しと運動量の物差しがつねに連動して不確定な動きをしている。物の位置を測るときには位置の物差しを止めねばならない。なぜなら、それが測定の定義だからである。位置の物差しは不確定な運動をしているので、位置の物差しを止めると確率的に静止した位置の物差しが現れるのである。一方、運動量の物差しは分散が無限大になるから吹っ飛んで運動量がわからなくなる。
物差しの不確定な運動を考えると面倒臭いから、逆に物差し(座標系)を止めて物を不確定に運動させる。相対論で物差しが伸びたら、逆に物が縮んで見えるようなものである。それがシュレディンガー方程式である。物の位置を測定する時には確率的に静止した物差しが現れるが、これを逆に見れば、確率的に静止した物が現れることになる。これがすなわちボルンの原理である。確率的に運動している物差しを止めることは、トランプのカードをよく切ってその中から一枚選ぶことに相当するから、確率的に止まった物差しが一本現れるわけである。[人間には物差しを止める能力が備わっているのである。それをなぜかと突っ込むことは、相対性原理がなぜ宇宙にあるかと突っ込むのと同じことである。だから、とにかく『人間には確率的に運動している物差しを止める力がある』のである。それがボルンの原理なのだ。将来ボルンの原理の原因がわかる日が来るかもしれないが、今のところはこの原理を認めてやっていくしかない。]
相対性原理も不確定性原理も空間論である。古典力学では空間の性質についてまでは考えなかったが、現代物理学では空間も考察の対象となるのだ。宇宙空間には相対性原理と不確定性原理のふたつの性質が潜[ひそ]んでいたのである。
実在する宇宙では位置の物差しと運動量の物差しが不確定に運動しているために、トンネル効果や超伝導などの古典力学にはない新しい現象が現れるのである。[国家宗教と現代法では人間がやれることが違うようなものである。国家宗教では神と同じことなら何でもやることが許されるが、その反面神と違うことができない。だから、国家宗教よりも現代法のほうが国民に自由があるのだ。]

[27] 『見えない物差し』 h22.3.4
我々が物を見るときには、『見えない物差し』を当てて見ている。
我々は幼い時から物差しを使ってきて物差しに慣れているので、知らず知らずのうちに『見えない物差し』を当てて物を見ているのである。それで、物の大きさがわかるのである。

我々が物を見るときには、『見えない物差し』の上に乗って物を見ているのである。
だから、『見えない物差し』が変われば、物の見え方も変わるのだ。物の長さが変わるのだ。
つまり、『見えない物差し』が伸びれば物が縮んで見え、反対に『見えない物差し』が縮めば物が伸びて見えるのだ。
相対性理論の世界では、『見えない物差し』が伸びたり『見えない時計』が早く動いたりするので、物体の大きさが縮んだり現象の時間が伸びたりするのである。実際に、そういう法則が宇宙にあると言うことなのである。

[28] 超伝導物質 h22.4.9
物質の結晶構造によっては、フェルミ球の電子が電子対を作ったほうが安定(エネルギーが低い状態)になることがある。
今のところはまだ、常温で電子対を作ったほうが安定になる物質は見つかっていないが、絶対にないとは限らない。時間をかけて探していけば、いずれは見つかるかもしれない。

[29] 宇宙の大きさ h22.10.12
宇宙の大きさは、宇宙に存在する2個の素粒子の距離の最大値として定義される。
素粒子が1個もない宇宙の大きさは0である。
今の宇宙はビッグバンから始まったとされている。
だから、今の宇宙の大きさは有限なのだ。
つまり、宇宙の大きさは有限であって無限ではないのだ。

[30] 座標系 h23.5.29
座標系には質量がない。静止質量も運動質量もない。
だから、座標系は光速以上の速さで動いてもいい。相対論でも、ひとつの座標系に対して別の座標系が光速以上の速さで動いていてもいい。
今のところ、座標系の運動については量子力学の不確定性原理以外の法則はない。
不確定性原理では、座標系は光速以上の速さで確率的に運動している。
観測は不確定性原理(凾×凾吹h)を満足しながら行われる。観測することは、観測する物理量の座標軸の運動を止[と]めることである。観測する対象と観測者の両方をシュレーディンガー方程式に乗せて解けば、観測結果は一意的に定まるはずである。実際には、観測には天文学的な数の素粒子が関与するから、人間の能力ではそれらの運動をシュレーディンガー方程式に乗せて解くことはできない。だから、人間は観測者自身をシュレーディンガー方程式から外[はず]して解くことしかできず、観測結果を確率的に予想することしかできないのだ。ところが、宇宙自体は天文学的な数の素粒子が関与するシュレーディンガー方程式が解けるから、観測対象と観測者の両方を含めたシュレーディンガー方程式が解けるから、結果が一意的に定まるのだ。
つまり、ボルンの原理は、厳密な意味での原理ではなく、便宜[べんぎ]上の簡略式なのだ。もしも、人間が観測対象と観測者自身を含めたシュレーディンガー方程式が解けたならシュレーディンガー方程式だけあればよくボルンの原理は要らないが、人間が観測者自身を含めたシュレーディンガー方程式を解けないためにボルンの原理が必要なのだ。つまり、人間は対象についての観測結果を確率的にしか予想できないのだ。観測者自身の状態は確率的に一様分布になるので、ボルンの原理が合うのだろう。例えば、シュレーディンガーの猫については、観測者が猫を見る前は猫の状態はψ(生きた猫)+ψ(死んだ猫)だが、観測者が猫を見るときに猫の状態がシュレーディンガー方程式に従いながら変わってψ(生きた猫)かψ(死んだ猫)かのどちらかになるのである。1匹の同じシュレーディンガーの猫を2人の異なる人が見る場合、先にシュレーディンガーの猫を見た人が生きた猫か死んだ猫かを見たら後で見た人も必ず同じ状態の猫を見るから、観測に伴う波動関数の変化はシュレーディンガーの方程式で書けると考えられる。つまり、先の人がシュレーディンガーの猫を見たら“量子力学的確率的に存在している猫”すなわちψ(生きた猫)+ψ(死んだ猫)が変化してψ(生きた猫)かψ(死んだ猫)かのどちらかになる。この時点で後の人にとっては箱の中の猫はψ(生きた猫)かψ(死んだ猫)のどちらかであり、もはや猫は量子力学的確率的に存在せず古典力学的確率的にしか存在しない。例えば、電子線を写真に撮る場合、電子の位置測定を“写真乾板[かんぱん]上の素粒子と電子との電磁気力による相互作用”と考えれば、シュレーディンガー方程式で書けるはずである。つまり、写真乾板上のどの位置に電子が写るかが一意的に決定的にわかるはずである。しかし、実際には写真乾板上の素粒子の状態は素粒子の数が多すぎてわからないから、ボルンの原理によって確率分布がわかるぐらいで我慢[がまん]しているのである。つまり、この宇宙のすべての素粒子は『シュレーディンガー方程式』だけに従って連続的一意的決定的に運動しているのである。「ボルンの原理」が言うような波動関数の不連続的確率的変化は存在しないのである。だから、ボルンの原理ではなくボルンの補則[ほそく]と呼ぶべきである。

写真乾板が“確率的に動かない位置の物差し”に相当するのである。電子線が写真乾板に近づくことが、電子が“[量子力学的に]確率的に動いている位置の物差し”から“確率的に動かない位置の物差し”にしだいに乗り換えることに対応している。停まっているプラットホーム(電子線源)からだんだん速く動くプラットホーム(真空)に乗り換えていって動いている超高速列車(真空、電子の進行方向と直角方向に確率的に運動している)に客(電子)が乗って、逆に動いている超高速列車からだんだんゆっくり動くプラットホームに乗り換えていって最後に停まっているプラットホーム(写真乾板)に客(電子)が降りるようなものである。[私が子供の頃に読んだ小学館の『こども学習百科事典』にはそんな“列車が停まらずに客が乗り降りできる動くプラットホーム”の話が載っていた。]
古典力学では電子線はまっすぐ進むはずだが、量子力学では空間の[量子力学的な]確率的な運動のために電子が横に広がるので写真乾板上では電子の光点が正規分布するのである。[図では簡単のために電子を黒い点で表したが、実際には量子力学では電子は“濃淡のある灰色の広がった塊[かたまり]”になるのである。日常生活ではあまりそういう物は見かけないが、量子力学的なミクロの世界ではそういう物がつねに存在するのである。波動関数を実数部分と虚数部分に分けてプラスとマイナスを区別して4色を用いて、数値の大きさを各色の濃淡で表せば、眼で見るだけで波動関数の状態がわかる。直感的に幾何学的に量子力学的な研究ができる。]


[31] 遷移[せんい]現象 h23.5.30
C+O2(酸素)→CO2(二酸化炭素)の反応では、炭素と酸素が突然パッとつながって二酸化炭素になるのではなく、酸素が炭素にじょじょに連続的に引っ付いていって二酸化炭素になるのである。
それと同じように、s電子+光子→p電子。つまり、電子は光のエネルギーを受けてs電子からp電子に連続的に変化するのである。つまり、s電子はモーフィングのように“s電子とp電子の中間状態”を経[へ]て連続的にp電子に変わっていくのである。その間に光子のエネルギーが少しずつ使われて減っていくのである。光子が連続的に有の状態から“有と無の中間状態”を経て無の状態になって消えていくのである。s電子とp電子の間にエネルギー的に準安定なs’電子があるかもしれない。

[32] シュレーディンガーの猫 h23.5.31
半減期が1時間の放射性同位元素があったとする。
1時間後の放射性同位元素の状態はψ=ψ(崩壊しない)+ψ(崩壊した)である。
そこにガイガーカウンターを持ってくると、上のψがシュレーディンガー方程式に従って変化してψ(崩壊しない)かψ(崩壊した)かのどちらかになる。ガイガーカウンターを放射性同位元素に“当てる”とψ(崩壊しない)かψ(崩壊した)かのどちらかになる。ガイガーカウンターを放射性同位元素に当てっぱなしにしていると、1時間後の放射性同位元素の状態はψ(崩壊しない)かψ(崩壊した)かのどちらかになる。電子線干渉の実験で、1つの電子線を左右2つのスリットに通すとき、右のスリットに写真乾板を置いた場合と同じである。写真乾板に光点が現れれば右のスリットに電子があることになり、反対に光点が現れなければ左のスリットに電子があることになる。
つまり、ψの収縮はガイガーカウンターのところで起こる。放射性同位元素とガイガーカウンターをひとつの箱([30] 座標系 h23.5.29 の上の図を参照)の中に入れればシュレーディンガー方程式で書けるから、結果は一意的決定的にわかるはずである。だから、猫は死んでいるか生きているかのどちらかひとつである。箱の中に入っている猫は、じつは箱の中に放射性元素とガイガーカウンターを入れれば十分であり、それだけで箱の中の放射性元素は崩壊したか崩壊しないかのどちらかひとつに決まるのである。だから、猫も当然死んでいるか生きているかのどちらかひとつだけである。
じつは、猫とは政治家のことである。シュレーディンガーは政治家が嫌いだったので、このような実験を考案したのである。当時の政府が潰[つぶ]れかけだったので、“生きているか死んでいるかわからない猫”に喩[たと]えられたのである。[猫はおとなしいふりをしてじつは凶暴である。政府は表では民主主義や哲人主義の政治をやって国民を幸福にしているふりをして、裏ではメチャクチャな命令を国民に出して国をメチャクチャにして国民を不幸にしている。だから、政府は猫に喩[たと]えられるのである。]

[33] 超光速移動 h23.5.31
量子力学は不確定性原理のある世界である。
不確定性原理によれば、空間の各点は『確率的に運動』している。いわば、空間はつねに小さな地震が起こっている。空間の各点に小さな“確率的に運動している物差し”があると考えればいい。[[20] 確率的な物差し を参照。]
そこで、t=0でx=0にいた粒子が“空間の地震”を利用してあっという間[ま]に遠くに移動することができる。1秒後に±C[m]の外側に粒子が見つかることがある。t=0でx=0にあった黒い玉が瞬時に±∞まで広がる“濃淡の付いた灰色の塊[かたまり]”になる。
つまり、量子力学によれば、粒子の超光速移動が可能なのである。
だから、量子力学では、逆に離れたところにある“ひとつの粒子の波動関数”の位置やスピンの相関が起こったりするのである。波動関数の超光速収縮が起こったりもするのである。[[30] 座標系の下の図を参照。シュレーディンガー方程式は拡散方程式だから、たとえ電磁気力しか働かなかったとしても波動関数の超光速収縮が起こるのである。波動関数の拡散が超光速で起こるから、その逆に波動関数の収縮も超光速で起こるのである。例えば、粒子の位置の測定の場合、写真乾板上では“空間の地震”が起きていないから、粒子の位置が一意的に定まるので確率波の収縮が起こるのである([30] 座標系の下の図を参照)。写真乾板上と真空とでは空間の性質が違うのである。つまり、人間がいなくても観測はできる。反対に、写真乾板がなければ、人間がいてもしかたがない。写真乾板がいなくては観測はできないのである。シュレーディンガー方程式を古典力学的に解いたときと相対論的に解いたときとでは解が微妙[びみょう]に違うが、大雑把[おおざっぱ]には同じと見なせる。質的には解は同じであると考えられる。だから、相対論でも波動関数は瞬時に宇宙全体に広がるのである。]
相対性理論が量子力学を受け入れれば、物理学はいっそう発展するであろう。

[34] 粒子の状態の表し方 h23.5.31
古典力学では、“いつどこでどれだけの速さで動いているか”を言えば粒子の状態は一意的に決まった。
しかし、量子力学では、『粒子の確率的存在』が認められているので、ψで表さねばならないのである。
古典力学では空間の各点が厳密に区別されたが、量子力学では『不確定性原理』があるために空間の各点の区別が曖昧[あいまい]なので、量子力学の世界には古典力学の世界にはない“おかしな現象”が現れるのである。
もっとも、量子力学はすでに原理(不確定性原理)が明らかにされているので、あとはそれを細かく具体的にしていけばいいだけである。そもそもシュレーディンガー方程式はシュレーディンガーが水素原子用に作った方程式である。シュレーディンガー方程式を宇宙の中にあるすべての物質に適用[てきよう]すればいいのである。例えば、そのようにしてダイオードやトランジスターが発明されたのである。

[35] 特殊相対性理論 h23.6.22
特殊相対性理論では、等速度運動をしている者の間では同じ物理法則が成り立つ。
例えば、Aにおいてマクスウェル方程式が成り立てば、Aに対してVの速さで動いているBにおいても同じマクスウェル方程式が成り立つ。
ところが、ガリレイ変換ではマクスウェル方程式が歪[ゆが]む。
だから、マクスウェル方程式を歪めない変換を探さねばならない。
それが、ローレンツ変換である。
ニュートン方程式はガリレイ変換に対しては歪まないが、ローレンツ変換に対しては歪む。
だから、ニュートン方程式をローレンツ変換で歪まない形式に改めねばならない。
それが、正しいニュートン方程式なのである。


[36] 一般相対性理論 h23.6.22
一般相対性理論では、加速度運動をしている者の間でも同じ物理法則が成り立つ。
例えば、Aにおいてマクスウェル方程式が成り立てば、Aに対してαの加速度で動いているBにおいてもマクスウェル方程式が成り立つ。
一般化されたローレンツ変換では、そのようにできる。
ニュートン方程式を一般化されたローレンツ変換で歪まない形に改めれば、正しいニュートン方程式が得られる。
一方、重力場は“球対称に分布した加速度運動している座標系の集まり”と見なせるから、一般相対性理論で扱うことができる。それによって、重力場における場所の違いによる時間や空間の違いを論じることができるのである。重力場における質点や光の運動を扱うことができるのである。


[37] 方程式の普遍性 h23.11.4
この宇宙は、すべての人に同じ方程式が成り立つように出来ている。
だから、数式の形を保つために、空間が変わるのである。
例えば、マックスウェル方程式がすべての人に成り立つように出来ている。
ニュートン方程式も同じことである。
エレベーターの原理とは、重力と加速度運動が同じものであるということである。解析力学のダランベールの原理と同じことである。例えば、星の周りの時空間を球対象に歪[ゆが]ませれば、それで重力が表現できるのだ。

[38] シュレーディンガーの猫☆ h23.12.28
物質が『状態関数』で表される状態で存在することは認めることにする。つまり、物質が波や雲のように存在するのを認めることにする。
しかし、「ボルンの原理」は認めないことにする。つまり、状態関数は厳密に『シュレーディンガー方程式』に従って変化するのであって、「ボルンの原理」は見かけにすぎない。人間にとっては物質の“微視的な状態”や物質に及ぼされる“微視的な力”がわからないから、やむを得ず『シュレーディンガー方程式』を厳密に解くのを端折[はしょ]って「ボルンの原理」を使って確率的に考えるのである。量子力学に出てくる確率は“見かけの確率”であって、統計力学の確率と同じものである。つまり、「観測」によって対象の状態関数が変化するのではなく、『力』によって対象の状態関数が変化するのである。対象を人間が「観測」したことによって対象の状態関数が変化するのではなく、対象に物理的な『力』が及ぼされたことによって状態関数が変化するのである。
だから、例えば、シュレーディンガーの猫の問題では、状態関数の収縮はガイガーカウンターのところで起こるのである。
シュレーディンガーの猫の問題は、1時間後のα粒子が核の中にあるかガイガーカウンターのところにあるかという問題である。粒子が右のスリットのところにあるか左のスリットのところにあるかというダブルスリットの問題と同じである。ガイガーカウンターでα粒子を検出することはどちらか一方のスリットに粒子の検出器を置くのと同じことである。
ダブルスリットの問題ではどちらか一方のスリットに粒子の検出器を置くと粒子に物理的な『力』が及[およ]んで粒子の状態が変わる。それと同じように、ガイガーカウンターを置くとα粒子に物理的な『力』が及んでα粒子の状態が変わる。
だから、α粒子の状態関数の変化(いわゆる波動関数の収縮)はガイガーカウンターのところで起こるのである。ガイガーカウンター以後の連鎖反応は古典力学的に起こるだけである。

[39] 相対性理論とエルランゲンプログラム h24.1.7
相対性理論(1905年)では、ある「数式」(例えば、マクスウェル方程式)を不変にする“変換”(例えば、ローレンツ変換)を考える。そして、その“変換”のもとで不変な「数式」を考える。つまり、相対性理論では“変換”がもとになっている。
フェリックス・クラインのエルランゲンプログラム(1872年)では、ある「図形」を不変にする“変換”を考える。そして、その“変換”のもとで不変な「図形の性質」を考える。つまり、エルランゲンプログラムでも“変換”がもとになっている。
このように、相対性理論とエルランゲンプログラムは深い関係がある。“変換”をもとにして考える点で同じである。つまり、相対性理論ではある「物質の性質」(例えば、マクスウェル方程式すなわち物質の電磁気的性質)を不変にする“変換”を考える。そして、その“変換”のもとで不変な「物質の性質」を考える。

[40] 波動関数の自己相関 h24.1.11
EPRパラドクスでわかるように波動関数の収縮は超光速で起こる。瞬間的に起こる。量子力学現象は相対論に従わなくてもいい。
波動関数の自己相関は古典力学にはない概念である。相対論にもない概念である。
波動関数の自己相関には遠隔作用がある。
アインシュタインは波動関数を認めていなかったから、この世に超光速現象があることがわからなかったのである。
ダブルスリットの場合には、スリットに来る直前の物質の波動関数はψ(スリット1)+ψ(スリット2)で表される。今片方のスリットに検出器を置いた場合を考える。物質の検出器は古典力学的に時間によって物質に対して引力や斥力[せきりょく]を働かしている。つまり、ある瞬間には引力を働かせているが、また別の瞬間には斥力を働かせている。時間によって揺[ゆ]らいでいる。引力だった場合には物質が検出されるが、斥力だった場合には物質が検出されない。斥力だった場合には、波動関数の自己相関によって瞬間的に反対側のスリットに物質が収縮することになる。
つまり、波動関数の収縮は人間の観測によって起こるのではない。“古典力学的に知られている物理学的な力”と“量子力学にしかない波動関数の自己相関”によって物質的に客観的に起こるのである。

[41] どうして波動関数を観測すると“確率的”に収縮するのか?☆ h24.3.10
波動関数を観測装置で観測することは、逆に見れば観測装置を波動関数で観測することでもある。
観測装置は波動関数から見ると時々刻々変化している。時間によっていろんな状態を取っている。
ある瞬間では波動関数から見て観測装置はひとつの状態を取っている。
だから、ある瞬間に観測装置を波動関数で観測するとひとつの値になるのである。
観測装置の運動は原理的にはS方程式(シュレーディンガー方程式)で書けるけれども、実際には観測装置を構成する粒子の数が多すぎて複雑すぎて書けないから、端折[はしょ]って“確率的”に考えて済ませているのだ。それが「ボルンの原理」なのだ。[平成24年3月12日追加)棒[ぼう]を地面に立てて倒すときのように、『観測装置が波動関数に倒れる』と考えればいい。その運動は原理的にはS方程式で書けるが、実際には観測装置を構成する粒子の数が多くて人間にはわからないから、確率を導入して確率で考えざるを得ないのである。]
つまり、宇宙は厳密にS方程式で動いている。人間がS方程式が複雑すぎて解けない場合に、便宜的[べんぎてき]に確率を考えてB原理(ボルンの原理)で済ませているにすぎないのだ。

[42] EPRパラドックス h24.3.10
波動関数を観測装置で観測することは、逆に見れば観測装置を波動関数で観測することでもある。
しかも、波動関数には遠隔作用がある。だから、波動関数を観測装置を見る観測装置だと考えると、波動関数を観測する離れた場所にある2つの観測装置が同じ場所にあることになる。2つの観測装置を1つの観測装置と考えてもいい。だから、一方の観測装置の状態が瞬時に他方の観測装置に伝わるのである。同じ場所にあるから瞬時に伝わることになるのである。
だから、EPRパラドックスはパラドックスではないのである。
古典力学には遠隔作用のある物がなかった。量子力学には遠隔作用のある物がある。つまり、波動関数がある。だから、量子力学は古典力学を逸脱[いつだつ]しているのである。
この宇宙におけるさまざまな現象は、波動関数による遠隔作用と波動関数以外による近接作用が組み合わさって出来ているのだ。

[43] 観測問題 h24.3.17
物理量の固有値問題は、定常状態を求めるようなものである。つまり、観測後の対象の状態は、時間的に変化しないから、物理量の固有状態のどれかになるのである。定常状態のS方程式はHφ=Eφで、物理量の固有方程式はAψ=aψだから、方程式の形が似ているから、物理量の固有方程式を観測後の対象の定常状態だと考えるのである。
観測前の状態をφ[ファイ]で、観測後の状態をψ[プサイ]としたとき、遷移“確率”は<φ|ψ>で与えられる。
ここで“確率”という言葉を用いるが、実際にはS方程式で書ける連続的確定的変化である。だから、本当は確率ではない。観測装置を構成する素粒子の微視的状態によって観測後の対象の状態がどれになるかが決まるのである。しかし、実際には、人間には観測装置を構成する素粒子の状態は素粒子の数が天文学的に多いのと極端に小さいためにわからないから、統計的確率の概念を導入してS方程式を解くのを端折[はしょ]ってB原理で済[す]ませているのである。

[44] EPRパラドックス h24.3.17
EPRパラドックスは実在する。EPRパラドックスは正しい。[私はこの年になるとEPRパラドックスの内容を忘れてしまった(笑い)。“観測したかしなかったかが瞬時に遠方まで伝わること”ぐらいにしか憶えていない。]
だから、波動関数は遠隔作用がある。波動関数の自己相関には遠隔作用がある。
観測装置が量子状態の対象に作用すると、その作用は瞬間に遠方まで伝わるのである。
量子状態は古典力学にない新しい状態なので、遠隔作用があってもいいのである。
波動関数の雲には遠隔作用があるので、観測装置が波動関数の雲に作用すると、波動関数の雲は観測装置から遠く離れていても変化するのである。つまり、観測装置の波動関数の雲に対する作用は局所的だが、波動関数の雲の間では遠隔作用があるので、観測装置の波動関数の雲に対する作用が遠隔的になるのである。
この宇宙の現象は近接作用と遠隔作用が組み合わさって出来ているのである。
これぐらいの説明ですまさないと、一生かか煩[わずら]うことになる。時間の無駄[むだ]だ。EPRパラドックスだけでは実験例が少なすぎて理論が見えてこない。もっと、いろんな実験や観察が集まれば、帰納的にいいアイデアが出来て、問題が解決されるだろう。

[45] ダブルスリットの実験 h24.3.19
ダブルスリットの実験を考える。つまり、ひとつの粒子の波動関数を二つに分けて、片方の波動関数の有無を測定する観測装置を一方のスリット(通路)に置き、その後再び波動関数をいっしょにして干渉の変化を調べる実験をすることにする。
片方の波動関数の有無を測定する観測をしない場合には、一度分かれた波動関数がもう一度重なって干渉が起こる。
片方の波動関数の有無を測定する観測をする場合には、観測装置から片方の波動関数に斥力[せきりょく]または引力が働くと考えられる。斥力が働く場合には、“波動関数の自己相関における遠隔作用”によって反対側のスリットに瞬時に波動関数が収縮する。引力が働く場合には、“波動関数の自己相関(収縮)における遠隔作用”によって一方のスリットに瞬時に波動関数が収縮する。どちらの場合も、干渉が消える。観測する直前の観測する対象の波動関数の状態は時間的に変化しない。つねにδ(一方)+δ(他方)である。一方、観測装置の微視的状態は時々刻々と時間的に変化する。観測装置から片方の波動関数に斥力が働くか引力が働くかは、観測する瞬間の観測装置の微視的状態で決まる。それは、人間にとってはわからない。観測装置を構成する粒子の数が多すぎてわからない。だから、人間は統計的確率で考えて、厳密にS方程式を解くのを端折[はしょ]って、B原理で済ませるのである。
ダブルスリットの実験もEPRパラドックスの実験も本質的には変わらない。つまり、この世には“波動関数の自己相関における遠隔作用”があるということだ。波動関数は無限の速さで収縮するゴムひものようなものだ。
なぜ“波動関数の自己相関における遠隔作用”があるのか?最初からあるからあるのだ。

[46] EPRパラドックスは相対性理論と矛盾しない。 h24.5.14
相対性原理とは、すべての観測者にとって物理法則が同じであるということである。
物体の速さが光速を超えられないことは相対性原理そのものではない。だから、物体の速さが光速を超えることはありえることである。
だから、EPRパラドックスは相対性理論と矛盾しない。物質波は光速を超えて移動できるのである。物質波は瞬間的に移動してもいいのである。
相対性原理と量子原理をうまく組み合わせれば、実在の世界が見えるだろう。実在は本当は『ローレンツ変換を超える変換』で不変なのであって、「ローレンツ変換」で不変ではないのかもしれない。そう考えれば、物体は光速を超えて移動できるのかもしれない。つまり、「光速度不変の原理」がまちがっているのかもしれない。
そう考えれば、観測問題は解ける。つまり、ボルンの原理は人間が観測対象や観測装置の微視的状態を知ることができないためにS方程式を厳密に解くのを端折[はしょ]ったものにすぎないと考えればいいのである。つまり、量子力学的確率も統計力学的確率と同じものなのである。
簡単に考えれば、EPRパラドックスの場合には、観測対象や観測装置の質量が動いていないから、相対性理論に反していないのである。相対性理論による物体の速さが光速度を超えないことに反していないのである。つまり、情報の伝達は光速度を超えることがあってもいいのである。機械を工夫すれば、光速度を超える情報伝達は可能なのである。
夜空の星を見たときに光の波動関数が瞬間的に収縮するのは、光の静止質量が0だから、かまわないのである。相対性理論に反しないのである。
S方程式が拡散方程式であることによる“物質波の瞬間的な無限大の広がり”(つまり、t=0で原点にある物質波がt>0には無限遠にまで広がっていること)は、実際には光速度を超えることはないのである。物質波の広がり(|ψ|≠0の範囲)は、光速度の枠[わく]の中に納まっているのである。つまり、ワープはできないのである。物質波の瞬間的な無限大の広がりは、S方程式が近似式であることによる幻覚である。

[47] 不確定性原理 h24.5.14
不確定性原理とは、物質が波であることである。物質が点ではなく波であることである。
不確定性原理は、「物質が確率的に存在する」ことを言っているのではなく、『物質が波である』ことの言い換えである。
物質を波と考えれば、黒体輻射[こくたいふくしゃ]や原子スペクトルや原子の安定性や光電効果などの問題が解けるから、物質を波だと考えればいいのである。[政府を暴力団体だと考えれば、政府が国民から税金を取ったり政府が国民に戦争や国家宗教をやらせていることが理解できるから、政府を暴力団体だと考えればいいのと同じことである。]
物質は波として、S方程式に従って一意的決定的連続的に変化するのである。
不確定性原理とはネーミングセンスが悪い。
最初からいい名前はつけにくいものである。

[48] シュレーディンガーの猫は存在するか? h24.5.14
原子核だけでは、原子核が崩壊するかしないかはわからない。それは、観測対象だけあって、観測装置がないからわからないのである。
だから、原子核はψ(崩壊する)+ψ(崩壊しない)と書ける。
しかし、ガイガーカウンターのところで、原子核が崩壊するかしないかのどちらかに決まる。ガイガーカウンターは観測装置だから、ガイガーカウンターのところまで行けば観測対象(原子核のこと)と観測装置の二つがあるので、原子核の状態がわかるからである。原子核から出たα線とガイガーカウンターの相互作用で、原子核が崩壊したかしないかのどちらか一方になる。電子波の位置の観測で、電子波がS方程式に従って写真乾板[かんぱん]のどこか一箇所に収縮するのと同じことである。人間が原子核から出たα線とガイガーカウンターの微視的状態を知ってS方程式を解くことができれば、ガイガーカウンターが鳴るか鳴らないかどちらになるかを決定できるのだが、実際には、人間には微視的状態を知ってS方程式を解くことはできないから、確率的に済ますしかないのである。つまり、量子力学的確率は人間が人工的に作り出した幻覚なのである。自然は微視的状態を知りS方程式を解くことができるから、ガイガーカウンターが鳴るか鳴らないかどちらになるかを決定できるので、実際どちらか一方に決まるのである。
物質波が収縮するのは、物質波の収縮機構が観測装置に備わっているからである。対象を観測するためには、対象の値をひとつに決めねばならないから、観測装置にはもともと物質波を収縮する機構が備わっているのである。観測装置とは、物質波を収縮する装置なのである。
だから、ガイガーカウンターのところで、ψ(崩壊する)かψ(崩壊しない)かのどちらか一方になる。
だから、シュレーディンガーの猫は存在しない。猫は死んでいるか生きているかのどちらか一方になる。
実際に、これまでシュレーディンガーの猫を見た人はいないから、シュレーディンガーの猫はいないのである。
そもそもシュレーディンガーの猫は、シュレーディンガーが滅びかけの政府のイヤミを言うために考え出したジョークだから、そんなものはいなくてもいいのである。

[49] 小さい物質は波である。 h24.5.15
物質を波だと考えると黒体輻射[こくたいふくしゃ]や原子スペクトルや原子の安定性などが理解できる。だから、物質は波なのである。音や光のように波(exp(i(kx+ωt)))である。物質はミミズやヘビのようなものである。
小さい素粒子はみんな波である。
小さい素粒子が集まって眼で見える大きい物体が出来ている。つまり、波が集まって粒子になっている。小さい魚が集まって大きい魚の群の塊[かたまり]となるように、小さい波が集まって大きい粒子になっているのである。
逆に、粒子を砕[くだ]くと波になる。
我々は普段眼で物を見ているから、物質を粒子だと思うのである。
しかし、眼で見えない小さい物質はすべて波なのである。例えば、電線の中を流れている電子は波である。


[50] 一般相対性理論 h24.5.25
特殊相対性理論から、“歪[ゆが]んでいる時空間”の概念が得られた。
一般相対性理論とは、“歪んでいる時空間”のアイデアがあれば重力場が書けるということである。
つまり、惑星は歪んでいる時空間の中で直進しているのである。
時空間が歪んでいるために、惑星は直進していても曲がるのである。
万有引力の正体は、歪んでいる時空間にほかならないのである。
自然落下しているエレベーターの中では物体は純粋な慣性運動(等速直線運動)をするので、そのことからアインシュタインは、『万有引力場の中では、物体が歪んだ時空間の中で等速直線運動をしている』と捉[とら]えたのである。時空間の歪みの勾配[こうばい](グラジエント、空間微分)によって物体は力を受けて動くのである。これが重力である。自然落下しているエレベーターは歪んでいる時空間そのものであり、自然落下しているエレベーターに乗ることは歪んでいる時空間の中に入ることなのである。重力場の中では空間のいたるところに“自然落下するエレベーター”があり、惑星はつねにその場その場のエレベーターに乗りながら運動しているのである。惑星がエレベーターに乗ってから出るまでにエレベーターの中では直進運動をするがエレベーター自体が自然落下するから、惑星は全体として放物運動をして曲がって運動するのである。アインシュタインによるエレベーターの落下距離がニュートンの万有引力の計算と少し違うために、一般相対性理論のほうが正しいことになるのである。惑星の軌道も楕円軌道ではなく回転する楕円軌道になるのである。
要するに、アインシュタインは万有引力を電磁力のように捉えたのである。大きな電荷が周りに電磁場を作り電磁場の中に置かれた小さい電荷が周囲の電磁場から力を受けて動くように、大きな質点が周りに重力場を作り重力場の中に置かれた小さい質点が周囲の重力場から力を受けて動くと考えたのである。アインシュタインは古典力学と電磁学の統合ばかりやっていたのである。
万有引力では、大きな質点が小さな質点を直接引っ張っていた。一般相対性理論では、大きな質点が周りの空間(エレベーター)を介して“小さな質点の周囲の空間”を引っ張るために、小さな質点が周囲の空間に連[つ]られて動くのである。“小さな質点の周囲の空間”は近くの空間の歪[ゆが]みを感じて動き出すのである。これが自然落下なのだ。一般相対性理論では、小さな質点の周りに空間を考えて、質点は周りの空間の中では慣性運動をするが、周りの空間が大きな質点に引っ張られて動く(自然落下する)ために、空間の中に入っている質点も空間といっしょに動くと考えるのである。
万有引力では、大きな質点が直接に小さな質点を引っ張るが、一般相対性理論では、大きな質点が周りの空間と小さな質点の周囲の空間を介して小さな質点に作用するので、小さな質点の運動が違ってくるのである。

[51] 重力とは何か? h24.5.26
物体に重力が働くのは、物体の周囲の時空間が加速度運動しているからである。
つまり、大きな質点の周りでは時空間が大きな質点から遠ざかる向きに加速度運動をしているから重力があるのである。座標系(時空間)が加速度運動をするから重力が働くのである。例えば、私たちは地球上で一生の間“加速度のある時空間”の中で暮らしているのである。水道の蛇口から水が出るように、大きな質点から時空間が湧[わ]き出しているのである。だから、物体といっしょに座標系(エレベーター)が自然落下すれば座標系の加速度運動が相殺[そうさい]されて重力が消えるのである。物体の運動は、物体といっしょに自然落下する座標系の運動と座標系の中での物体の運動を足し合わせたものと考えればいいのである。
古典力学では時空間は一様だが、相対性理論では時空間が非一様なので大きな質点の近くと遠くでは時空間が違うので、惑星の軌道が違ってくるのである。特殊相対性理論で、座標系の速さが違えば距離や時間が違っていたように、一般相対性理論では、座標系の加速度が違えば距離や時間が違うのである。だから、太陽の近くと遠くでは距離や時間が違うから惑星の軌道が楕円からずれるのである。

[52] 情報は光速を超えて伝わる。 h24.8.16
相対論の要請により、質量のある物の移動は光速を超えられない。だから、時刻0に原点に置かれた質量のある粒子の物質波の広がりは光速の内側に限られる。瞬時に∞まで広がらない。物質波はつねにシュレーディンガー方程式に従いながら、連続的に決定的に変化するのである。
しかし、反対に、質量のない物なら光速を超えて移動できる。だから、例えば、EPRパラドックスでは質量の移動がないから、情報が光速を超えて伝わるのである。情報は質量0の粒子と考えればいい。

[53] どうして物質波は収束するか? h24.10.16
電子の写真を採ることを考える。つまり、電子の位置測定を考える。
電子は波動関数で表される。電子の波動関数はシュレーディンガー方程式に従って運動(時間変化)する。
一方、写真乾板を構成する粒子も波動関数で表される。写真乾板を構成する粒子の波動関数もシュレーディンガー方程式に従って運動(時間変化)する。
だから、電子と写真乾板を合わせた体系の運動を考えれば、電子は写真乾板から力を受けて自然に一点に収縮するのである。空間的に広がっていた電子が写真乾板に近づくにつれて写真乾板から力を受けて連続的・一意的・決定的に収縮して一点(デルタ関数)になるのである。その変化はシュレーディンガー方程式で原理的には書けるが、実際には写真乾板の状態が複雑すぎて人間にはわからないからボルンの原理で確率的に解くしかないのである。つまり、ボルンの原理はシュレーディンガー方程式の中に含まれる。ボルンの原理はシュレーディンガー方程式から独立した原理ではないのである。ボルンの補則[ほそく]と言うべきだろう。この世はシュレーディンガー方程式だけで動いているのである。ボルンの原理は要らないのである。だから、ボルンの原理に伴う観測問題も考えなくていいのである。例えば、シュレーディンガーの猫の問題は、本質的には放射性同位元素とガイガーカウンターの問題である。他[ほか]は尾ひれにすぎない。もしも人間が放射性同位元素とガイガーカウンターの両方の状態を完全に知ることができれば、シュレーディンガー方程式を厳密に解いて放射性同位元素が崩壊したかしないかを一意的に決定することができる。つまり、α粒子が原子核内にあるかガイガーカウンターのところにあるかを決定できる。しかし、実際にはガイガーカウンターを構成する粒子の数が多くてガイガーカウンターの状態が複雑すぎてわからないから人間はシュレーディンガー方程式を厳密に解くことができないからボルンの原理で崩壊したかしないかどちらも確率2分の1と考えるしかないのである。物質波の収縮はガイガーカウンターのところで起こるので、人間が箱を開けようが開けまいが箱の中の状態は変わらないのである。
そもそもシュレーディンガーの猫の問題は、シュレーディンガーが当時滅びかけていた政府のイヤミを言うために考え出したジョークだから、本来は物理学の問題ではない。社会学の問題である。シュレーディンガーが言いたかったのは、“生きているか死んでいるかわからない猫”(猫は政府の喩[たとえ]え)であって、他[ほか]はどうでもいい。戦後の政府は自分が平等制の政治機関のふりをして国民に嘘[うそ]をついて生き残っているだけだから、死んでいる猫と考えていいだろう。
ボルンの原理は支配制で出来た原理である。ボルンの原理では人間の精神が実在を支配していることになるから、支配制ではボルンの原理が出来るのである。しかし、今では支配制の原理つまり人間が実在を支配している原理はまちがっていると考えられているから、ボルンの原理もまちがいなのである。
つまり、量子力学とは、『この世の物質はすべて波であり、波に個数がある』ことである。そういう目で見れば、実在が見えるのである。

[54] ボルンの原理はシュレーディンガー方程式にほかならない。 h24.11.24
物質は粒子ではなく波である。
物質の状態は波動関数で表される。
物質の位置を観測するときには、位置の観測装置から物質に対して力が働く。例えば、クーロン力が働く。そのために、物質の状態がシュレーディンガー方程式に従って連続的・決定的・一意的に変化して波が収束して点になる。もっとも、観測装置は多くの素粒子から出来ていて観測装置の状態は複雑だから、人間は具体的にシュレーディンガー方程式を解けないから、ボルンの原理で結果が確率的にわかるだけである。つまり、ボルンの原理はシュレーディンガー方程式を端折[はしょ]ったものである。つまり、ボルンの原理はまちがいである。ボルンの原理は要らない。ボルンの原理は無駄[むだ]だ。ボルンの原理は余計だ。シュレーディンガー方程式だけあればいいのだ。(もっとも、量子力学的現象を実験するためにはボルンの原理を使わねばならないが。理論的にはボルンの原理は要らない。)

[55] シュレーディンガーの猫はいるか? h24.11.29
アルファ粒子の波動関数はガイガーカウンターのところで収縮する。それは、ガイガーカウンターがアルファ粒子に力を及ぼしてアルファ粒子の波動関数がシュレーディンガー方程式に従って変化するからである。だから、ガイガーカウンターは反応するか反応しないかのどちらかひとつである。[電子波を写真に撮[と]る場合を考えてみればいい。写真乾板[かんぱん]を真ん中で二つに割って半分にした写真乾板を使って電子波を写真に撮ると、電子波が写真に写らない場合には写真乾板のない部分に電子波が収縮することになる。写真乾板が電子波に対して斥力を及ぼした場合には電子波は写らないし、写真乾板が電子波に対して引力を及ぼした場合には電子波は写る。アルファ粒子をガイガーカウンターで検出することは、電子波を写真乾板で撮るのと同じことである。アルファ粒子をガイガーカウンターで検出することは、アルファ粒子が放射性元素の核の中にあるかガイガーカウンターのところにあるかどちらかひとつに決めることになる。]だから、シュレーディンガーの猫は存在しない。つまり、猫は生きているか死んでいるかどちらかひとつであって、生きている猫と死んでいる猫が重ね合わさった猫というものは存在しない。(もっとも、特殊な状況では巨視的な量子力学的現象は存在するかもしれないが。しかし、シュレーディンガーの猫の問題に関しては、生きている猫と死んでいる猫が重ね合わさった猫はいないと考えるのが正しい。コップの中に水を入れてコップを逆さにしたら、コップの中の水がこぼれるのと同じことだ。コップの中の水がこぼれないことはめったにない。だから、シュレーディンガーの猫も生きた猫か死んだ猫かのどちらかひとつになるのだ。)

[56] 重力 h25.1.18
我々が重力を感じるのは、加速度場の中にいるからである。
質点があると、その周[まわ]りに加速度場が出来る。
時空間は弾性体みたいに伸びたり縮んだり歪[ゆが]んだりする。
時空間の状態は一般相対性理論の時空間についての方程式を解けばわかる。
ブラックホールに近づくと時空間はペシャンコになる。それを通り越すと時空間がまた伸びてくる。時空間がペシャンコになるところをシュバルツシルト半径という。ブラックホール(巨大質点)の上では反重力になっていて、空のほうに物体が落ちていく。

[57] 予知能力は可能か? h25.2.10
相対性理論によれば、人間は未来の世界には行けるが過去の世界には行けない。人間が超高速ロケットに乗って加速度運動すれば未来の世界に行ける。つまり、未来に行くタイムマシンは作れる。しかし、過去の世界に行くタイムマシンは作れない。
しかし、それは質量のある物体についてである。
これまでにEPRパラドックスについて述べたとおり、情報は質量がないので光速を超えて伝わっても相対性理論には矛盾しない。
だから、情報は過去に行ける。質量のある物は過去には行けないが、質量のない情報なら過去に行ける。
だから、情報は未来から過去に向かうと考えられる。
だから、もしも人間に未来から来る情報を感知する感覚器があれば未来のことがわかる。ノストラダムスみたいに人間には予知能力があるかもしれない。
未来のことは知っても変えられないからしかたがないが、天気予報が役に立つから利用価値はあるだろう。例えば、あらかじめ競馬のレースの結果がわかっていたら、どの馬券を買えばいいかがわかるから役に立つだろう。ノストラダムスが生きていた当時に競馬があればノストラダムスは大金持ちになっていただろう。
ノストラダムスは水を入れた盥[たらい]に両足を漬[つ]けたら未来のことが聞こえてきて、それを書き留めていたのだそうである。たぶん、ノストラダムスの身体が過去に向かう情報のアンテナの役割をしていたのだろう。
過去に向かう情報を感知する装置を発明すれば、未来のことがわかるだろう。それを使って大儲[もう]けができるかもしれない。いや、人類のために役に立つ仕事ができるかもしれない。

[58] 量子力学とは? h25.4.2
量子力学とは、『物質が波であり、波には個数がある』ということである。『波にも原子がある』ということである。つまり、物質は粒子ではなく、波だったのである。光が粒子ではなく、波だったのと同じことである。
今の数学では“個数のある波”が書けるので、量子力学ができるのである。
一個の物質については、波の個数は気にしなくていい。
複数の物質については、波の個数が大事になる。

[59] 情報は時間を逆行する? h25.4.22
ノストラダムスの予言が本当だとする。
すると、人間には未来のことがわかることになる。
それは、未来から過去に情報が伝わるからである。何らかの方法で時間を逆行して情報が伝わっていると考えられる。EPRパラドックスのような方法で情報が時間を逆行して伝わるのだろう。
“時間を逆行する情報”を検知する方法が開発されれば、未来のことがわかることになる。
誰か、研究してみないか?
ノストラダムスは未来のことを強く知りたいと思った。そのために、未来の人が頭で考えていることを聞く能力が身に付いたのだろう。テレパシーは時間を越えて伝わるので、ノストラダムスは未来の人のテレパシーを見たり聞いたりしていたのだろう。つまり、ノストラダムスは人間の“超能力”(幻視や幻聴)を使って、未来のことを知っていたのである。

[60] シュレーディンガーの猫 h25.8.12
『一個の粒子の波は多数の粒子からなる観測装置のところで収縮する。』証明はわからないが、とにかく事実である。実際にシュレーディンガー方程式を解けば、収縮するのだろう。ボルンの原理はシュレーディンガー方程式を観測現象に当てはめて導き出されるはずである。
だから、シュレーディンガーの猫の問題はα粒子がガイガーカウンターに入ったところでα粒子の収縮が起こる。だから、シュレーディンガーの猫は実在しない。

[61] 予言はできるか? h25.11.17
相対性理論によれば、『質量のある物は時間をさかのぼることができない。』つまり、質量のあるタイムマシンを作ることはできない。
しかし、質量のない物なら時間をさかのぼることができるかもしれない。質量の移動のない現象を使えば光速度を超える移動ができてEPRパラドックスが可能であるように、質量のない物を使えば時間の流れに逆行できるかもしれない。
そうすれば、人間にも予言ができることになる。
ノストラダムスはEPRパラドックスのような現象を使って、予言をしたのかもしれない。
将来、誰かが“時間をさかのぼって情報を送れる装置”を発明したら、それ以後はその装置を使って未来から過去に情報を送れるようになるので、人類の文明は急速に進歩するだろう。人類が未来のことがわかるようになるので、未来の状態を見て今の状態を変えて未来の人類が幸福に暮らせるようにできるだろう。
あるいは人間の五感で見える世界には時間や空間があるが、人間の“特殊な感覚器”で見える世界には時間や空間がなくその感覚器を用いれば時間や空間を越えた認識が可能になるのかもしれない。テレパシーは空間を越えた感覚同士の認識である。時間を超えた感覚同士の認識ができれば未来の人の認識を介して未来のことがわかるのかもしれない。
案外[あんがい]、未来の人間のイメージを頭に描いてテレパシーを使おうとすれば誰でも簡単に予言ができるのかもしれない。未来の人間の頭の中で考えていることをテレパシーで読むようにすれば、予言ができるのかもしれない。予言はテレパシーの応用である。ノストラダムスは夏の暑い日に両足をたらいの水につけることによって自分の身体を感覚波(テレパシー波)のアンテナにして未来からの感覚波を検知して予言をしたのかもしれない。

[62] 宇宙の謎[なぞ] h25.11.30
1.宇宙がどうして存在するか?
2.宇宙にどうして法則があるのか?
3.宇宙の中にある物がどうしていちいち法則に従って運動するのか?
これらのことは、いまだに自然科学ではわからない。
自然科学では宇宙の存在や法則の存在が前提とされているから、自然科学ではこれらのことは問題にはしない。これらは、哲学の問題とされている。人間はただ宇宙の法則を詳[くわ]しく調べてそれを利用して便利に暮らすだけである。
もしも、宇宙の中にある物がどうして法則に従って運動するかがわかった人がいて、『宇宙の中にある物が法則に従わなくていい方法』を考え出したら、その人は自然の法則を犯して自由自在に何でもできるようになるかもしれない。
昔インドや中国の山奥には何でも自分の思い通りにできる仙人がいたとされているが、案外本当のことなのかもしれない。

[63] 宇宙は広い。 h25.12.2
人間の眼で見えるのは宇宙の一部にすぎない。宇宙には“万有引力”や“EPRパラドックス”や“感覚”(自分に感じること)などがある。人間は自分の頭で考えることによって宇宙を見ることができる。今の人間はまだ宇宙の一部分しか知らない。人間が宇宙の多くを知れば、それだけ人間はいろんなことができるようになる。未来の人間は今の人間よりももっと自由に暮らしているだろう。

[64] 物質はどのような状態で存在するか? h25.12.6
昔の人は物質が点として存在していると考えた。ニュートンもそう考えた。
しかし、不確定性原理によって、物質は点として存在できないことがわかった。『物質は完全な点としても完全な波としても存在できない』ことがわかった。『物質は点と波の中間状態で存在する』ことがわかった。
つまり、物質は“空間的に限局した波”として存在するのである。それが、現在の物質観である。
物質が波だから、物質の状態がいくつかの特定のものに限られ、物質のエネルギー値がとびとびになる。物質とは、琴の弦の振動のようなものである。むしろ点のように局在化しているほうが例外である。
物質が波であることを使って新しい現象を考え出すのが科学の才能である。

[65] 予言はどうして儲[もう]かるか? h25.12.20
ノストラダムスの予言が本当かどうかはわからないが、ノストラダムスが予言で儲けていたのは事実である。
私が子供の頃に読んだオカルトの本では、ノストラダムスが貴族が騎馬戦のときに眼に槍[やり]が突き刺さって死ぬのを予言して当てたそうである。
予言ではたいてい客の不幸を予言する。それは、予言が外[はず]れたときに客が喜ぶからである。客が喜べば、また客は予言を聞きにくる。だから、予言が儲かるのである。
反対に、いい予言が外れたら客は怒って二度と予言を聞きに来ない。
だから、予言では必ず悪いことを予言しないといけない。善いことを予言してはいけない。頭のいい人は頭で動いているから客観的に予言が外れたら二度と予言を聞きに来ないが、馬鹿は心で動いているから予言が外れたことを喜んで何度でも予言を聞きに来るのである。
つまり、予言とは予言を当てて客を喜ばせることではなく、予言を外して客を喜ばせることなのである。
予言者はそうやって客を付けて客からお金を取って儲けているのである。

[66] 嘘も方便[うそもほうべん] h26.1.25
不確定性原理によれば、『物質は空間的に限局した波』である。それが物質の真の姿である。
だから、フェルミが金属内の自由電子を正弦波だと考えたのはまちがいである。正弦波は不確定性原理を満足しないから、実在しないからである。それを、周期的境界条件で空間的に限局させて正しくしているのである。
シュレーディンガー方程式を厳密に解くのは無理だから、いろんな“まちがった仮定”を入れて近似的に解いているのである。ノーベル賞の研究の大半は“まちがった仮定”を入れて近似的に解く研究である。まちがったことを仮定して正しいことがわかるのだから大したものである。だから、ノーベル賞がもらえるのである。
正しいことがわかるためにはあまり正しさにとらわれてはいけない。正しさにとらわれないほうがかえって正しいことがわかるのである。大事なのは「正しい知識」よりも『正しいことがわかりたい心』なのである。

[67] 物質は波である。 h26.2.4
不確定性原理より、物質は空間的に限局した波である。音波も限局した波である。物質は音波みたいなものである。
電子も物質だから波である。
ダブルスリットの実験ではスクリーン上の物質は2つのスリットから出た波が重ね合わさったデコボコの波になる。
スクリーン上の物質は本来はそのようなデコボコの波として存在しているのである。
しかし、実際にはスクリーン上には写真乾板[かんぱん]があるので、電子と写真乾板が反応して電子が波から点に変化して一点に縮んでしまうのである。その変化は原理的にはシュレーディンガー方程式で書けるのだが、実際には人間には写真乾板の細かいことがわからないからボルンの原理で確率的にしか予想が立てられないのである。
観測のときに観測装置から物質に“力”が働いてシュレーディンガー方程式に従って物質の状態が連続的に一意的に決定的に変化してひとつの固有状態になるのである。どのような“力”が具体的に働くかは実際には人間にはわからないからボルンの原理で確率的に予想するしかないのである。


[68] 大昔“宇宙”の中に“物質”が生まれた。 h26.4.9
“宇宙”は無限に大きい箱である。
そこに大昔突然“物質”が発生して大爆発を起こして四方八方に飛び散った。今でも物質が飛び散って広がっている。
宇宙は無限に大きい箱だから、宇宙に中心なんてものはない。だから、宇宙はどこから見ても同じである。だから、相対性原理なんてものがあるのである。
宇宙は無限に大きい箱だから、その中にはいくつかの小宇宙(ひとつの爆発中心から飛び散った物質の集団)があるかもしれない。我々が住んでいる小宇宙はその中のひとつである。
ところによっては、正物質の小宇宙と反物質の小宇宙がぶつかって爆発を起こしているかもしれない。


[69] 天動説も地動説も両方とも正しい。 h26.4.24
天動説の世界は地動説の世界を射影幾何学の空間に入れたものである。逆に、地動説の世界は天動説の世界をユークリッド幾何学の空間に入れたものである。
地動説と天動説は等価である。変換で行き来できる。
だから、地動説の世界も天動説の世界も両方とも正しい。

ただ、地動説の世界のほうが天動説の世界よりも惑星の運動の法則がわかりやすい。実際に、ケプラーが惑星の法則を発見した。ケプラーは地球中心の座標系を太陽中心の座標系に変換してケプラーの惑星の運動の3法則を発見した。さらにそれを原理的に説明したのがニュートンである。
昔の人は地球中心の座標系で宇宙を見ていたので宇宙はすごく複雑な法則で動いていると思っていた。宇宙はとうてい人間に理解できるものではないと思っていた。占い師が言っているような複雑怪奇な世界だと思っていた。
しかし、近代の人は太陽中心の座標系で宇宙を見るようになったので宇宙がすごく単純な法則で動いていると考えるようになった。実在の宇宙が単純明快な世界だとわかった。実在の宇宙が人間に理解できるものだと思うようになった。自然についての研究が盛んになった。
自然現象は見方を変えると単純明快になる。例えば、フーリエ変換すると法則がわかることがある。
社会現象も同じである。政府中心の世界観から国民みんな中心の世界観に変えると世の中がわかりやすくなる。国民みんなが国の最高権力者である。国民みんなが国を作る。国民みんなが国の創造主である。日本では国民みんなが知覚主義である。日本では人間はみな平等で上の者がいない。日本では上の者はみんなに倒される。政府は上の者である。近代の政府は猫をかぶっていたが、現代の政府は正直に上の者をやっている。だから、今の日本では政府が国民みんなに倒されて滅んでいるのである。

[70] 宇宙は空間も時間も無限大である。 h26.7.11
我々が住んでいる小宇宙の物質はビッグバン後に出来たが、宇宙空間そのものは無限の過去から存在している。宇宙空間そのものは無限の広さがある。われわれの住む小宇宙は138億年前からビッグバンによって始まったが、宇宙そのものは無限大年前から存在していたのである。
宇宙は無限大である。膨張も収縮もしない。膨らみも縮みもしない。宇宙空間は最初から無限に広がっている。その中で物質が動いているだけである。
宇宙は無限大である。空間的に無限大なら、時間的にも無限大である。時間は無限大の過去から無限大の未来に続いている。時間には始まりも終わりもない。それでよく、“今の時間”があるもんだ。時間には始まりがないくらい昔から続いているのに、どうして“今の時間”があるのか?宇宙空間の年齢は無限大歳なのにどうして“今”があるのか?宇宙は不思議である。
(平成26年7月31日追記)宇宙は無限である。空間も時間も無限である。時間には無限過去から無限未来まである。つまり、宇宙には始まりがない。始まりがないものがどうして存在できるのか?宇宙は不思議である。
(平成26年11月19日追記)大昔に今の小宇宙とは別の小宇宙があってなくなったのかもしれない。その後で、今の小宇宙が出来たのかもしれない。

[71] シュレーディンガー方程式とボルンの原理は矛盾する。 h27.4.23
シュレーディンガー方程式とボルンの原理は論理的に矛盾している。シュレーディンガー方程式では現象が一意的決定的に起こるのに対し、ボルンの原理では現象が多意的確率的に起こる。
頭で考えれば明らかにおかしい。眼先で見ているだけだから何も感じないのである。
そこで、ボルンの原理をシュレーディンガー方程式に基づいて証明する必要が生じる。現象は対象と観測装置の両方で決まる。人間にとっては観測装置のミクロな状態がわからないからボルンの原理を使わざるを得ないのである。

[72] ボルンの原理は原理ではない。 h28.1.16
シュレーディンガー方程式による物質の状態は一意的決定的である。
ボルンの原理による状態は確率的である。
シュレーディンガー方程式とボルンの原理は矛盾する。これが量子力学が理解できなくなる最大の原因である。この矛盾を解消するために“分裂する空間”を考え出したりする。まさに泥沼[どろぬま]である。
だから、ボルンの原理は“原理”ではないと考えればいい。ボルンの原理は観測の対象と観測装置を含むシュレーディンガー方程式が人間に解けないために、観測装置の状態を一様分布と考えて、観測の結果を確率的に予測した“法則”にすぎない。だから、ボルンの原理を原理として真[ま]に受けて“変な世界観”を考えなくていい。
シュレーディンガー方程式によればこの世は一つしかない。物事は決定的にしか起こらない。だから、それでいいのである。EPRパラドックスは、『測定によって質量の移動がないから相対論に反しない』と考えればいい。つまり、EPRパラドックスはパラドックスではない。
一般に、物質はエネルギーが空間的に広がった状態で存在する。それが量子である。理由はわからない。宇宙がもともとそういうように出来ているのだ。
シュレーディンガーの猫の問題については、箱の中にシュレーディンガーの猫という“生きているか死んでいるかわからない猫”というものがいる。観測者が箱の蓋[ふた]を開けてシュレーディンガーの猫を見たときに、シュレーディンガーの猫の状態がシュレーディンガー方程式に従って一意的連続的に変化して生きている猫か死んでいる猫かのどちらか一方になる。どちらになるかは観測者の状態が複雑すぎてわからない。だから、人間には生きている猫になる確率が1/2で死んでいる猫になる確率が1/2になるという確率的な予測しかできない。
今の物理学では、観測されない“実体”というものを考える。実体が観測されると変化すると考える。実体と観測されたものは別である。実体は知覚では見えるが、五感では見えない。実体を知覚で見たのが状態関数である。今の物理学はそういう構造を持っている。昔の物理学(古典力学)では実体を眼で見ても変わらなかったが、今の物理学では実体を眼で見ると変わる。そのように考えて、今の物理学では物質の真の姿を探究[たんきゅう]しているのである。

[73] 波に“個数性”があるだけである。 h28.7.1
物質はすべて波である。つまり、そもそも物質は空間的に広がって存在している。粒子はデルタ波という特殊な波である。だから、すべての物が波である。ただし、物質には“個数性”がある。整数性がある。「粒子が確率的に存在する」と言うよりも『波に個数性がある』と言うほうがわかりやすい。つまり、波は必ず1個2個とまとめて買わねばならないのであって、1/2個とか2/3個とか分け売りしていないのだ。
学問をするときには“言い方”がすごく大事である。自分にとってわかりやすい“言い方”をしなければならない。「波に粒子性がある」と言うとわけがわからないが、『波に個数性がある』と言うとわけがわかる。自分が混乱しない言葉使いをしないといけない。言葉は正確に使わないといけない。
原子核の周囲の電子もダブルスリットを通過した電子も波として存在する。フィルムは物の位置を見る装置だから、フィルムの上で広がりのある波が広がりのない波に変化する。フィルムには電荷密度の空間的な時間的な揺らぎがあるから電子の波がシュレーディンガー方程式に従って時間的に連続的に変化して広がりのない波(デルタ波いわゆる粒子)になる。しかし、その過程を厳密に(つまり一意的決定的に)解くのは無理である。そのため、「ボルンの原理」を使って確率的に解くのが限界なのである。
物質は波である。波には“個数性”がある。波に個数性があるために波のひとつの部分と他の部分には相関がある。波の個数性を利用するとEPRパラドックスのような不思議なことができるのである。

[74] 相対性理論 h28.8.22
マイケルソンモーレーの実験によって『互いに等速度運動をしている時空間の間では、時空間によって光の速さは不変である』ことがわかった。
『時空間によって光の速さが不変である』のは、『時空間によって光の運動方程式が同じである』からである。『時空間によって電磁場の運動方程式(マクスウェル方程式)が真空の透磁率や誘電率も含めて不変である』からである。
互いに等速度運動をしている時空間によって不変なのは物の運動方程式(ニュートンの運動方程式)ではなく光の運動方程式(マクスウェル方程式)だったのである。だから、光の運動方程式を不変にするような時空間の変換を求めればいい。それがローレンツ変換である。ローレンツ変換で不変な物の運動方程式を求めればいい。それが本当の物の運動方程式である。エネルギーの変換について考えると、静止質量エネルギーE=mcであることがわかる。というのが、特殊相対性理論である。
さらにそれを拡張して、『互いに加速度運動をしている時空間においても物や光の運動方程式が不変である』とする。(数学的に)拡張されたローレンツ変換を考えて、拡張されたローレンツ変換で不変な光や物の運動方程式を求めればいい。それが、本当の光や物の運動方程式である。一方、太陽の周りの時空間は互いに加速度運動をしている時空間が空間的に分布したものだと見なせる。時空間についての方程式を解けば太陽の周[まわ]りの時空間が求められる。その本当の光や物の運動方程式や太陽の周りの時空間の解を使って、太陽の重力による光の青方偏移・赤方偏移[せいほう・せきほうへんい]や水星の近日点の移動や重力レンズ効果などが説明される。加速度運動をする時空間つまり重力場の中で自由落下するエレベーターの中は無重力と見なせる。自由落下するエレベーターの中は無重力空間であって光は同じ速さで上下に進むから、重力場の中ではエレベーターが落下した分だけ光源が下の方向に動いていることになるから、光を下から見ると光源が近づいていることになって光は青方変移し、光を上から見ると光源が遠ざかっていることになって光は赤方偏移する。太陽から出てくる光を地球で観察すると赤方偏移するのである。自由落下するエレベーターの中は無重力空間であって物体は直進するから、重力場の中ではエレベーターが落下した分だけ物体が曲がる。太陽に近いところのほうが時間の経ちかたが遅いからエレベーターの落下する距離がニュートンの結果よりも短くなって物体が小さく曲がることになるから水星の近日点が移動するのである。自由落下するエレベーターの中は無重力空間であって光は直進するから、重力場の中ではエレベーターが落下した分だけ光が曲がる。だから、太陽の重力場の中では光が曲がるのである。というのが、一般相対性理論である。
具体的には、書店で売られている相対性理論の教科書を読めばいい。私が九州大学理学部物理学科のころに読んだのは、岩波書店の『物理入門コース 第9巻  相対性理論 中野董夫著 (定価本体 2,900円+税)』や『物理テキストシリーズ 第8巻 相対性理論 内山 龍雄 著 (定価税込 2,376円)』などである。岩波文庫の『相対性理論 アインシュタイン著 (定価税込648円)』もいい。

[75] タイムマシンは可能か?☆ h29.1.23
『不確定性原理ΔeΔt>h』より、物体のエネルギーを確定すれば物体は未来にも過去にも行ける。物体のエネルギーを確定すれば、物体は未来にも現在にも過去にもいることになる。
『不確定性原理ΔpΔx>h』より、物体の運動量を確定すれば物体は左にも真ん中にも右にもいるのと同じである。だから、物体は位置的に広がって存在するのである。それを波という。
不確定性原理ΔpΔx>hより、物体の位置を確定すれば物体は左に激しく動いたり止まったり右に激しく動いたりするのと同じである。だから、物体は零点エネルギーを持つのである。つまり粒子は止まることができないのである。物体は運動量を確定すれば位置が不確定になって波になり、位置を確定すれば粒子になるが運動量が不確定になって動いてばかりいるのだ。物体は確定する量によって波にも粒子にもなれるのだ。物体は確定する量によって一定に動いている波にも不確定に動いている粒子にもなれるのだ。物体が周[まわ]りの物体(観測装置のような物)を使って自分の特定の量を確定すればその量に対立する量(位置に対する運動量のような量)を不確定にすることができるのだ。
不確定性原理ΔeΔt>hより、原子核の周[まわ]りに存在しているエネルギーが固有状態を取っている電子は未来にも現在にも過去にも存在していることになる。物体は時間的に広がって存在しているのだ。さらに、物体の時刻を確定すれば、物体は現在を離れて未来や過去に行けるのだ。そういう機械を作ればタイムマシンが出来るのだ。「物体が周りの物体(観測装置のような物)を使って自分の特定の量を確定すればその量に対立する量(位置に対する運動量のような量)を不確定にすることができる」ことを使えばタイムマシンが出来るのだ。不確定性原理を使えば物体は過去に行けるのだ。相対性原理でできないことが不確定性原理ではできるのだ。(『人間に“悪いことをされる喜び”がある』と考えると、政府が国民の“悪いことをされる喜び”を満足する団体であることになって、政府に国家権力がないことになって政府と国民が平等になって、今の国民が文明が高くなって実在を支配して実在を使って実在に善いことをさせるようになって“悪いことをされる喜び”を満足していないから今の国民は政府に悪いことをされるのが嫌だから今の国民が政府に悪いことをされるのを断って政府にお金を強盗されないようにしてつまり政府に税金を払わないようにして政府を倒してもいいことになるのと同じである。)
人間の眼で見える大きい物体はエネルギー値を確定することは難しいから過去や未来には行けないが、素粒子のような小さい物体ではエネルギー値を確定することができるから小さい物体は時間的に広がって存在している。素粒子のような小さい物体はしょっちゅう過去や未来に行ったり来たりしているのだ。小さい物体を使えば過去や未来に情報を送ることができるのだ。宝くじとか競馬の予想とかを当てられるかもしれない。ホーキングが「タイムマシンの発明者が過去に行って自分を殺すと矛盾が起こる」と言ったように、“素粒子に情報を載[の]せて過去に送る装置”を発明した人間が過去の自分に自分が死ぬ情報を送る(例えば、政府が事故を起こした列車や飛行機に乗るように言う)と矛盾が起こるから、素粒子を使って過去に情報を送ることもできないかもしれない。
不確定性原理が本当に正しいかどうかはわからない。不確定性原理が正しくないなら過去に行くことはできない。相対性原理が正しくないように、不確定性原理も正しくないかもしれない。不確定性原理を満足する別の原理があるのかもしれない。今後の研究を待たねばならない。
ひとつの物体はいくつかの時刻にまたがって存在する。EPRのパラドックスのように、ひとつの物を異なる二つの時刻に存在させて未来から過去に情報を送れるようにできるかもしれない。ひとつの電子を未来と過去の二つに分けて、未来の電子のスピンの向きを測定したことが過去に伝わるようにすれば「スピンの向きを測定したかしないか」を未来から過去に伝えることで未来から過去に情報を送れるかもしれない。
h29.2.18追加:不確定性原理は時空間の性質である。相対性原理が時空間の性質であるように、不確定性原理も時空間の性質なのである。相対性理論では時空間は相対性原理を満足した。それと同じように、量子力学では時空間は不確定性原理を満足するのである。時空間が変な性質を持つために質量エネルギーとかトンネル効果とかがあるのである。物質は点として存在するが、時空間に不確定性原理があるために物質の位置が定まらず空間的に広がって存在するのである。
h29.2.21追加:この宇宙は唯一にしてかつ不確定性原理のある世界なのだ。数学における空間に不確定性原理で表される一種の“距離”が入っているだけだ。物質が原子から出来ているように、空間(解析力学における位相空間)が原子から出来ていると考えるのだ。(ライプニッツの単子と似ている。ドイツ人はそういう考え方をする。)そういう空間における点は“空間全体に広がったもの”で表されるのだ。(そんな空間があるとはかのリーマンでさえ思いつかなかった。)空間に不確定原理の“距離”がなければ物質の状態は点で表されるが、空間をモザイク化したら物質の状態が“空間全体に広がったもの”で表されることになるのだ。つまり、不確定性原理のある空間では点は全空間に広がって存在することになるのだ。そういう“全空間に広がったもの”が時間的に変化すると考えればいいのだ。不確定性原理のない空間では点が時間的に移動するが、不確定性原理のある空間では“全空間に広がったもの”が時間的に変化するのだ。不確定性原理のない空間では物質は点だが、不確定性原理のある空間では物質は“全空間に広がったもの”なのだ。不確定性原理のある空間では物質はこれまでに(つまり古典力学や相対性理論で)見たことのない“新しい状態”で存在することになるのだ。それはモーメントやエントロピーのように数学的に書く以外には理解しようがないわけがわからないものである。つまり、量子力学とは『不確定性原理のある新しい空間』における力学(つまり運動学)である。相対性理論が『相対性原理のある新しい空間』における力学であるのと同じことである。『相対性原理のある新しい空間』では、ひとつの時空間から見て動いている時空間が伸びたり縮んだりする。『不確定性原理のある新しい時空間』では、物質が“全空間に広がったもの”で表されることになるのである。
本当は不確定性原理のもとになる(もっとかっこいい)原理があって不確定性原理はそのもとになる原理の一部分が見えているだけなのかもしれない。そのために、物理法則の必要条件だけを満足して十分条件が満足されていないので、実在しないことまで解になってしまうのだ。不確定性原理は不完全である。そのために、相対性原理と不確定性原理は矛盾する。相対性原理と不確定性原理を統合することが今後の物理学の課題である(下図参照)。

h29.2.22追加:物体を観測すると、例えば宇宙の端[はし]から端まで広がった質量のある物体の位置を観測すると、一瞬にして物体が一点に変化する。物体の重心が超光速で移動したことになる。観測装置から物体に働いた力が超光速で宇宙全体に及んだことになる。これはおかしい。このように、観測するときには不思議な現象がいろいろ起こる。これを観測問題と言う。要するに、今のところ観測問題はわからない。タイムマシンの問題がわからないのと同じことである。だから、今の物理学者は観測問題やタイムマシンの問題を避けて研究している。相対性原理と不確定性原理が統一されれば解けるのかもしれない。たとえ観測問題やタイムマシンの問題がわからなくても、ボルンの原理によって理論と実験が結ばれているから、物理学者はボルンの原理を用いて研究を進めて、観測問題について考えないようにしている。数学にもリーマン予想とかポアンカレ予想とかゴールドバッハ予想とかわからない問題がある。数学者がそれらの問題について考えるのを避けて自分の研究を進めているのと同じことである。どんな分野だってそうである。医学にもわからない問題がある。最初からすべての問題を解くのは無理である。研究とはわかることを増やすことによってわからないことを減らすことである。数学の研究が進めば、わかったことが増えてわかったことを使ってリーマン予想やポアンカレ予想などが解けるかもしれない。それと同じように、量子力学の研究が進めば、わかったことが増えてわかったことを使って観測問題やタイムマシンの問題などが解けるようになるかもしれない。自分がわからないことについて考えると自分にわかることがないように思われて何から何までわからなくなる。反対に、自分がわかることについて考えると自分が何でもわかるように思われて自分がわからないことでもわかるような気になる。なにより、自分がわからない問題について考えてもわからないことばっかりで面白くない。だから、とにかく自分がわかることについて考えて自分がわかったことを増やすことが先決[せんけつ]なのである。
私の経験によれば、癌[がん]とか観測問題とかリーマン予想とか難しすぎる問題は考えないほうがいい。わからないことばかりで時間の無駄[むだ]だ。みんながわからないことは自分もわからない。それよりももっと、自分が解けそうな簡単な容易な問題について考えればいい。そうすれば貴重な自分の人生の時間を無駄にしなくてすむし、何かがわかればそれに便乗[びんじょう]してほかのこともわかるかもしれない。自分がわかったことを増やしていけば、そのうちわからないこともわかるようになるだろう。だから、まず易しい問題について考えるようにすればいい。みんながわかっていそうな問題について考えていけばいい。そうすれば、意外に“いい問題”が見つかるかもしれない。
もとい、単純に相対性理論がまちがっているのかもしれない。相対性理論は不確定性原理のない世界である。実在には不確定性原理がある。だから、相対性理論がまちがっている。相対性理論は空想の世界の物理学である。相対性理論で正しいことがわかることもあるが、相対性理論でまちがっていることがわかることもある。例えば、質量エネルギーとか重力レンズ効果とかブラックホールとかは正しいが、過去に行けないとか物体が光速を超えて移動できないとか力が光速を超えて伝わらないとかはまちがっているのだ。なにが正しくなにがまちがっているかは理論ではなく実在が決める。実際に、波動関数の瞬間的な収縮が起これば、『物体が超光速で移動する』ことや『力が超光速で宇宙全体に伝わる』ことや『タイムマシンが存在する』ことが正しいのである。ブラックホールの時空の境界線をトンネル効果で突き破ってブラックホールに自由に入ったり出たりして任意の時空に行くことができるかもしれない。いくらアインシュタインに人気があるからといって、相対性理論を信じすぎてはいけない。ハイゼンベルクはアインシュタインを超えた男なのだ。
宇宙はビッグバンから始まったとされるが、どうしてビッグバンが起こったのかわからない。ビッグバン以前のエネルギーが0の状態からビッグバン以後のエネルギーがほぼ無限大の状態に変わることはエネルギー保存則に反することだからありえない。ビッグバン説では太陽みたいな大きな星が無から生まれたことになる。しかし、無から生まれるわけがない。「無から生まれた」という言葉だけで納得してはいけない。宇宙にはまだわからないことがたくさんある。宇宙は謎が多いからいくら考えても終わらない。そのほうが退屈しなくて困らなくていい。今の人間は今の時代に考えてわかることをわかればいい。
平成29年3月7日追加:研究とは試行錯誤である。暗中模索である。五里霧中である。行き当たりばったりである。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるである。まちがいを恐れていてはなにも考えられない。最初から正しいことは考えられない。とにかく考えていれば、そのうち正しいことがわかってくるものである。自分が考えたことの99%はまちがいで、残りの1%が正しいだけである。だから、人間はとにかくたくさん考えることが大事なのである。つまり、考えるコツは@難しすぎることを考えず自分が考えてちゃんとわかることを考えること。A正しくなくてもいいからとにかくたくさん考えること。自分がたくさん考えたことの中からあとで正しいことを拾[ひろ]えばいい。Bはっきりとわかったことをもとにして考えるとほかのこともはっきりとわかる。C自分の頭がよく働くような食べ物をとることなどである。
h30.2.10追加:アインシュタインが頭がいいのは祖先がインド人だからである。インド人は頭でこれまでにないことを考え出すのが得意だからアインシュタインは相対性理論を作れたのだ。ニュートンが頭がいいのも祖先がインド人だからである。アインシュタインやニュートンはけっしてヨーロッパ人ではない。ヨーロッパ人は眼がいいだけで頭が悪い。ヨーロッパ人は肉体労働には向くが頭脳労働には向かない。

[76] 時間と場所は同じものである。 h29.3.29
インドと日本は文化が違う。インド人と日本人は遺伝子が違うために脳の出来が違うために生活習慣が違う。インド人は頭だけが優れていて眼と心が劣っているために眼で見える世界を遅れたままにする習慣があり、インドでは動物や他人を苦しませて喜ばせる団体が身分が上になっている。反対に、日本人は眼と頭と心が均等に発達しているために眼で見える世界を進歩させる習慣があり、日本では動物は人間よりも身分が下であり、他人を苦しませて喜ばせる団体が国民と平等である。それと同じように、昔の人と今の人は文化が違う。人間には“苦痛に伴う快感”がある。人間の脳は苦痛を与えられるとそれを癒[いや]すために脳内に麻薬に似た快楽物質が分泌されて快感を感じるように出来ている。昔の人は文明が遅れていたために喜びが少なかったために自分のほうから政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされて“苦痛に伴う快感”を得ていたが、今の人は文明が進んでいるために喜びがたくさんあるので自分で政府や宗教団体や暴力団に悪いことをされるのを断って“苦痛に伴う快感”を得なくなっている。所変われば人変わるというように、時代が変われば人の暮らしも変わるのだ。そういうのをカルチャーショックというのである。つまり、場所で文化が違うように、時代でも文化が違う。場所と時代は同じものである。
相対性理論では時間は空間の一種である。時間は虚数の空間である。それが時間の本質である。r=aX+bY+cZ+diT。4次元空間の一部がねじれてひん曲がったのがこの宇宙空間なのである。さらに、量子力学では位相空間に不確定性がある。つまり、位置と運動量(つまり時間、dX/diT)とに非可換な構造がある。この宇宙空間は複素空間でありかつ非可換な空間なのである。おまけに、物理法則が同じであるように時間や空間が変換される。時間や空間が同じであるように物理法則が変換されるのではなく、物理法則が同じであるように時間や空間が変換されるのだ。時間や空間にはそういう性質があるのだ。時間や空間についてはまだまだ知らないことがたくさんあるのかもしれない。

[77] ハイゼンベルク空間 h29.4.1
ハイゼンベルクは不確定性原理のある幾何学空間すなわちハイゼンベルク空間を考え出した人だ。δxδp≧hとxp−px=hとは論理的に同値なのだ。つまり、不確定性原理と非可換であることが同値なのだ。確率と非可換代数が結びついているのだ。非ユークリッド幾何学では曲線が直線であるように、ハイゼンベルク空間では広がりのある面が点なのだ。つまり、物質は点だが、時空間(位相空間)に不確定性があるために波のように時空間に広がって存在するのである。
非ユークリッド空間では直線が曲線であるために通常の座標系から見ると直線が曲がっているように見える。それと同じように、ハイゼンベルク空間では点が面であるために通常の座標系から見ると点(つまり物)が確率的に存在することになるのである。さらに、実際に物を観測すると物の状態が変わってしまうのである。

[78] 真実は相対性理論を超えたところに存在する。 h29.4.26
物質は位相空間上に広がって存在する。つまり、現実における点は位相空間における面である。現実における直線がユークリッド空間における曲線であるのと同じである。現実の空間では不確定性原理があるから時間と空間が非可換だから点が面になっているのである。
物質を観測装置で観測すると物質と観測装置の両方がS方程式(シュレーディンガー方程式)に従って運動して物質が変化して観測量の固有状態のひとつになる。実際に物質を観測すると観測値はひとつしか得られないので一致する。人間が物質の収束先を特定できず確率的にしか予測できないのは、人間が観測装置の微視的状態を知らず、物質と観測装置の両方についてS方程式を解けないからである。物質が位相空間上で広がって存在しているために“確率的”になっていることと、人間が観測装置の微視的状態を知らずS方程式を解けないために収束先が“確率的”にしか予測できないことを混同してはいけない。“確率”の意味を混同してはいけない。
この宇宙はひとつしかない。宇宙がS方程式に従って変化しているだけである。
アインシュタインは「物質は光速を超えて移動できない」と言ったが、現実の空間には不確定性原理があるから『物質は光速を超えて移動できる。』アインシュタインは「物質は過去には行けない」と言ったが、現実の空間には不確定性原理があるから『物質は過去に行ける。』真実を決めるのはアインシュタインではなく現実である。アインシュタインが神ではなく現実が神である。だから、みんなはアインシュタインを信じるのではなく現実を信じないといけない。

[79] 不確定性原理と相対性原理は矛盾しない。 h29.5.10
ハイゼンベルク空間では点が面である。つまり、現実の宇宙では点が面である。ユークリッド空間では違う点でも現実の宇宙では同じ点である。ユークリッド空間では距離があっても現実の宇宙では距離がゼロである。だから、EPRパラドックスで観測による波動関数の収縮が瞬間的で物質の移動が光速を超えていても、実際には物質は移動していないのである。物質の見かけの速さが光速を超えても、実際には物質の速度は0[ぜろ]なのである。物質の実際の速さは光速を超えていないのである。だから、たとえ物質が瞬間的に収縮しても、相対性原理に反していないのである。現実の宇宙が不確定性原理によって見かけの離れた点の実際の距離が0だから、たとえ物質の見かけの速さが光速を超えていても実際の速さは光速以下なのである。不確定性原理が相対性原理を守っているのである。
不確定性原理によって、紙を折るように空間が折り畳[たた]まれて距離が短くなっている。物質は現実の宇宙を跨[また]いで移動するから実際には光速を超えないのである(ワープの原理)。物質と現実の宇宙の間には相互作用がある。物質があると現実の宇宙は折り畳まれるのである。いくつかの点が重なってひとつの点になる。スポンジの上に重い物を置くとスポンジが凹んでスポンジの上の点が近づくようなものである。トンネルを掘るのと同じである。つまり、不確定性原理とは位相空間つまり時空間のトンネルやバイパスのことなのだ。時空間にはトンネルを掘ることができるのだ。時空間がトンネルによって縮重[しゅくじゅう]している(つまり違う場所が折り畳まれて重なっている)と言ってもいい。物質が現実の宇宙にトンネルを掘るから、たとえ物質の実際の速さが遅くても見かけの速さが速いのである。今はまだ宇宙の穴を通って移動することは空想にすぎないけれども、空想は実現されることが多いので、将来は実際に人間がそうするかもしれない。
それにしても、物理学は難しい。物のことは難しい。人間は物のことが一朝一夕[いっちょういっせき]にわかるものではない。素人[しろうと]が3分間でわかるものではない。一生かけて物のことばっかり考えている人が少しずついいアイデアを考え出して行ってだんだんよくわかってくるものなのだ。私はそこまで物について興味がないので、物理学をやめたのである。日本人はヨーロッパ人ほど眼がよくないので物についての興味もそれほどないのだ。
人間がすべての物について考えるのは難しい。ひとつの物について考えるのはやさしい。アインシュタインは光のことばっかり考えた。そこから、相対性原理や量子原理を考え出した。だから、人間が宇宙の原理を知るためにはひとつの物について考えればいい。ナントカ粒子のことばっかり考えればいい。そうすれば、宇宙の原理がわかる。
物質が過去に行くのだって、現実の宇宙が時間的に折り畳まれているために見かけでは物質が過去に行っているように見えても実際には過去に行っていないのだ。現実の宇宙では過去と現在と未来が同じだから、物質が現在から過去に行っても物質は現在から現在に行ったにすぎないのだ。だから、やはり相対性理論には反していないのだ。
シュレーディンガーの猫だって、不確定性原理によって“生きている猫と死んでいる猫の中間的な猫”と生きている猫と死んでいる猫の間にトンネルができて“生きている猫と死んでいる猫の中間的な猫”と生きている猫と死んでいる猫の距離がゼロだから、“生きている猫と死んでいる猫の中間的な猫”が瞬間的に生きている猫と死んでいる猫のどちらかになってもかまわないのである。これで『シュレーディンガーの猫の問題』が解けた。不確定性原理についてよく考えて行けば『シュレーディンガーの猫の問題』は解けるのである。つまり、放射性元素を使えば、“生きている猫と死んでいる猫の中間的な猫”と生きている猫と死んでいる猫の距離をゼロにすることができるのだ。これを応用すればワープができるかも?!


[80] 相対性原理の意味 h29.5.10
相対性原理は、時空間が物差しにすぎないことを言っている。物は物だが、時空間は物ではなく物差しなのである。物はひとつしかないが、時空間はたくさんある。人の数だけある。相対性原理は物差しによらず物が同じでなければならないことを言っている。そう考えると当たり前のことである。物差しは物を測[はか]るだけだから、物差しに絶対的な物差しがないのは当たり前のことである。
この世には光速度不変の原理がある。つまり、光の速さはどんな物差しで測っても同じなのである。だから、物差しが変わる必要がある。人によって物差しの長さが変わらねばならないのである。
光以外の物についても同じことが言える。物の速さも人によって微妙に違うのである。そのために、ニュートンの運動方程式が修正されねばならないのだ。
古典力学によって地上と宇宙の区別がなくなった。それと同じように、相対性原理や量子力学によって波と粒子の区別がなくなっているのだ。
時間空間とは運動の分解の仕方だ。長い間時間空間は人によらず同じだと考えられていたが、光について考えることによって、時間空間が人の動く速さによって変わることがわかったのだ。人間は時間空間そのものについても考えるようになったのだ。
時間空間は人間が物を書き表すための言葉である。人間は言葉を使って物を表すが、言葉そのものを問題にするようになったのだ。言葉自体について考えるようになったのだ。数学の不完全性定理と同じだ。つまり、数を定義するためには再び数を使うことになるから、数が定義できないのと同じことだ。ペアノの自然数論に用いられる記号に自然数を当てはめることができるから、自然数が定義できなくなるのである。クオークを分解すれば再びクオークになるのと同じことである。人間は自然数を定義できない。人間は自然数を完全に理解することはできない。しかし、それでも人間は自然数について考えることができる。人間は自然数についての新しい性質を知ることができるのである。人間は自分で自然数についての概念を考え出して、それらの概念を組み合わせて自然数についての新しい性質を知ることができるのである。
現代の物理学は物だけではなく言葉についても考えるようになっている。物が好きなのはヨーロッパ人だが、言葉が好きなのはインド人である。今後は、インド人も物理学に参入してくるようになるだろう。インド人も科学をやるようになって産業をやるようになってインドが物やお金が豊かになるだろう。

[81] ダイオードとトランジスター h29.5.11
物質には不導体と導体がある。不導体は自由電子を持たない物質で、導体は自由電子をたくさん持っている物質である。
不導体と導体の中間に半導体がある。半導体では自由電子や正孔によって電荷が運ばれている。電気が流れている。
自由電子によって電荷が運ばれている半導体と正孔によって電荷が運ばれている半導体をくっつけたものがダイオードである。ダイオードにかける電場の向きによって電流が流れたり流れなかったりする。
トランジスターとは、正孔によって電荷が運ばれている半導体と直角の向きに電子によって電荷が運ばれている半導体をくっつけたものである。正孔によって電荷が運ばれている半導体があるところに、電子によって電荷が運ばれている半導体から電子を放出させて正孔によって電荷が運ばれている半導体の電流を制御するわけである。電子によって電荷が運ばれている半導体に電場をかけないときには、ただの半導体だから正孔によってある程度の電流が流れる。電子によって電荷が運ばれている半導体に電場をかけると、電子によって電荷が運ばれている半導体から正孔によって電荷が運ばれている半導体に電子が放出されて電子と正孔がぶつかって正孔がなくなって正孔によって電荷が運ばれている半導体に電流が流れなくなる。これがトランジスターによる電流制御の原理である。T字型の交差点でトラックが横方向に荷物を運んでいるところに縦方向からミサイルを撃ってトラックを破壊して荷物を運べなくしているようなものである。ダイオードには2つの端子しかないが、トランジスターには3つの端子があるから3つの端子にかける電位(つまり電圧)によって電流を制御することができるわけである。
ダイオードとトランジスターの違いはP型半導体とN型半導体を平行にくっつけるか直角にくっつけるかの違いである。普通のCMOSとソニーの裏面照射型CMOSの違いが配線部とフォトダイオード部が表裏になるか裏表になるかの違いであるのと同じことである。
昔の人はこれぐらいのことは容易に理解できた。今の人はテレビでフニャフニャしたことばかり見ているから、今の人はフニャフニャしたことしかわからなくなっているから、こんなことが理解できなくなっているのだ。



[82] 量子力学では人間が対象を観測すると対象の状態が変わる。 h29.9.4
古典力学では、人間が対象の状態を観測しても対象の状態は変わらなかった。位置や運動量が変わらなかった。
しかし、量子力学では『人間が対象を観測することによって対象の状態が変わる』と考える。例えば、人間が対象の位置を観測することによってψ[プサイ]からδ[デルタ]に変わる。量子力学では人間が対象を観測すると対象の状態が変わるから、観測する前の対象の状態を知らねばならない。量子力学では(古典力学でもそうだが)人間が理論的に観測する前の対象の状態を知ることができる。親が子供部屋の戸を開けると子供が態度を変えて子供の状態が変わるから、親が頭で考えて子供部屋の戸を開ける前の子供の状態を知るのと同じことである。人間が観測する前の対象の状態を知ってそれを使って新しい素子を作ってそれを用いて発明品を作って楽しく生活をするのである。

[83] 観測による物質の状態変化はシュレーディンガー方程式に従って超光速で起きる。 h29.9.24
物質を観測すると状態関数が変化する。観測量の固有状態のどれかになる。
ボルンはこの変化が時空間(位相空間)の外で起きると考えた。だから、瞬間的に変化が起きると考えた。これをボルンの原理という。
私はこの変化が時空間(位相空間)の中で起きると考える。シュレーディンガー方程式に従って連続的決定的一意的に変化が起きると考える。
そもそもこの世に“時空間の外”なんかない。この世の現象はすべて時空間の中で起きる。だから、ボルンの原理はまちがっている。
不確定性原理により、物質は位相空間の中で面として存在する。現実の位相空間では面が点である。面の中は距離がゼロである。不確定性原理で広がっている範囲が実在においてはすべて同じ場所(状態)なのである。古典力学では違う状態が量子力学では同じ状態なのである。量子力学では状態が縮重している。だから、物質の位置を測定したときに状態関数がデルタ関数に超光速で変化しても実際には物質が移動しているわけではないから相対論的にも問題ない。つまり、状態関数の変化は超光速でもいいのである。
状態関数の変化はシュレーディンガー方程式(それを相対論的に書き直したディラック方程式)に従って変化するが、その変化は超光速でもかまわないのである。この世には相対性原理のほかに不確定性原理があるから物体の位置の変化が超光速でもいいのである。
ボルンの原理はノーベル賞である。ノーベル財団は政府と組んでいる。政府は国民を虐[いじ]める団体である。だから、ノーベル財団も国民を虐める。ノーベル財団はみんなを虐めるためにわざとにまちがったボルンの原理を正しいことにしてノーベル賞をやったのかもしれない。ボルンの原理を正しいことにすれば物理学の発展が遅れてみんなが不幸になってみんなを虐めることになるからである。

[84] どうして観測の際にはボルンの原理を使わねばならないのか? h29.12.20
この世には不確定性原理がある。不確定性原理で広がった範囲が“すべて同じひとつの状態”である。
量子力学では対象を観測すると対象の状態が変化する。古典力学では対象を観測しても対象の状態は変わらないが、量子力学では対象を観測すると対象に影響が及んで対象の状態が変わる。観測とは観測装置から対象に力を及ぼすことであるから、観測によって対象の状態が変化するのは当然である。
観測による対象の状態の変化は方程式(例、シュレーディンガー方程式)に従って一意的決定的連続的に起こる。時間的に連続的に起こる。ただし、その変化は非相対論的である。不確定性原理で広がった範囲がすべて同じ状態だから、それらの間は距離が0だから、“状態の位置の平均値”が光速を超えて変化してもかまわない。
観測装置の状態は人間にとって不可知[ふかち]である。なぜなら、人間が観測装置の状態を知るためには観測装置をさらに観測しなければならないからである。人間が観測装置の状態を知るためにはまた別の観測装置が必要だから、別の観測装置の状態をさらに別の別の観測装置を用いて知らねばならないから、きりがないから、人間にとっては観測装置の状態を知ることはできない。だから、人間は観測による状態変化を確率的にしか知ることができないのである。だから、ボルンの原理を使うしかないのである。
けっきょく、この宇宙はひとつしかない。宇宙の中のすべての物が互いに力を及ぼしあって方程式に従って変化しているだけである。方程式はすべての観測者において同じである(これが相対性原理)。


[85] 超伝導体の理論 h30.3.4
普通の金属では自由電子が原子殻[げんしかく]にぶつかるために抵抗を生じている。ところが、超伝導体では自由電子が原子殻にぶつからないように動くので抵抗がない。だから、自由電子が原子殻にぶつからずに運動する物質を探せばいい。作ればいい。物質の中での自由電子の動きを調べて自由電子が原子殻にぶつからない物質を探せばいい。
水銀は超低温では自由電子と原子殻がぶつからない構造になるから超伝導になるのだ。


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