☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆
☆☆☆

11.2

女はどうして女らしいのか?
女の身体の現象的意味に捕らわれるからだ。
女はもともと頭が男で身体だけが女なのだが、
身体の五感的意味にとらわれると頭までが女になってしまうのだ。
つまり、頭で身体を見ずに、身体で頭を見ようとするから、身体が女だと頭も女になってしまう。
‘頭で身体を見る’とは、取りも直さず、‘頭が男なのに身体だけが女’と言うことである。
私も、友人から、「こいつは見かけによらない」とよく言われていた。
男の身体は醜いから、身体で頭を見ると、頭まで汚くなければならないことになる。
マンガじゃないから、見た目のまんまがその人の性格なのではない。
見た目のまんまで性格が決まるのだったら、女はいやらしく、男は汚らしくなければならないことになる。
女は身体がフニャフニャだから、頭もフニャフニャであり、
男は身体が汚いから、頭の中も汚いのだ。
そういう見方をしてはいかん。
頭の中身と身体とは一致しないものだ。
だから、いくら身体がフニャフニャしていて弱そうでも、頭は男らしく知覚的であればよいのであり、
いくら身体が汚らしくても、頭の中はきれいであればいいのだ。
(そうでなければ、デカルトに数学がわかるはずがない。)
頭を身体に合わす必要はない。それは他人の目にたよりすぎだ。他人に自分を決めてもらおうとしているからだ。
逆に、身体を頭に合わす必要もない。それは、見栄だ。それに、そもそもそんなことは不可能だ。頭が男だからって、女の身体を男の身体に変えることはできない。人間はみな頭が男(知覚優位)で、身体が女であったり男であったりするだけだ。
一般に、身体と頭とは関係ないのだ。
『知覚を五感に従属させてはならない。
その逆に、五感を知覚に従属させねばならない。』とは、そういうことだ。

アニ
七人のナナ#16
ナナが神近君に振られてしまったね。
ナナの憧れの神近君が、
じつはナナと同じだったとはね。
今後の展開は、
神近君も憧れの女に嫌われて
ナナと同じ目に合って、
結局、ナナと神近君が仲良しになる。
と、予想される。

11.2

女が女らしいのは、人間を眼で見える身体の上だけで捉えているからである。
眼で見えない感覚の質まで含めると、意外と男だったりする。
人間を眼先の上の身体だけで見るか、それとも
認識の正しさ(感覚の質)までも考慮して見るかの違いだ。
キュリー夫人やコワレフスカヤは、パッと見の身体的には女だが、
物理や数学の物差しで見ると、男なのだ。五感バカではない。
評価すべき目で見れば、女は身体だけが女で頭は必ずしも女(つまり、五感バカ)ではない。
人間が五感バカになるかならないかは、文化によるのだろう。
つまり、男は厳しく、女は甘く育てられたから、男は知覚が発達し、女は生まれたままの五感バカのままなのだ。
そうでなければ、東大に受かる女なんかいないことになる。
何度も言うが、身体だけで人間を見るから、男と女が違うことになるので、
認識まで含めて人間を見れば、男と女は身体が違うだけで、頭は同じ人間すなわち知覚のある動物なのだ。
頭が五感バカなら、たとえ身体が男でも頭は女だ。
ただ眼で見るだけで、言葉を使って考えないなら、頭は女だ。
同じ言葉を使っても、言葉の意味が五感ではなく知覚にあることが大事なのだ。
社会全体の文化レベルが低く、人間を眼先だけ(イメージ)でしか見れないから、男と女の違いがあるのであり、
人々に知覚的概念(イデア)が与えられ、社会の文化レベルが上がり、人間を認識の正しさ(感覚の質)で見れるようになれば、男と女の違いは解消するだろう。
子どもだって、大人顔負けに知覚の発達した者もいる。
子どもと大人の違いは身体の違いだけであって、頭はそんなに違わないのかもしれない。
たとえ身体が子どもでも、知覚が大人並みに発達していれば、大人の仲間に入れるべきである。
逆に、身体が大人でも、頭が子どもであれば、子どもの仲間に入れたほうがいい。
子どもと大人の違いは、年齢や身体の大きさにあるのではなく、感覚の質すなわち五感と知覚の違いにあるのだ。


『自分とは何か?』
女が女らしいのは、自分というものを自分の身体にすぎないと考えているからである。
自分というものを自分の頭(認識、感覚)まで含めるなら、女はもはや男と同等である。
自分を五感の上だけで捉えるか、実在の上で捉えるかの違いだ。
自分を実在の上で捉えているなら、身体だけが女で頭が男でありうる。
自分を五感の上でしか捉えられないなら、身体が女なら頭も女にならざるを得ない。
対象を五感で見るか知覚で見るかは、知覚のトレーニングしだいだ。
知覚がトレーニングされていれば、対象を知覚で見ることができるが、
知覚のトレーニングが足りなければ、対象を五感でしか見られない。
『人間は人間になろうとするから人間なのであって、
人間になろうとしなければ動物のままだ。』

頭が男で身体が女の女は、頭がいい、知覚の発達した女である。
しかし、世の中には、対象を五感でしか見られない者がいる。
そういう者は、自分自身や他人を五感で見る。
しかも、他人の正しい認識を自分のまちがった認識に従えようとする。
そういう連中は物の実体が見えていないのだから、そいつらに合わせる必要はない。他人のまちがいまで真に受けなくていい。
自分は自分の正しい認識を信じて生きていけばいい。
いくら、頭を使わないのが楽だからと言って、まちがいでは何にもならない。
人間にとっては、楽か苦よりも、正しいかまちがいかが優先する。
正しい世界すなわち実在の世界の中で、苦を減らし楽を増やすように考えればいいのであって、
楽だからと言って、正しかろうがまちがいだろうがどうでもいいのではない。
人間は認識の世界の中に生きているのではなく、実在の世界の中に生きている。
人間の認識が実在する脳細胞の神経興奮による感覚(子)の発生である以上、
認識よりも実在が優先する。
だから、たとえマンガであっても、実在的部分と空想的部分とに分け、実在的部分を重視し、空想的部分を軽視するような見方で見ることが大事なのである。
ただおもしろかったらいいという認識主義(快楽主義)ではダメで、実在主義(知覚主義)でなければならないのである。
人間はつねに実在の中に生きているのであって、そのことを忘れて認識の世界の中だけに閉じこもってはならないのだ。
そんなことしてたら、実在に不適応になって、生きていけなくなる。

ゴチャ11.2
自然のページ>今日福知山にきれいな虹が出ていました。それが並じゃなくって(スタトレのワープで消えるときみたいに)眩しいほどに輝いていたんです!それで虹の外側にもうひとつ虹が見えました。アレクサンダーの暗帯とまではいきませんでしたが、はっきりと副虹が見れたのは珍しい。副虹はボンヤリしていて、主虹よりは幅が広いように見えました。色の順は、主虹は外側から赤燈黄緑青藍紫で、副虹は内側から赤燈黄緑青藍紫でした。色順が反対になっているわけです。写真では見たことがありますが、本物を見たのは生まれて2〜3べんめくらいかな。

チャット
自分が悪いと言う人に悪い人はいませんよ。
どうせ誰も見る人いないから、大感激です。

チャット
ついに『2003年東京ミュウミュウカレンダー』が届いたぞー。いちごの絵ばっかりで、みんとが出てないぞー。(ちょっとがっかり)

h14.11.2
引越しの前後にもかかわらず品物が無事届きました。プロならではの完璧な梱包で送ってくれました。ありがとうございました。

エクセル・サーガ
『ボウリング娘。』

ひさしぶりに笑えるアニメに出会った。
KONIちゃんもおもしろかったけど、
これもなかなか。

無責任艦長タイラー
『 』

11.3

△自分は親に頼んで産んでもらったんじゃない。
自分は生まれたいから生まれたのではない。

なぜなら、自分が生まれる前には自分がいないからである。
自分がいなければ、自分が生まれたいと欲することができない。
人間は生まれたくて生まれたのではないから、
ほんらい生きていても死んでもどっちでもいいはずである。
生きたいという欲望は成り立たないのだ。
人間は生きたいから生きているのではない。

アニ
『最近おもしろかったアニメ』
エトレンジャー『0時5分のシンデレラ』スフレちゃんがかわいかった。
エクセル・サーガ『ボウリング娘。』おもしろかった。
無責任艦長タイラー『命短し、殺せや乙女』おもしろかった。

アニ
絵の意味
エトレンジャー『0時5分のシンデレラ』(ええ話やなあ。サブタイトルもええわ。スフレちゃんの髪がフワフワで気持ちええわ。)で見た噴水の水の‘泡’は、泡が出来てもすぐに壊れるものだから、‘夢のはかなさ’を表している。
レイヤース『この世界でいちばん大切なもの』(だったかな?)で見た‘光の壁’は、海と風が傷ついていたわり合っているのに光だけが無傷で心が二人から離れて、‘光が仲間はずれにあった’ことを表している。最後には、光も海や風と同じように傷つくことで仲間に戻れた。


△男と女
眼で見ると、男と女は違うけれど、
頭で見ると、男と女は頭が同じで身体が違うだけだ。
つまり、
五感界=現象界においては、男と女は違う生き物だが、
知覚界=実在界においては、男と女は身体が違うだけで、頭は同じ人間なのだ。
オリンピックの記録のように、身体的には男が女よりも勝るが、
頭の出来は、男でも女でも変わりないのだ。
これまで、女の頭が男の頭より劣ってきたのは、
女をお産の道具と見なして、女に知的トレーニングをしなかったからだ。

アニ
エトレンジャー
スフレとクリームの出ん回はつまらんなー。
トリが大人になってもつまらんなー。

花園ユーミ
花園ユーミの魅力はなんと言っても“あごの丸み”だ。
あと全体的に幼児体型ってとこかな。カエルっ腹。
アップで顔がボワーとくるともうたまらんっ。
話の面では、
モモからエミまでは子供から大人に変わると言うことで、
‘少女の子どもから大人への成長’を描いていた。
でも、ユーミは大人に変身せず子どものままなので、
‘少女から大人への成長’を描いているのではない。
‘少女の子どもらしさ’を描いているのだ。
だから、全体的にユーミは子ども向きに出来ている。
子どもにしか受けない危険性もあるけど。
うる星やつらの高橋留美子もヤング向けのネタが切れてらんま1/2を描いた。
子どもはけんかが大好きなので、らんま1/2はけんかまんがとして描かれた。
バトシーラーもOPの前にバトルシーンを流して、自分が格闘アニメであることを子どもたちに主張している。
さすがの猿飛の細野不二彦も同様な理由でGUGUガンモを描いた。
第1作目で出世して、2作目はすでにアニメ化が決まっていたからでもあるが。
まんがはヤングも見るけれど、アニメは子供が見るものなので(おこづかいのせいもある)、アニメ化されるまんがは最初っから子ども向きなのである。
ぴえろも、モモからエミまでで‘子供から大人への成長’ネタを使い切ったので、
アニメが大人の見るものではないために(私は見ているけど)、
子どもネタに帰らざるを得なかった。(そのわりになんか話に夢がなくて子どもっぽくなかったけど。)

ロリコン
大人が子どもを愛するなんてことがあるけど、
それはその大人の頭が子どもだからだ。
人は同世代でなければわかり合えない。愛し合えない。
ぴえろ魔法少女が大人にも受けたのは、
それらの作品が‘少女の子どもから大人への成長’を描いていたために、
大人受けする要素が多分に入っていたためだ。
大人も共感できるし、子どもも共感できる。
視聴率が上がる。
ロリコンの大人は精神年齢が子どもなので、そう考えれば、
子どもが子どもを好きなだけのことだから、
別に変態でもなんでもない。


らんま
らんまはケンカはよくするけれど、人を殺さないところが好き。
ドラゴンボールも本編では殺さなかったけど、Zに入ると殺しまくったから嫌。
ケンカと人殺しの違いをわきまえているのが大事。

ユーミ『花びらのステップ』
子どもと大人の断絶(ギャップ)ゆえに、
しょせんは実らぬ恋だとユーミは悟った。
洞沢作画監督の回だけあって、ユーミの‘あごが丸い’。
あごの丸いユーミは洞沢作監と後期の高倉監督ぐらいで、
加藤作監や他の男の作監のユーミはみんなあごが
ペルシャや舞のように尖っている。
顔が長いのは大人の徴(しるし)であって、
子どもはみんな顔が丸いの。
そうせんと体型や服装と合わんでしょうが。

ドラゴンボール
すいません。勉強不足でした。
悟空はZでも敵を殺しませんでしたね。
フリーザは自滅したし、
セルは御飯を手伝っただけだし、
ブーは魔神だから殺したことにはならない?善玉と悪玉に別れて悪玉だけを殺したからかまわない?
では、ギニュー特選隊は?
やっぱなんか殺している気がするなあ。

11.4
魔法少女
モモからエミまでの魔法少女は、みな
“少女の子どもから大人への成長”を描いている。
モモでは、『アニメの世界に居るキャラクターの夢はモモがかなえられるけど、
実在の世界に居る自分の夢はアニメの世界のモモにかなえてもらうのではなく、
実在の中にいる自分自身でかなえなければならない』ことが説かれていた。
ぴえろ魔法少女は、モモをさらに一歩進めて、
『実在の中で自分の夢をかなえるためには、自分の夢を実在の中で捉え直さなければならない』ことが説かれていた。
ペルシャでは‘愛’について、エミでは‘仕事’について
それぞれの夢の実現方法が説かれていた。

小学低学年でも、人を好きになる気持ちはあるけど、
仕事は、大人の問題だ。
ところが、アニメは空想的要素が多いので、実在がわかっている大人は見たがらない。
人は誰でも自分の感性でものを見たがるので、自分の感性にしっくりくるものでないと見ようとしないからだ。
ここに矛盾がある。
だから、ペルシャは人気があったが、エミでは人気がいまいちだった。
ユーミで急遽低年齢化が図られたが、それは子どもの欲望(例、おもちゃが欲しい、お菓子を食べたい、乗り物に乗りたい、知らないところに行きたい)をかなえるものではなく、子どもからも振られた。

アニメとドラマ
アニメは絵だから空想的である。
ドラマは物だから実在的である。
人間は実在について何も知らずに生まれてくるので、(ただし、五感は実在についての先天知と見なされる)
子どもの感性は空想的である。
子どもから大人への成長の中で実在の世界がわかってくるので、
大人の感性は実在的である。
人間は自分の感性にしっくり来るものを見たがるので、
子供はアニメを見、大人はドラマを見る。
しかし、これでは子どもから大人まで楽しめる番組とはいえない。
折衷案として、
リアルに描いた絵(等身大のキャラ、必殺技のないロボット)なら大人でも見てくれ、
特撮(空想的要素を加えた実写)なら子供でも見てくれる。
昔はアニメの技術がなかったので、特撮が子供の見れる唯一の番組だった。
リアルなアニメや空想的な実写なら子どもから大人までみんなで一緒に楽しめる。
昔はテレビが高価だったので、テレビが一家に一台しかなく、チャンネルの奪い合いが深刻な問題だった。
ひとつの番組でみんなが一緒に楽しめれば、争いは起こらない。
今は、テレビが一人に一台あり、多チャンネルの時代だから、子どもと大人が乖離していても問題にならない。専門化の時代だ。

11.5
無責任艦長タイラー
運がつくのも一回かぎりならおもしろいけど(『命短し、殺せや乙女』参照)、
私は“運に頼らない主義”なのでそう何べんも見たくない。
給料袋の大半を『宝くじ』につぎ込むほどおめでたくないからだ。

ユーミ
ペルシャでは愛を実現するために、学をあきらめねばならないところまでは描けたけど、そこから先はわからずじまいだった。
ユーミでは愛を実現するために、恭平さんをあきらめて同じクラス(職場)の健太君にしなければならないところまで描こうとしている。

11.6
生まれたての子どもは実在について無知であり、
大人は実在についての知識があるから、
子どもの感性は空想的・現象的であり、
大人の感性は実在的である。
子どもは空想・現象で喜び(つまり、実在しないことで喜んだり、絵のきれいさで喜んだりする)、
大人は実在で喜ぶ。大人は実在に複合する心が発達している。
アニメでもまんがでも文学でも実在的要素と空想的要素の両方がある。
(科学や工学は、実在と実在に複合する心しかない世界である。)
大人はアニメの実在的要素で楽しみ、
子どもはアニメの空想的・現象的要素で楽しむ。

《七人のナナについての量子力学的考察》
量子力学におけるボルンの原理とは、『多くの素粒子が関与するところで波動関数は収束する。』ことにほかならない。
だから、例えば、シュレーディンガーの猫では多くの原子から出来ているガイガーカウンターのところで光子の波動関数が収束するので、生きた猫か死んだ猫かのどちらか一方になる。
しかし、超伝導のように、たとえマクロな現象であっても、波動関数の収束が起こらないことがある。
特定の条件を満足すれば、たとえ多くの素粒子が関与したとしても、波動関数の収束は起こらないのだ。
ナナにも異なる性格のナナが7人いるが、普通はそのうちの1人しか表に出ないが、つまりこれが波動関数の収束に当たるわけで、もしも収束が起こらなければ、7人の違う性格のナナが同時に同じ確率で実在することになる。あたかも、超伝導体がその内部にある電子対をボソンに変えて安定化させているように、プリズム(分光器)が異なる性格の7人のナナを安定化して、1人のナナに収束するのを妨げているわけである。すなわち、
Ψ=Ψ(鈴木ナナ)+Ψ(ナナッペ)+Ψ(ナナぽん)+Ψ(ナナさま)+Ψ(ナナっこ)+Ψ(ナナりん)+Ψ(ナナっち)
がそのままマクロ化して実体化したのが七人のナナってわけ。
シュレーディンガーの猫なら、ガイガーカウンターに波動関数の収縮を防ぐプリズムを取り付ければ、生きている猫と死んでいる猫の2匹の猫が箱の中に現れることになる。

チャット11.7
七人のナナ“OVA”を見た。AT−Xに入っててこれほどよかったと思ったことはない。

楽に死ぬ方法11.8
自分の頭に避雷針を立てて雷の鳴る日に高い山のてっぺんに登って稲妻が自分の頭に落ちるのを待つ。

アニメ日記
忍者戦士飛影(ATーXで放映中)
DVD買う前にテレビで見れてよかった。(ミントも)


魔法のエンジェル
スイートミント(AT−Xで毎週水曜日朝放映中)
『がんばれトアールナイツ』を見て
ミントって、ほんとにお世話好きで、
ママみたいだ。

最近ヤフオクでミントのLDの出品が多い。
衛星放送の画質ってLDよりもいいのかなあ。
ミントのように、かなりおもしろいけれど、
お金を出してDVDを買うほどではない、
そんなのが見たかったんだよね。


七人のナナ
坂道の上に大きな桜の木…今頃になって、やっとその意味に気がついた。
‘苦心惨憺努力の末に晴れて念願の合格、めでたしめでたし’
話も大詰めを迎えて、ようやくOPの‘桜の木’の意味がわかるとは。自分の国語力の至らなさを思い知るのであった。…とほほ。

七人のナナ(予想)
でも、高校ではナナと神近君とは一緒になれないかもしれない。
なら、大学は一緒ね、と開放形で終わるのだろう。


哲11.9
『実在は五感を超えたところにある。』 h14.11.9
子供の頃の私は、眼で見える世界が実在で、自然科学の世界は人間の頭の中で作り出した作り事の世界にすぎないと考えていた。眼で見える瞬間瞬間に移り変わる世界のほうが実在で、時間を取り入れた4次元世界は眼で見える世界を理論的統一的に説明するために考え出された人工の世界にすぎないのだ。
28歳ごろになって、やっと、時間のある4次元世界のほうが実在で、五感(眼で見える世界)は人間が頭の中で作り出した世界だということに気がついた。五感は人間の大脳の後頭葉にある脳細胞の興奮による感覚の発生によって作られた世界なのである。実在においてすべてのものは静止しており、五感は各瞬間における感覚(子)の発生・消滅であるがゆえに動いて見えるのである。
子供は眼で見るだけで、まだ言葉で考えることが不足しているから、五感のほうを知覚よりも実在だと見なしている。大人は眼で見たことを言葉で考え直すから知覚のほうが実在になる。人間の大脳は実在を見るための巨大な眼玉なのだ。

アクセスログ
<img src=/cgi-bin/accesslog/~jituzai/1/?action=logging>

http://www.h3.dion.ne.jp/cgi-bin/accesslog/~jituzai/1/?action=auth

チャット
ドラゴンボールのDVDが売れないのは、みんながビデオに撮っているからだろう。

アニメ日記
超時空要塞マクロス#10
早瀬未沙の巻き毛がオーバー(巻き毛は忍耐のしるし)

スイートミント#10頃
ぴえろの魔法少女は‘美形’のかたが多かった
それに較べると、絵はあまりにも貧相…(でも、最近画力が安定してきたな)
しかし、しょせんは絵の女の子
やってることがかわいけりゃ、そのうちかわいく思えるようになるさ

チャット
今夜のエクセルサーガ(#10メンチの話)は、前半はギャグ抜きでわけわかんなかったけど、後半はずっこくおもしろかった〜

スイートミント
ミントって、見てると、なんだか心があったかくなるね
話が身近で
絵が庶民的で
とっても親しみやすい。

テ11.10
『精神病について』 h14.11.10(昨夜ヤフー掲示板のほうから来られた方がいたので)
躁鬱病は、知覚が狭い。
分裂病は、感覚が五感的だ。
したがって、
鬱病気質の者が知覚でわからないことに出会うと五感でしかわからなくて人間の心が働かなくて落ち込む。
分裂気質の者が五感で興奮しすぎると知覚が働かなくなって実在に適応できなくなる。
躁鬱気質の者が外向的なのは、自分がわかることが狭いので他人に自分を助けてもらう必要があるためである。
分裂気質の者が内向的なのは、言葉を用いて考えないために、他人との意思疎通がうまくいかないためである。
あるいは、
躁鬱気質の者は、感覚が知覚的過ぎるために、五感を知覚化する過程すなわち学習が苦手であって、自分の知覚でわからないことに出会うと手も足も出なくなる。
イデアはイメージから余計な部分をそぎ落として洗練した、実在についての必要十分な情報を含む概念であり、そうして得られたイデアをもとのイメージに対応付けることが、そのイメージに対応する実体についての理解にほかならない。
そもそも、人間の認識には、知覚、五感、心の三つがある。
知覚優位型が正常な人間であり、
五感優位型が分裂気質であり、
心優位型が躁鬱気質である。

心優位であるからこそ、心の快不快が前面に表れているのだ。
五感優位であるからこそ、五感の非実在性が前面に出て、実在への適応不全を引き起こしているのだ。
知覚優位であれば、知覚は最も実在に近いから、実在に適応して人間らしく生きていけるのだ。
躁鬱病者は自分の心にとらわれているために、そもそも自分の心が自分の感覚と複合していることを見失って、心が独りで暴走しているのだ。
自分の心にとって自分が置かれた環境が不快であるのは、自分の心と複合する自分の感覚界(知覚〜五感)と自分の置かれた環境が大きく食い違っているためである。例えば、数学の好きな人が医学部に行っても、その人の頭の中は数学の知識ばかりなので、医学の世界と縁がなく、自分が自分の置かれた環境から締め出されたようになり、自分のこれまで活動していた知覚が働かなくなるので自分の心も働かず、人間としての喜びを失って落ち込む。一方、親が医者の者は、医学の知識があるので、医学部に行っても医者をやっても、知覚が働くので、知覚と複合する心も活動でき、人間としての喜びを持ち続けることができるのである。
だから、自分の親か親戚かが医者をやってない者が医学部に行くな!躁鬱気質の者は、自分の心にとらわれているので、ちょっとお金がもうかるとか親に孝行できるとかでいい気になって、医学部に行こうとするが、そもそも自分に適性(自分の感覚界と自分の環境が一致していること)がないのを見失っていて大失敗をする羽目になる。医学部にいって心が落ち込んでも、どうして自分の心が落ち込むかが理解できずに、そのままガムシャラに勉強し続けてますます事態が悪化する。人間20ぐらいになれば、そうやすやすと自分の感覚界を変えられるものではない。『80の手習い』とは言うが、遊びとしての学問はできても、仕事としての学問は到底無理である。それに、勉強したくてする学問は、多かれ少なかれ自分の感覚界と勉強しようとすることが一致しているからであり、まったくの無知ではやはり務まらない。ガムシャラにやるだけでは、骨折り損のくたびれもうけだ。人生を無駄にしてはいけない。
分裂気質では、五感が知覚と心を支配しており、
躁鬱気質では、心が五感と知覚を支配している。
分裂気質の者が五感で興奮しすぎて(五感の意味で不愉快になりすぎて)、五感が過敏になって分裂病になるように、
躁鬱気質の者は心で興奮しすぎて(自分の環境を不愉快に感じすぎて。不愉快に思うのも興奮の一種である。)、心が過敏になって躁鬱病になる。

分裂気質の者は、五感が知覚と心を支配しており、言葉の意味は五感にある。つまり、言葉に対応する自分の視覚的聴覚的イメージがそのことばの意味になるのである。
躁鬱気質の者は、心が知覚や五感を支配しており、言葉の意味は心にある。つまり、言葉に対して心で感じる快不快感がその言葉の意味なのである。
本来、言葉の意味は知覚にあり、五感のイメージから要らない部分を捨てて洗練して出来たイデアが、言葉の意味にほかならない。
人間には、知覚、五感、心の3つの認識の中枢があり、
知覚優位型は普通の正常な人間であり(これもひとつの精神病型)、
五感優位型は異常な分裂気質であり、
心優位型は異常な躁鬱気質である。
実在に適応して最後まで生き残るのは、実在がよく見えている知覚優位型の者だけである。

ちなみに、神経症は、正常な人間の中に潜んだ局所的限局的な分裂病だと言える。
神経症では、性が問題になることが多いらしいが、そもそも性感が五感だから、性器の意味が五感的なのだろう。
ドイツ人の感覚が現象的なのも、名詞に性の区別があるせいなのかもしれない。
第一どうして、生物ではない物体が男になったり女になったり中性になったりするのか?そんなの、ただのイメージでしょうが!ここにドイツ人の五感に対する強いこだわりがあるのだ。そんなドイツ人の中にも理論的な者がいるのがこれまた不思議だ。数学用語には性の区別がないからか?それなら、ドイツ語から性の区別をなくしましょう。そうすれば、ドイツ人の感覚がもっと知覚化されるだろう。
最近、分裂病が‘統合失調症’と改名されたが、これでは言葉の中身がはっきりしないので、いい名前ではない。『躁鬱病』と言う名前がこの病気の本質が心にあるのを明示しているように、分裂病の本質は五感の非実在性にあるのだから、『現象病』と名づけて、現象と実在の違いを強調したほうがよい。

どうして幻聴が聞こえるのか?☆ h14.11.10
知覚は自分ひとりの頭の中で考えることだが、五感は他人のことを見聞きすることである。
そもそも五感には、他人の思考そのものを聞く能力(第六感とも言う)がある。
分裂気質で五感の興奮が高まりすぎると、他人の思考そのものがはっきりと聞こえるようになる。
他人のことがわかりすぎると、自分が他人に従属せざるを得なくなる。
反対に、知覚を働かせると、自分が自分の頭の中で独り考えるだけで、自分の考えに照らしながら他人の発言や態度を見ることになる。自分のことがわかりすぎると、他人が自分に従属せざるを得なくなる。
子どもだって、自分の知覚で考えながら他人を見ているから、自分の知覚の感覚が他人からの幻聴の感覚よりも強いので、他人からの幻聴が(相対的に)聞こえないのだ。
五感を興奮させすぎて五感が過敏になると、他人からの幻聴が自分の知覚の感覚よりも強まるので、他人からの幻聴のほうがよく聞こえることになる。
だから、幻聴を聞こえにくくするためには、自分が言葉で考えて自分の知覚の感覚を強めるしかない。人間には感覚の強いほうの感覚が感じられるのだから、知覚の感覚(自分の思考)が幻聴の感覚よりも強くなれば、もはや幻聴は聞こえないのと同然なのだ。

△『人間は生きていたいから生きているんじゃない。』 h14.11.10
自分は親に頼んで産んでもらったんじゃない。
だから、自分はそもそも生まれたくて生まれてきたんじゃない。
だから、自分は今も生きたくて生きているんじゃない。

つまり、「生きたいから生きる」は成り立たない。
一般に、心主義は成り立たない。
実際には、自分が生まれたかろうがなかろうが、
自分が生きていたかろうがなかろうが、
とにかくこの世に人間として生まれてきた以上、
人間として生きていくしかない。
なるべく幸福にはしたいけど、
行き着く先が幸福だろうが不幸だろうが、
人間としての自分は人間であり続けねばならない。
自分が生きたくて生きているんじゃない以上、
自分が生きようが死のうがどうでもいいことだ。
自分はただ人間でありさえすればいいのだ。
つまり、言いたいことは、
人間としての自分にとっては、自分の幸福や不幸を考えるよりもまず、
自分が人間であることを考えるべきなのだ。すなわち、
『幸福な動物よりも、不幸な人間のほうがいい。』


どうして“躁鬱病は知覚が狭い”のか? h14.11.10
躁鬱病者は心主義である。
自分が本当におもしろくてわかることなんかめったにない。
だから、躁鬱病者は、知覚が狭いのだ。
実在への適応を広げるには、自分の心を知覚に従属させねばならない。
それがなければ人間進歩がない。

チャット
昨日の朝CSのアンテナに雪が積もって衛星Aのファミリー劇場が見えなかった。
衛星BのAT−XとANIMAXは見れた。今のところ、ファミリー劇場でおもしろいのは“宇宙戦艦ヤマト”しかない(明日から放映)。これ終わったら、他のチャンネルに変えようかな。

お答え:高校1年生のとき市内の精神病院で診てもらって、薬をもらったことがありますが、入院したことはこれまで一度もありません。

七人のナナ11.13
七人のナナ#23
ナナと裏ナナが入れ替わろうとした瞬間、思わず興奮してしまった。

七人のナナを見て考えたこと
人間は五感の道ではなく、知覚の道を歩むべきだが、
若いときの私はそうしなかった。
この矛盾はどのようにして解決されるべきか

人は何のために勉強するか、と言うことだ。
正解は、
自分が人間であるから・人間であるために勉強するのだ。


パステルユーミ
ペルシャやエミでは、“少女の子どもから大人への成長”を描いてきたが、
パステルユーミで描こうとしたことは、
“子どもと大人の間にあるどうにもならない溝”ではないだろうか。

第19話『花びらのステップ』なんか涙なしでは見られない。
ユーミって、結構悲しいお話なんだね。(あいも変わらず失恋話)

チャット11.14
兵庫県にいるよ。

アニメ
アニメは独りっきりの楽しみではない。
テレビと言うメディアを介する作り手と受け手の心のキャッチボールなのだ。

七人のナナ#24
お邪魔ナナがかやのさんと入れ替わろうとした瞬間、またしても興奮してしまった。


人はどうして精神病にかかるか。(ヤフー掲示板から来られる方が意外に多いのに応えて)
心主義で生きているから躁鬱病にかかる。
五感主義で生きているから分裂病にかかる。
知覚主義で生きているから人間になる。

昔、ハインロートは『分裂病は理性の喪失である』としたが、
理性とは、言葉がはっきりしていることだから、
つまり、理性の喪失は知覚の喪失なので、
分裂病は五感主義ということになるのだ。

アニ11.15
七人のナナ#25(終)
小野寺瞳の鱧屋(はもや)って、京都らしく“間の抜けたお高ぶりバカ”やなあ。(京都に生まれたことしか取り柄がないんか。)

私が『七人のナナ』を見て最も考えさせられたことは、
“人は何のために勉強するか”と言うことだ。
ナナも神近くんも恋のために勉強するようなバカやから、
つまり五感の欲望のために勉強するような下賎なやつらだから、
志望の高校に合格する資格なんかない。
人間は“自分が人間として生まれたから”勉強するようでなければならない。
たとえ自分が幸になろうが不幸になろうが
人間として生まれたら人間として生きるしかないのだ。

君は七人のナナの中で誰が一番好きだった?
私はナナッペでした。
笑っても泣いても、いつも怒った顔をしているところがたまらなく変でおかしいからだ。


気質と病気 h14.11.15
躁鬱病でも分裂病でも
実在とのつながりがあるうちは気質(きしつ)で済むが、
実在とのつながりが切れると病気になる。
つまり、たとえ五感主義であっても、ある程度実在を受け容れているうちは分裂気質の人で済むが、
実在を否定してまで自分の五感を肯定するようになると、実在と認識(知覚、五感、心)とのつながりが切れて、五感が知覚と心とを支配するようになって、立派な分裂病者になる。
同様に、たとえ心主義でも、ある程度実在を受け容れているうちは躁鬱気質の人で済むが、
実在を否定してまで自分の心を肯定するようになると、実在と認識とのつながりが切れて、心が五感と知覚を支配するようになって、立派な躁鬱病者になる。
五感主義も心主義も、実在においては成り立たない。それを無理やり成り立たせようとするから、病気になるのである。
実在において成立するのは、実在主義≡知覚主義だけである。

チャット
アクセス解析を採ってみてわかったことだが、私のホームページに魔法少女関連で来る人は全然いない。/なく、みんなヤフー掲示板の“3分でわかる鬱病”や“3分でわかる分裂病”を見た人ばっかりだということだ。

アニ11.16
宇宙戦艦ヤマト#1〜#5
30年ぶりに見れた。

懐かしいどころか、あまりにも昔なので忘れてしまっていてかえって新鮮。
死ぬまでにもう一度見たいと思っていた。
30年後に実現するとは。
自分がこんなになるとは思わんかった。
#2大和の歴史がすごい。
#3が一番感動した。ヤマトが発進するのに3話もかかって遅い!
ミンキーモモの芦田豊雄が作監やってるの知らんかった。
相変わらずもったいつけて予告が出んなあ。
ちょうど『七人のナナ』が終わったところだし、
来週からは月から金まで毎日30分づつ見ることにしよう。

http://vote2.ziyu.net/html/niconico.html

http://www.h3.dion.ne.jp/cgi-bin/chat/jituzai/1/

知覚のトレーニング
(私の場合、コクヨの100枚の大学ノート88冊を費やして哲学を考えた)

テ 
精神病の原因は哲学の無知にある。 h14.11.17
精神分裂病や躁鬱病は、
“学校で哲学(認識についての知識)を教えない”ことによる
哲学についての無知や誤解によって起こる。
正常人は知覚≡実在(本当は、知覚≒実在)を肯定している。
行き過ぎた五感の肯定が分裂病で、
行き過ぎた心の肯定が躁鬱病である。
1+1=2であって
1+1=1や1+1=3でないように、
正しい哲学は実在主義≡知覚主義しかないのだ。
倫理とは他人の思想を学ぶことではなく、
正しい哲学を考えることである。

躁鬱病について h14.11.17
人間には感覚の強いほうの感覚しか感じられない。
自分が苦手なことに出くわすと、
知覚が働かないで
心が不愉快になるばかりだから、
心の不快感が知覚の感覚よりも強まるので、
心の不快感だけが感じられることになる。
例えば、私の場合、
苦手な医学部にいたときは、
私の知覚の中には医学のイデア(概念)がなかったので、
医学に対する心の嫌悪感だけが強くて、
医学について知覚で考えることができなかった。
そうなっちゃうと、もはや
私にとっては
医学に対する嫌悪感だけしか感じられないのだ。

私には医学のイデアの素になる医学のイメージ(五感的経験)がなかったので
医学を知覚で考えることができなかったのだ。
反対に、自分が得意な(イデアを持っている)ことをやっているかぎりは
自分の知覚がよく働くので、
多少自分の心が不愉快であっても、
自分の知覚の感覚が心の感覚よりも強いので、
自分には自分の知覚だけが感じられて
自分の心の不快感は感じられないのだ。
オイラーが自分の虫歯の痛さをこらえるために
数学の研究をしたことはあまりにも有名なエピソードである。
それが、人間として生きているということなのだ。

チャット
天帝ユタについて>天帝ユタさんは精神分裂病を薬や道具を使って治そうとしていますが、私は『精神病の原因は哲学の無知にある。』と考えているので、天帝ユタさんの方法は対症療法にすぎないと考えます。精神病を治すためには、いくら人間の身体をいじっても無駄で、人間の思想の奥底にある間違いを直さないといけません。天帝ユタさんとは一緒に研究できそうもありません。(それにしても、天帝ユタさんの言葉の使い方が私に似ているように思いました。やはり同じことについて考えていると同じイデアを持つようになるので、言葉使いも似てくるのでしょう。)

ミンキーモモ(林原)#59『夢に唄えば』
ズデニックが「小さいころからの夢をかなえるために…」と言うシーンがある。
私にとってはわからないことだ。
夢が実在よりも先にあるなんてことが。

私には小さいころから夢なんてなかった。
ただ実在を知ることに一生懸命だった。夢なんて二の次だ。
実在の中で自分がやりたいことをやるのだ。
(高校生のときに、つまづいて実在の外に出てしまったが。)
実在を知ることが第一だから、私は実在主義者だ。
ミンキーモモの世界は私が知らない世界観だ。
ミンキーモモの世界は心主義の世界である。

こいつらいったいどういう生き方をしとるんや?
私と違いすぎて、さっぱりわからんわ。よく無事に生きておれるなあ。
首藤剛志が博多っ子だから、心主義の文化で育ったので、心主義なのだろう。
畑正憲もそうだ。おめでたいやつらやなあ。
でも、実在とのつながりがあるかぎり、多少変ではあっても病気ではないのだろう。
一方、ぴえろ魔法少女の世界はリアルでニヒルだから知覚主義≡実在主義の世界である。私にとっても、わかりやすい。
心主義者がある程度は実在を受け容れないと生きれんように、いくら知覚主義であっても自分の心のことを考えねば生きて行けんし、とにかく人間単細胞ではいかんちゅうことや。
ミンキーモモとぴえろとは絵のコンセプトは似ているが、モモは心主義でぴえろは実在主義だから、背後にある思想はまったく異なっている。
また一方、アニメそのものは絵だから五感主義(現象主義)である。
絵描きは五感主義者なのだ。

でも、いくらマンガ家でも実在とのつながりが切れてしまったら、やはり生きられない。
心主義者や実在主義者や五感主義者が集まって、いろんな主義の人が協力し合って出来ているのがアニメなのだ。


哲学第一原理について h14.11.17
脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する。
ゆえに、脳細胞が神経興奮しなければ感覚は発生しない。つまり、自分に感じられない。
実在自体は、脳細胞が神経興奮する前だから、自分には感覚できない。
自分に感じられるのは、実在から反射された光が網膜に入って視細胞を興奮させて、そのインパルスが視神経を経て大脳後頭葉にある脳細胞を興奮させて感覚が発生してから後である。
たとえ五感が実在について間違っていようとも、五感が脳細胞の神経興奮で発生する以上、五感はいやがうえにも感覚されることになる。
知覚についても、ただ知覚を荷うべき脳細胞があるだけで、知覚を荷う脳細胞が活動(=神経興奮)しなければ、知覚の感覚は生じない。
つまり、五感について考えることがなければ(=脳細胞を神経興奮させねば)、いつまで経っても実在を感じることができず、実在が見えてこない。
自分が実在を見るためには、自分の知覚を活動させて五感の間違いを修正しなければならない。

チャット
もちろん、天帝ユタと私とは別人です。(ニックネームのセンスが天帝ユタとニコニコセブンでは大違い。)


デカルトの本 h14.11.17
‘方法序説’が有名だが、あまりいいことが書いていない。
それよりも、‘省察’だったかな、脳のグロテスクな絵がたくさん載っている本のほうがデカルト哲学の本質(つまり、『脳において感覚が発生する』と言うこと)がよくわかる。(もちろん訳本で)
私も医学部の図書館で、毎日お昼休みに書庫にこもって読んだ思い出がある。
解体新書の世界に3冊しかない本も見たことがある。

アニ
宇宙戦艦ヤマト74・10・6〜75・3・30オフィスアカデミー
今から28年も前の作品なのに、作画がしっかりしている。
某アニメ誌では作画がボロいと評していたが、当てにはならない。私が見たかぎりでは、現在のアニメと見比べても勝るとも劣らないと言える。
あのマジンガーZが72・12・3〜74・9・1の放映だから、
マジンガーZとほぼ同年代の作品だと言える。
とくにヤマトのデザインがいい味を出している。
日本人の感性をくすぐってやまない、機能美の究致だと言えよう。
松本零士のマンガは「男おいどん」とか「轍(わだち)」とか「鉄の墓標」とか小学生のころから読んでいて、画風が好きだったんです。
ただ、「銀河鉄道999」がなんとなく嫌いで、それから後のは全然知らない。
それにしても、
波動エンジンが光子をタキオンに変換する装置とは知らなかった!
波動砲が、タキオン粒子のビームだとは知らなかった!!
子供のときに見たはずだが、‘タキオン’が何のことだかさっぱりわからなかったと見えて、まったく何の記憶もない。
ただ、真田さんが説明した‘アインシュタインの閉じた宇宙’の話だけは憶えていた。(真実かどうかは定かではないが。)
入る時空間の位相と出る時空間の位相とが一致しないとできない
ワープの瞬間には、緊張せずにはいられなかった。
われわれは、いわば時空間の海に住んでいる魚で、
魚が空や陸の空間を知らないように、
われわれは、まだ時空間の外にある空間を知らずにいるのだ。
われわれの経験も知識もまだ実在の宇宙について、ごくかぎられたものでしかないのだ。

ペルシャ
数ある魔法少女の中でも、
少女アニメ全体を見渡しても、
ペルシャにだけ美感がある。
モモや香月舞では美が足りない。

絵であるかぎりは
美を目指さなければならないのだ。

ペルシャ
絵の出来はエミが上だが、キャラデザではペルシャのほうが上だ。

テ11.18
哲学第一原理について h14.11.18
『脳細胞の神経興奮によって感覚が発生する』
したがって、自分に感じられることはみな自分の脳細胞の活動(=神経興奮)によって発生した感覚なのである。
したがって、自分の眼で見えること・耳で聞こえることは、実在そのものではなく、すべて自分の後頭葉・側頭葉の活動にほかならないのである。自分に見えること・聞こえることは、自分の大脳皮質で発生している感覚であって、実在じたいではないのだ。
自分がイデアで考えることは、自分の大脳皮質の知覚野(頭頂葉)の活動である。
自分が心で思うことはすべて自分の大脳前頭葉の神経興奮で発生した感覚にすぎないのだ。

人は何のために勉強するのか? h14.11.18
試験でいい点を取るためにするのではない。
知覚をトレーニングし、知覚の感覚を強めるためだ。

幻聴 h14.11.18
何も考えなくても心臓や肺は動いている。
自律神経系がコントロールしているからだ。
しかし、神経系である以上、何らかの感覚はあるはずだ。
それが感じられないのは、人間が大脳で他のことを考えているからである。
人間には感覚の強いほうの感覚しか感じられない。
いくら自律神経系で感覚が発生していても、
大脳でそれより強い感覚が生じていれば、
大脳での感覚しか感じられないのだ。
つまり、人間にとっては、
大脳での感覚が‘意識’で、自律神経系での感覚が‘無意識’ということになる。
同様に、知覚が五感より感覚が強ければ、
知覚が意識で、五感が無意識となる。
精神分裂病では、五感が知覚より感覚が強くなる。
分裂病者にとっては、五感が意識で知覚が無意識となる。
そのとき幻聴が聞こえる。
ということは、
ふつうの人でも、本当は五感でつねに幻聴が聞こえ続けているのではないか。
五感にはそもそも他人の思考を眼や耳を介さなくても知る能力(いわゆる第六感)があるのではないか。
☆すべての人間に幻聴(テレパシー)の能力が備わっている☆のではないか。

人間以外の動物には五感しかないから、
いわば分裂病のモデルであり、
動物には人間が無意識の奥に押し込んで忘れていた特別な能力があるのではないか。

『幻聴は感覚波の存在を実証している。』私の哲学日記を読んでくれたまえ。

永久機関は量子力学を使っても作れないものだろうか。

ペルシャ
ペルシャが髪が長くてスマートで美少女だから、
魔法の妖精ペルシャの絵には美があるのだ。

△黒い穴 h14.11.19
発狂寸前に敵(憎い相手)の頭の上に‘黒い穴’が見えることがある。(実際、私には見えた。)
黒い穴で思い出すのは、
子供の頃に読んだ『なぞなぞ大百科』(?)の
黒字に白抜きの十字路に‘黒い丸’がぼんやり見えたことだ。
黒い穴にしろ黒い丸にしろ、
実在しないものが五感では見えるのだ。

チャット
数学とか英語とか、大人が子どもにどうでもいいことしか教えないのは、一種の‘いじわる’だとは思いませんか。

うちゅう戦艦ヤマト#7
今日なんか子供が泣きながら見ないといけなかったかもしれない。
しかし、私のようなおじさんにとっては最終回まですべてネタばれなのだ。
それにしてもおもしろい!
箸を動かす手も止めてテレビにかじりついて見ないといけない。

実在哲学では、統合失調はすでに解決している。
統合失調には、‘知覚非従属性五感’とか‘色’とかの概念(イデア)が有効である。[哲学日記に書いた。]
つまり、知覚非従属性五感とか色とかのイデアがわかれば、統合失調なんか問題ではない。
統合失調(とくに幻聴)の認識における位置づけはこれでいいが、
幻聴の実体は、真空中の感覚子の振動(加速度運動)によって発生した感覚波としてとらえられる。だから、感覚波を吸収するか遮断するかすれば幻聴は聞こえなくなるはずである。

h14.11.20
うちゅう戦艦ヤマト#8
なんだかあっけなかったね。
次回を期待しよう。
アニメとは、
おもしろいと期待して見るとつまらなく見え、
つまらないと期待して見るとおもしろかったりする。

そういうもんだ。


双対性(そうついせい) h14.11.20
知覚非従属性五感は色と言い、
知覚非従属性心は煩悩と言う。
(色の実体は光の波長であり、色は五感の上だけしか存在しない。)
知覚非従属性五感のイデアがわかると分裂病にならない。
知覚非従属性心のイデアがわかると躁鬱病にならない。
このように分裂病と躁鬱病とは五感と心とを入れ替えたものにすぎず、
分裂病と鬱病の間には双対性がある。
五感や心を知覚に従属させることが人間にとっての善なのである。


分裂病と躁鬱病まとめ h14.11.20
ひとことで言えば、
分裂病とは五感が過度に活動(=神経興奮)している状態であり、
躁鬱病とは心が過度に活動している状態である。
一方、正常の人は知覚が五感や心よりも過度に活動している。

私の場合 h14.11.20
小さいころに日蓮宗のお世話になったから(私の名前とも関係がある)、
小さいころから心が実在に従属しないといけないことはわかっていた。
実在の中でおもしろいことをすればいいのだ。(だから私は躁鬱病にはなりにくい。)
しかし、眼で見える世界が実在ではなく五感にすぎないことに気づいたのは、私が哲学第一原理を発見した28歳のときだった。それまでの私は、眼で見える五感の世界をそのまま実在だと考えていた。私はこの点で考えが足りなかった。(そのために私は分裂病になってしまった。)
大トロや。

チャット
脳死が死なら、痴呆は人間ではない。知覚の働かない者は人間の本質としての知覚を失っており、もはや人間とはいえないからである。そこで、安楽死法を実施して欲しい。私は保険に入っていない。だから定年までに安楽死法ができていないと困るのだ。


私の親は公務員で、私が小さいころから辛そうに働いていましたから、私は仕事というものが嫌いでした。だから、将来自分がなりたい職業について全然何も考えませんでした。仕事のない社会になればいいなあと思っていました。

天帝ユタ様へ>感覚波とは、幻聴を媒介する実体として考えたものです。電子の振動で電波(=光)が発生するように、感覚子の振動で感覚波が発生し、それが他人の脳に干渉して感覚(ここでは幻聴)を生じるのです。もっとも、‘感覚子の振動’と言ったのは、眼で見えてわかりやすいように言ったまでで、本当はよくわかりません。ただ、自分の感覚と他人の感覚とをつなぐものが欲しかったから、感覚波と言っただけのことです。

天帝ユタ様へ>「麻雀対プリノート」は理解できましたでしょうか?

獅子堂光(魔法騎士レイアース)

11.21
うちゅう戦艦ヤマト#9
今回は完全にガミラス側に回っちゃいましたね。
俺もこんなかっこいい死にかたをしてみたいなあ。

自分が今生きているのが不思議に思えた。

精神病も、よく寝れば治るというのなら、風邪と変わりませんよね。

うちゅう戦艦ヤマト#9
『シュルツ最高!!』
戦場、そこは生きるも死ぬも紙一重の世界…
人間として生きることは、時には死をも覚悟しなければならない。
今君のいるところも戦場なのかもしれない。


天帝ユタさんって、医師免許持っているのかな?

ヤマト#10
ショックカノンの反動するところも身震いするようないいカットだった。
                涙が出そうになる

11.22
うちゅう戦艦ヤマト#10
これまでのヤマトの雄姿、かっこよかったね。
反射衛星砲を見たときは、
手を握り締めて「実感」と叫ばずにはいられなかった。
ビームが折れ曲がるところがかっこよかった。

松本零士のかっこいいキャラと言えば、
古代進タイプか森雪タイプしかない。
キャプテンハーロックは古代タイプだし、
メーテルは森雪タイプだ。
ヤマトではSFの奥に男おいどんがあった。
スリーナインから後は空想が強くなりすぎて実感がなくなってしまった。
私がはじめて松本零士のマンガを読んだのは、
私が小6のとき入院して母親が病院のそばの小さな本屋で勝手に買って来てくれた
「男おいどん第2巻」だった。
他に「デビルマン第2巻」と学習漫画「死の砂漠を行く」もあった。
この頃のマンガは、話の内容がドロドロしていて情緒深い。
松本零士のマンガの絵もドロドロしていて情緒豊かだ。
ヤマトでは、SFのメカニックの乾いた感じと松本零士のドロ臭さが折衷されていて大変おもしろい。
最近のSFアニメはたんなる絵の上のおもしろさだけで、無味乾燥したものが多いが、さすがに70年代のアニメだけあって、
“ヤマトにはロマン(ワリキリじゃなくて、トロ〜ンとしたあま〜い感じ)がある”からいい。
心に余裕があるというか、未来があるというか、最近のアニメって忙しすぎて余韻がないんじゃありませんか。

ヤマト#9
『シュルツ天晴れ』
ひさびさに目を醒まさせてもらったぜ。
自分が生きているのが当たり前の日常では気づかなかったことが見えた。
自分の人生が危険な綱渡りで、
ちょっとでも間違えれば、すぐに死につながるのだ。
宇宙における人間の存在も脆いものだということを。


今度幻聴が聞こえなくなるいい方法が見つかったら、ぜひ私にも教えてください。

幻聴は聞こえまいと思うから気にしてますます聞こえるのであって、聞こえていいと考えれば気にはならないものです。問題は、幻聴という情報を認識の中のどの部類に属するか分類して(じつは知覚非従属性五感に属する)、そこに放り込むかと言うことなのです。

天帝ユタさんは精神科医なんですか。私も医者をやってた頃は精神科医でした。

大鳥居つばめさんへ>ファミリー劇場で『宇宙戦艦ヤマト』が見られてとてもうれしかった。

11.23
2002年12月
●AT−X
スイートミント 2話に1話はおもしろい
東京ミュウミュウ 黄歩鈴がアラレちゃんみたいでおもしろい キャラが増えると一人一人の存在感が薄くなるので嫌だ
バトシーラー やっぱりウエーブ・ライトがおもしろい 
モンコレナイト ろくな・もん・じゃねー 「コイてしまった」
南海奇皇ネオランガ そろそろ虚神ミナカタが出てくるぞ 
ベムベムハンターこてんぐテン丸 強烈な田舎気に圧倒される オケラが草の根を食べて生きているなんて、虫のことに詳しいぞ
さすがの猿飛 女の子がかわいいぞ
●ファミリー劇場
宇宙戦艦ヤマト 男の生き様が描かれている ここには忘れかけていた‘ロマン’がある 
●アニマックス
超時空要塞マクロス とうとう地球に帰ってきた  
未来少年コナン 話も大詰め 来週は見逃せないぞ
ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット でじこの声がかわいいにょ

チャット
私が見た宇宙戦艦ヤマトはガミラス星で硫酸の海に潜ったヤマトです。ほかのヤマトは知りません。見ても無駄なくらいおもしろくなかったと憶えています。ヤマトの最後は自爆するのですか?知りませんでした。ワープの入る空間と出る空間の位相を違わせれば、小宇宙が消滅するくらいの威力はあるでしょうね。

ヤマト#9
『シュルツ万歳!!』
もはや敵も味方の区別もない。
軍人としてのシュルツのとった態度はまさしく正義なのだ。

地球人のほうが間違っているかもしれない?
科学力を笠に着るならガミラスと同じだ。
けっきょく、力の強いほうが正しいってことか?
しかし、正義とは知覚が強いことであって、筋肉が強いことや戦争だけが強いことではない。戦争は相手を殺す技術であって、実在を知る科学とは違うのだ。
『知覚の弱い者は強い者に従属し、知覚の強い者が弱い者を支配する。』
それを守らねば人類は成り立たない。
宇宙の秩序はこれしかない。宇宙における知的生命体の採るべき原理はこれだ。

宇宙戦艦ヤマトは28年前私が小学4年生のときテレビで見たことがあります。土曜日の夜7時から4チャンネル(高知放送)でやっていました。(裏番は、12チャンネル(テレビ高知)の『猿の軍団』でした。チャンネル権は長男の私が握っていましたから、全話見れました。)以前からもう一度見たいと思っていたのですが、なかなか再放送がなくてこれまで見れませんでした。運良くCSで再放送が始まって、本当によかったです。画力は今のアニメより上か下かわかりませんが、とにかく絵にロマンがあります。毎回濃い内容で、これ以上感動するアニメはほかにありません。


どうして私は五感が現象であることに気づかなかったか? h14.11.23
私は五感が実在ではなく感覚であることに気づくまでに28年もかかった。
一方、心が実在に従属しなければならないことはほとんど生まれつきわかっていた。
それは、私の父親が‘煩悩’(心≠実在)の概念は知っていたが、‘現象’(五感≠実在)の概念は知らなかったからである。
実在の中で楽しんでいるつもりが、じつは現象の中で楽しんでいたのだ。
私の父親も、その父親も、そのまた父親も、みなことごとく現象の概念を知らなかったのだ。
かのデカルトが「我思うゆえにわれ在り。」(つまり、人間の認識はすべて大脳の上で行われている。)と言って、五感が現象であることを訴えてくれたのに、その意味がわかった者はほとんどいなかった。
人が出世できるかどうかは20才までで決まる。
子どもは親を見て育つ。
親の考えが足りなければ、子どもは一生出世できない。そういう運命にあるのだ。
この私が出世できかったのは、親が悪いからだ。どうしようもない。これは運命なのだ。

安楽死法を国会で
認めて欲しい。
定年で死ねば貯金は要らない。


朝聞道、夕死可矣

☆魔法の妖精ペルシャに期待すること
このごろ『魔法のエンジェルスイートミント』を毎週見ています。
背景は少し暗くて曇っているけれど、
そのぶん表情がハイで、話もくだけていてけっこうおもしろい。
先週見た赤ちゃんをスプーンであやすところなんかがとくによかった。

それに較べて、ぴえろの魔法少女は慎重になりすぎて話がまじめすぎる。
キャラクターは明るくていいんだから、
日本テレビのおもしろまじめ路線を抜けて、
テレビ東京のようなくだらないおかしい話でもういっぺんやってほしい。

△魔法のエンジェルスイートミント
90・5・2〜91・3・27
CSでみて大好きになりました。
絵がくだけていてやわらかくておもしろい。
ぴえろの絵はきれいだが硬くてつまらない。
話も魔法で何でもありで自由奔放で楽しい。
ぴえろは魔法を軽蔑していて堅苦しい。

安楽死について(1)
自分がいいときに死ねるんやったら便利でええやろ。
保険に入らんでええし、貯金もいらんやろ。

なにも強制するんじゃねえ。
自分で死にたいやつだけ死ぬのを認めるってこった。
死ぬのが嫌なやつは、自分の貯金で生き延びたらええ。
それで文句あるやついるか。

安楽死について(2)
医学が進んで寿命が延びるようになったが、
定年は変わらん。
若いときの病気は治るが、老人の病気は医者でも治らん。
治らん病気になんぼお金出しても絶対治らん。

なんぼ貯金しても治らんものは治らん。
だったら貯金がなんぼのもんや。
ボケて医者に騙し取られるだけや。
そんなに病院のベットの上でウンウンうなりたいがか。
それのどこが幸せやちゅうねん。
治らん病気は治らんから、ウンウンうなるしかない。
寿命が延びたらそれだけ痛い思いをするのが長引くだけや。
はよう死んだほうが楽でええわ。

安楽死について(3)
老人が増えすぎたら社会が崩壊するわ。
遅かれ早かれ安楽死は認めんといかんわ。

未来の日本はどうせそうなる。
人間生きたいから生きとるんやない。
それやったら親に頼んで産んでもろうたことになるからや。
自分が生まれる前にどうやって親に頼むんや。
そんなのできん。
人間が生きておるんは人間であるかぎりや。
知覚が働くかぎり人間なんや。
知覚が働かんなったらただの肉で出来たガラクタや。

ボケ老人は早く死ねと宇宙が言うとる。
人間が自分勝手にルールを作ったらいかん。
いくら身体が生きてても知覚が働かんなったら人間やない。
人間やない者が人間として生きているわけにはいかんのや。

安楽死について(4)
自分が生きるのが自由やったら死ぬのも自由やろ。
出世せんかったら、人生つらいだけや。
死ぬまでずーーーーーーーーーーーーーーーっと不愉快なだけや。
かわいそうやろ。
なんぼ知覚が働くのが人間やいうたかて、
心を満たすことができんでは実際苦しいわ。
人間は知覚が働くだけやのうて、
自分の心を満足できてこそ人間なんや。
そんなら無理に生きているんやのうて
死ぬのが選択できるように広げたらええ。
それも実在における行動のひとつや。
そう考えるべきや。
自分で死にたい者は死なすのが正しいんや。
そうせんかったら人生拷問やんか。

安楽死について(5)
問題は死ぬときの痛みや。
これさえなかったらとっくに死んどる。
それぐらいのことやったら今の医学でも簡単なことや。
医者はもったいぶらんと、さっさと人殺しをせえ。
治す面倒がいらんき、楽でええやろ。
生きたいもんだけ生きとったら、世の中楽しくてええやろ。


宇宙戦艦ヤマト
アニメは日常生活では経験できないことを経験させてくれる。
人間は死ぬものであると言うことをヤマトが教えてくれた。


他人の本を読むことと自分で考えること h14.11.24
他人の本を読むことは、他人の認識界を知ることであって、実在を知ることではない。
間接的な情報に頼っていては、要領がいいだけで、はっきりした認識を持つことができない。
実在を知るためには、自分ひとりで考えねばならない。

認識についての五感的定義と知覚的定義 h14.11.24
見るものと見られるものとがあるのは、認識の五感的定義だ。
認識の知覚的定義は、脳細胞の神経興奮で感覚が発生することだ。

例えば、夜見る夢では、見られるものがないのに感覚が発生する。
それは、脳細胞が勝手に興奮するからだ。

葦プロとぴえろの絵
葦プロの絵はかわいい。
ぴえろの絵はきれいだ。
葦プロの絵は情緒的で、
ぴえろの絵は知的だ。
どちらの絵も一長一短。

11.24
海モモ
夢、夢って言うけれど、
大きなお城に住んで毎晩舞踏会でもしたいのかい?
実現できないとは言わないけれど、実現したからといってそれが何なんだ?
幼稚すぎてくだらない。(五感の上の夢ばっかり。)
野球選手になったからって、(お金はもうかるかもしれないけど)箱庭の中で作りごとのお遊戯をしているだけじゃないか。社会の発展に何の寄与もしない。
日本社会が幼稚じみてくだらないのも、小さいときから心中心に考えるからだ。
子どもは、大人ぶって自分の夢のことなんか考えたりせずに、子供らしく実在の世界についてひたすらに勉強しなさい。(大人は実在について知っているから、実在の中で夢を考えてもよいが、子供はまだ実在の世界を知らないから、早々と夢を決めてしまってはいけない。)

●スタジオぴえろに期待すること
ぴえろは絵も話もまじめすぎて堅苦しい。
アニメに実在的内容を盛り込むのはいいけれど、
もっと楽しいムードの中でやってくれ。
たのむ。

アニメは空想・現象と実在の混合体であり、
空想・現象と実在とは飴と鞭の関係にある。
アニメに実在的内容を取り入れて教育的効果を高めるのはよいが、
表に出すぎるとマンガ的な楽しさがなくなる。
表は空想・現象で、裏に実在的内容を含ませているのがいい。
話と絵の両方とも堅苦しいと誰も寄り付かない。
脚本が堅苦しいなら、せめて演出や作画は精一杯やわらかく楽しいものにして欲しい。
楽しい絵を通して硬い話の内容にまで迫りやすいようにしてもらいたい。
話はまじめ、絵はおふざけであるのがいい。
そのほうが子どものためになるはずである。(大人にとってもそのほうがいい。)

●空想と現象と実在
空想は五感にも知覚にも縛られない。
空想は楽しいものでなければならないから、心に近い、心そのものの表現と言えよう。
空想は心、現象は五感、実在は知覚が担当する。

アニメにおいては、魔法や巨大ロボットが空想だ。
現象は絵としてのかわいさ・きれいさ・かっこよさだ。
実在は話や絵の‘まともな部分’ということで。

ミントの甘えっぽいところが大好き。

●ミントと海モモの比較
☆ミント 90・5・2〜91・3・27 製作テレビ東京・読売広告社・葦プロ 放映テレビ東京 監督大庭寿太郎 作監はばらのぶよし・都留稔幸
☆海モモ 91・10・2〜92・12・23 製作日本テレビ・読売広告社・葦プロ 放映日本テレビ(ちなみに旧作はテレビ東京) 監督湯山邦彦 作監芦田豊雄・渡辺浩
ついでに、
☆花の魔法使いマリーベル 92・2・3〜93・1・18 製作テレビせとうち・ビックウエスト・葦プロ 放映テレビ東京 監督遠藤徹哉 作監大貫健一・金津賀哲
ミントはキャラデザが等身大でリアルで 魔法は大人になれない以外は何でもありで、絵は背景が暗くて動画が曖昧で柔らかく躍動的。話は空想的でおもしろく、子ども向き。どことなく貧乏臭い。
海モモはキャラデザが3頭身でマンガチックで、魔法は大人になって何でもできて、絵は背景が明るくて動画が明確で硬く落ち着きがある。話は空想的でおもしろいが、やや大人向き。なんとなくお高い。(ネームバリューが…)
同じ魔法少女ものでありながら対照的な性格の作品を立て続けに作れるなんて、葦プロは偉い!

チャット
私は幻聴には2種類あると考えています。ひとつはユタさんが言うように、自分の頭の中で自分が作り出した幻聴で、もうひとつは感覚波の伝播による脳における感覚の発生でいわゆる本物の幻聴です。感覚が現在の物理学の範疇に入っていない以上、新しく感覚子というものを考え出さねばならず、感覚子という不思議な物が実在する以上、感覚波というものが実在してもさほど不思議ではない。つまり、私にとっては幻聴と感覚の存在とが同等の不思議さに思われたので、感覚が実在するのなら幻聴が実在してもちっともおかしくはないと考えるに至ったのです。感覚に関してはわれわれにはまだまだ未知の部分が多いのです。

チャット
私の親は公務員で小さいころから父親の背中を見て育ってきたので、私の知覚界には医学に関する知識がないことがわかっています。中学のときの生物学の成績も人並み以下でした。医学部では完全に落ちこぼれでした。だから、私が医者をやっても鬱病にかかるだけで成功しないことはわかっています。私の精神病論は哲学として趣味でやったものです。医学でも仕事でもありません。たとえ私の方法が有効であったとしても、それをあえて他人に適用しようとする気はありません。もっとも、他人がそれを使うのは他人の勝手で、大いに結構ですが。(いちいち私の許可なんて要りません。)

今の世界は‘安楽死のない社会’であるが、
将来において‘安楽死のある社会’のほうが人間にとってはより住みよい社会なのではないか?
自分の人生が不都合になったとき死ねるのなら便利でいいと思う。将来自分が幸福になる可能性がないと考えられるのなら、さっさと死んだほうが賢明だ。
安楽死の選択は個人の自由であるから、問題はないと思うが。

11.25
アニ
ミント
簡単な絵だけに、はまりやすい。
親しみやすい絵柄だ。

うちゅう戦艦ヤマト#11
諸君、ヤマトの無事を祈って乾杯しようではないか。
ハハハ…、ヤマトの無事を祈ってですと。
総統も相当冗談がお好きなようですな。
(床が開いて宇宙ワニの餌食にされる。)
ガミラスに下品な男は不要だ。
この回は本編が地味なぶん、演出に力がこもっていた。
それにしても、冒頭の損保ジャパンDIY生命のCMがうっとうしい。
おかげでヤマトがつまんなくなったじゃないか。(プンプン)


チャット
私のHPのチャットの調子が突然悪くなった(何度発言ボタンを押してもUPされない)ので、特別にここに書かしてもらいます。(私のHPのチャットの調子が回復すれば、そこにも書きます。)>> 天帝ユタさんは、神話やマンガにお詳しいようですね。私はマンガはあまり知りませんがアニメならよく見ます。アニメでは超能力を使える女の子がよく出てきます。未来少年コナンのラナちゃんはアジサシのテキィとイメージ(視覚像)で交信できるし、仰天人間バトシーラーのゴルコマチちゃんは草や木などのいろんな生き物の感じていることがわかるそうです。超能力は五感の能力が高まったものなので、やはり女の子の得意分野ですね。

このチャット調子がおかしい。
ここのチャット壊れてる。
超能力が使えるのは、女の子の特権です!


existenceの意味 h14.11.25
existenceとは、実存主義の言うように、
「外に出で立つ」ことではなく、
その本来の意味は、実在主義が言うように、
「(認識の)外に在るもの」のことである。
実在は五感を超えたところにある。☆

ミントちゃんすきすき。CSでみて大好きになりました。

女性は五感が発達しているので、女性には昔から特別な能力があることがわかっていました。現代は知覚の時代なので、五感の強い女性の出る幕はありませんが。

ミントの絵は貧乏臭いから、貧乏な私にはお似合いさ。

11.26
チャット
ユタさんが書き込むと、チャットの調子がおかしくなるみたいです。

たとえ、ユタさんや私に幻聴があっても、他人の考えていることがわかるだけで、実在のことがわかるわけではないですから、あってもしかたがないですね。

人間の中には動物の部分と人間の部分の両方があるから、人間の部分を伸ばすような生き方をしないといけない。それが人間として生まれた者の使命だ。(独り言になってしまった。)

掲示板11.26
ここに言う安楽死法は、癌の末期患者にのみ適用されるものではなく、広く一般に日本国民全員に適用されるものである。死ぬ意志さえあれば、誰でもすぐに死ねる。近所の病院で無料で死ねる。
日本人の多くは心主義なので、心主義の世界において自殺はたんなる心の苦しみからの解脱で実在からの逃避と解されるから禁止されている。心主義の世界においても実在とのつながりは保たなければならないのだ。とにかく、心主義では自殺は禁止されている。
しかし、知覚主義の場合は違う。知覚主義において、自分の将来において自分の心が満足される可能性が低いと考えられるとき、自分が生きているよりもむしろ死んだほうが賢明である。不快で生きるよりも早く死んで何もないほうが幸福だからだ。これが功利主義の原理である。功利主義とは、合理主義の切り拓いた実在の世界の中で人間が幸福に生きる道を考えることだ。合理主義に生きる、すなわち実在の世界の中で生きる人間にとっても、やはり自分の心を満足しなければ生きていけない。人間は知覚が正しいだけではなく、心が楽しくなければ生きていられないのだ。この功利主義の原理に照らせば、未来に不快感しかない人間は死ぬべきことになる。つまり、知覚主義者にとっては自殺が許されるのだ。知覚主義者にとっては、自殺は実在からの逃避ではなく、“実在の世界の中における”人生の選択の一つの道なのだ。それは正しい行為なのである。今後社会制度の知覚化が進めば、いずれは安楽死が認められるようになるであろう。(できれば、私の定年以前にして欲しい。私は厚生年金にも医療保険にも入っていないからだ。)
[つづく]
[つづき]
五感主義者の場合は、現象(五感)の世界に溺れて実在の世界を見失っているから、論外だ。自分で自分の首を絞めて死んだり、自分の眼玉を穿り出したりするような危険なやつらだから、まして他人に危害を及ぼさないわけがない。厳重に管理して、人間社会から隔離する必要がある。五感主義者の場合も、やはり実在の世界とのつながりを維持していなければならず、敢えて自分から実在の世界を否定するような意思を持つべきではない。五感主義者にとっても、心主義者と同様に、自殺はたんなる実在からの逃避なので、自殺は許されないのである。
以上のように、五感主義者や心主義者の場合には自殺は許されないが、知覚主義者の場合には自殺してもかまわない。社会が十分知覚化されていれば、自殺はむしろ認めるべきであろう。(なるべく早くして欲しい。私の貯金がなくなる前に。)

追記:今の社会は五感主義を肯定しようとしているが、ほんらい人間の本質は知覚であり人間は知覚主義だから、これは人間としての進むべき道を誤っている。五感主義は知覚のある人間が知覚のない動物に戻ることにほかならない。人間から知覚を取ったら何も残らない。このままでは人類が絶滅する。人類は五感主義の方向に行ってはならない。知覚主義に戻るのだ。

チャット
私は、まんがは魔法陣グルグルしか読まない。でも、最近はグルグルもつまらなくなったので、何も読んでいない。MONSTERは、テレビのランキングで紹介されていたのを見かけたことがある。私は実在主義なので、空想色の強いまんがは読まないのです。アニメは検定が厳しいから、多かれ少なかれ、すべてのアニメに実在的内容が含まれているので、見られるのです。

子どものときテストの時間に前の教卓に座っている先生が念波(感覚波)で密かに自分だけに答案の答えを教えてくれたような気がしたことがあります。

●葦プロ第2スタジオ
葦プロの本質は自由性にあり。
ミントでは、絵が曖昧で、魔法の設定も曖昧だから
それだけ五感や知覚に縛られず、自由にやれると言うことで、
心に近い、おもしろ本位になる。
反対に、ぴえろのように絵をきれいにしなければならないと、
それに合うように話の設定もきちんとしなければならなくなり、
作り話と言えども論理的でなければならないわけで、
それだけ五感と知覚の制限が強くなって、
心から離れてしまってつまらなくなる。
つまり、ぴえろは絵のきれいさにこだわるあまり、
現象と実在には強いが、そのぶん心に弱くなるわけで、
反対に現象と実在には弱いが心に強いのが、葦プロ第2スタジオとなる。
葦プロ第1スタジオは、現象にも心にも強い。つまり、絵のきれいさもある。
『ミンキーモモ(新)』(日テレ系)は、現象にも実在にも空想にも強い、あらゆる面でバランスの取れた作品であるといえよう。『アキハバラ電脳組』(毎日系)も、キャラがかわいく絵はきれいで現象的だし、後半はクレインが出てきて科学的=実在的になったし、パタピーやディーバがちょっと未来のお話と言うことで夢があるし(空想的)、あらゆる要素がそろっている。
一方、葦プロ第2スタジオは、『魔法のエンジェルスイートミント』や『ラムネ&40』(どっちもテレビ東京系)とか、(絵はラフで設定も曖昧だが)活気があってノリのいい作品を生み出している。より人の心に近づいた、人の心を真芯でとらえた作品作りといえよう。
東映は、昔からいかにも日本人受けする臭いもんばっかり作ってんじゃないの。古い道徳観がにじみ出ている偽善者臭い作品ばっかり。

掲示板
胡麻焼酎『紅乙女』のおいしい飲みかた
このHPを見てくれた君だけに、こっそり教えてあげよう。
マジな話だ。
●用意するもの
胡麻焼酎『紅乙女』、六甲のおいしい水、電気保温ポット、耐熱計量カップ
●割りかた
1.胡麻焼酎『紅乙女』の原液100mlを耐熱計量カップに入れる。
2.それに六甲のおいしい水を沸かした98℃のお湯200mlを注ぐ。
3.さらに冷蔵庫で冷やした六甲のおいしい水100mlを加える。☆彡
4.はい出来上がり。冷めないうちに召し上がれ。
胡麻の香りがほんのりして、甘酸っぱくまったりとした舌触りが最高!
ポイントは、六甲のおいしい水を使うことと、計量カップで正確に測ること。
私は、毎晩、プラスチックの計量カップで上の処方で飲んでいる。
よく眠れるぞ。

うちゅう戦艦ヤマト#12
スタートレックの「宇宙アメーバの恐怖」を思い出す。
波動砲で炎を切る。フォン、キュポッ(炎が切れる音)。

未来少年コナン#21
レプカは頭はパーなのに、力で他人を支配しようとするから悪人なのだ。
いくら現実に支配できるからといって、
力だけが強くて頭がパーなやつ(例、アメリカ)に人類を支配させてはならない。
それが人間の法だ。人間はほかの動物とは違うのだ。
人間は、力の強い者が弱い者を支配するのではなく、
正しい者が正しくない者を支配しなければならない。


うちゅう戦艦ヤマト
『シュルツに見た男心』
誰でも本心では死ぬのは嫌だ。

チャット
ユタさんのHP『暗黒MENU』拝見させてもらいました。掲示板の文章力は私と同じレベルだと思っていたのに、難しい美麗な文章がたくさん載っていてビックリしました。でも、写真とマンガでは楽しませてもらいました。わりと近くに住んでおられるのですね。緊張しました。

●ミント大好き(涙)
スイートミントは革命だ。(最近まで知らんかったからな。)
ユーミよりも、ララよりも派手な男顔。
絵柄がリアルで実感が湧く。
絵柄が貧乏で親しみやすい。
男顔のわりには身体が柔らかで女っぽいのがなんともウレシイ。

h14.11.27
コメント
トムとジェリーDVD全10巻
ヤフオク
落札価格\18,200-
定価各巻2千円ぐらい
◎安いと思って衝動買いした。買って損はない(あまり得もないけど)。
声優がトムが肝付兼太・ダン小路、ジェリーが堀絢子(あやこ)・チマ。
各巻ともハンナ&バーバラとチャック=ジョーンズが両方入っている。あと、エイブリーとハンナ&バーバラのドルービーも付録に付いている。
魔法少女を見るように楽しむわけにはいかないが、闘う系のアニメとして見れば十分楽しめる。
絵のレベルは現在でも通用するし(むしろ現在が見劣る)、アメリカ動画のおもしろさが満喫できる。
ただ、LDよりもDVDのほうがノイズが目立つところがある。

マジカルエミDVD−BOX1&2
アシーネe-shopでネット通販
各巻\31,500-(税別)
定価\35,000-(税抜)
◎定価の1割引か…。でも送料0円だから安いか。(私事)
たしかにDVDだけあって、絵の細かいところまでよくわかるし(LDでは細かいところがつぶれて見えない。例えば、将のアッカンベーや小金井の旗)、微妙な色合いも反映されている(LDだと薄い青色が見えない)。音質もファインできれいに聞こえる。でも、大雑把に言えば、LDでもDVDでもそんなに違いはない。特典の『蝉時雨』はよかった(画質はLDと変わらんけど)。『雲光る』は絵柄が現代風で子どもの心理を描こうとした意欲作である(私にはなんのこっちゃわからんかったけど)。おまけの『魔法少女フェスティバル用ごめんなさいフィルム』はすごくおもしろかった。

アニ
未来少年コナン
よいこはまねしないでね。

魔法のエンジェル スイートミント#15,16
期待したほうがバカだった。


●アニメの3要素
アニメは実在、現象、空想の3つの要素から出来ている。

実在は知覚で、現象は五感で、空想は心で見る。(空想は知覚にも五感にも属さないから、心で見るしかない。)
もっとも、実在に従属する心や現象に従属する心もある。それらは複合をなしている。

●アニメの3要素(改)ーーー空想とは何か?−−−
現象界には実在しないものがある。空想は実在しないから実在界には入れられないが、現象界には入れられる。だから、空想は現象界に属する。空想は現象に含まれる。したがって、空想は五感で見るものである。私は本を読まないから、空想といえばアニメしかない。アニメは眼(五感のひとつ)で見るものであることは確かである。逆に、空想は五感で見れるから現象だといってもいい。
空想と空想に伴う心(の反応)とは区別しなければならない。空想と空想に複合する心とは区別せねばならない。
空想は実在しないことだから、偽(非実在)の命題のひとつということになる。
現象は実在において真でも偽でもない。無意味といってもいい。
数学のほうでは、実在においては偽(非実在、実在しない)であっても公理においては真なことがありえるが、論理は実在よりも甘いから、そういうことが許されるのだ。そういう公理系(いくつかの公理から論理的に導かれる命題の集まり)は実在しないから空想と言うことになるが、これらは知覚で認識するのである。つまり、数学のような特殊な場合には、たとえ空想であっても(五感ではなく)知覚で認識することがある。文学や日常生活の場合には、空想は知覚ではなく五感で認識するとしてよい。文学は言葉で述べられているけれども、その言葉の意味の所在は(知覚ではなくて)五感の中にあるからである。
空想は現象界に放り込んだほうがいい。空想は実在(ここでは感覚される以前の実在自体の意味。知覚ではない。)に対する現象とは違うが、(アニメが)“眼で見えるのに実在しない”と言う点では現象と共通するから、やはり空想は現象界に入ると考えてよい。
“眼で見えるのに実在しない”ことの意(こころ)がわかっているのが大人で、わかっていないのが子供だ。
こうして見ると、哲学って、けっこう難しいなあ。普通は、こんなややこしいこと考えんでよい。そもそも空想なんて余計なものがあるからいかんのだ。人間はまじめに実在の中で生活すればいい。現象ですらすでに余計なのに、敢えて現象界に空想までも加えるとは、むむ…(悩)。現代は複雑やなあ。認識システムに混乱を来たさないでね。

空想(実在しないこと)には論理的な空想と非論理的な空想の2種類ある。
論理的な空想は知覚が認識し、非論理的な空想は五感が認識する。例えば、相対性原理のないニュートン力学は数学としては存在するが、実在はしない。観察や実験によって実在と対応付けないかぎりは、問題ない。だから、机の上だけで研究している学者達はニュートン力学の間違いに気づかなかった。
観察は知覚を五感に従属させることだが、実験は五感を知覚に従属させることである。観察ではイメージの泥垢[どろあか]を抜けきれないが、実験では知的に純粋なイデアで五感的なイメージの本質的な部分だけを拾い見することができる。近代科学においては実験的方法がとくに重要である。(知覚主義=人間原理)
広中平祐は『数学はマンガと同じだ』と言ったが、数学は完全に論理的だから知覚で認識するけれど、マンガは完全には論理的ではなく、論理的な部分と非論理的な部分が入り混じっているから知覚と五感の両方で認識するのだ。いくら空想と言えども、実在の中で生きている人間が作るかぎり、実際にはかなりの部分が実在的なのである。

アニ
●アニメは画力だ!
スイートミントといえども、結局は絵がいいときにノリがいいだけだ。
これまでによかった話といえば、
#10それゆけトアルナイツ☆☆
#11こんにちは小さな天使☆☆☆
#13ようこそ絵本ワールド☆☆☆☆☆彡
ぐらいだ。
(たとえ同じ作監でも、原画その他の方々が違うと絵の出来も違ってくる。)                   
#1〜#9までは実にショボかった。
#1なんか楽しいところなかったぞ。普通は第1話に力が入っているじゃないですか。ミントの場合は、だんだんと絵がうまくなっていく感じがあって独特だ。これまで見続けてきたのも、それがあったからだと思う。
今度おもしろくなかったら殺すぞ。

アニ
●空想について
「空想=冗談」で冗談は五感に属する(既述)から、空想を現象と捉えるのは妥当である。
私がこれまで現象と言って来たのは、実在自体に対する五感についてであったのだ。
数学は例外として、多くの空想は論理的ではないから、知覚界の中にはないので、五感界の存在なのだ。例えば、タイムマシンでは、過去の時間に戻ってそのタイムマシンを壊すとタイムマシンが出来ないことになるから矛盾がある。だから、タイムマシンは空想の上だけの存在であって、実在ではないのだ。

●うちゅう戦艦ヤマト#13
「こらっ、ガミラス、いいかげんにせえよ。地球ぐらいの星ならそこらへんの銀河にいくらでもゴロゴロしとるやろうが!」
ヤマトが大ヒットしたのは、この頃のアニメの絵柄と話とがよくマッチしていたからだろう。この頃のアニメには暗くて重くて悲しい話が多かった。
絵柄で話が決まるのだ。話で絵柄が決まるのではない。
反対に、今のアニメには明るくて軽くて楽しい話が多い。
時代は変わった。

●セレクション
スイートミントは絵としての価値が低いんだよ。
絵がヨボヨボだし、話もチャチいし。
明らかに子ども志向だし。
お約束のネタをまとめただけで、話に新味な機軸がない。
セレクションで売るのもやむを得ないよ。
(どうせなら、いろんなアニメの一番おもしろい回だけをまとめたセレクションを作ってくれないかなあ。魔法少女編とか、ロボットアニメ編とかで。)

チャット
『悪魔狩り』と言うマンガをご存知でしょうか?ミカエルが狂人(?)に変身して悪魔をやっつけるお話です。私もこのマンガから多くの影響を受けました。おそらく悪魔狩りの得意とする‘闇を狩る術’とは、意識的に自分の五感の活性を数十倍に高めて己の身を獣と化すことでしょう。コミックでは、冒頭にプロローグがありますが、これはあとから書き足したものなので、最初はここを飛ばして読んだほうがノリがいいです。

●魔法の妖精ペルシャ
テレビ東京でやってほしかった。
面白真面目でなくても
バカでも楽しけりゃいいさ。

●面白真面目
冗談がわからない真面目な人でもそこそこ楽しんで見れるのが、
面白真面目なアニメである。
しかし、冗談がわからない人が本当に真面目なのだろうか。
実在がわかっているから冗談がわかるのではないか。
冗談がわからないのは実在もわかっていないからだ。
だとしたら、本当に真面目なのではない。
今の日本は、実在をきっちり押さえて、
冗談もわかる大人を作ろうとしている。
昔の日本は冗談が許されなかったが、
今の日本は冗談を許そうとしている。
なのに、今でも日テレは真面目なアニメばっかり作っている。
哲学を知らない大人達の存在こそが問題なのではないか。
仕事や勉強は真面目にやらねばならないが、
せめて休みのアニメぐらいは冗談で楽しんでもいいのではないか。
どうせ五感は現象なわけだし、五感を活動させるのもたまにはいい。
五感が活動している間は、知覚が休める。
五感の喜びが明日への活力にもなる。
真面目ばっかりでは、知覚が過労でくたくただ。
アニメに関しては、テレビ東京が日テレの十年先を行っている。
ぴえろ魔法少女を見ても、なんだか心がリラックスできないよ。
眼先の喜びだけで、話が楽しくない。
テレビ東京の魔法少女はその反対に、話が楽しいが眼先の喜びがいまいち。[つづく]
[つづき]しかし、最近はテレビ東京のアニメもずいぶん絵がうまくなってきた。
東京ミュウミュウやバトシーラーなんかレベル高い。
(先週のゴルコマチが物足りなかったが。だから、今でもちょっと絵が弱い。)
話がくだらないままで絵がうまくなりつつある(笑)。
このままでは、日テレが負けてしまうぞ。
だから、日テレもテレビ東京を見習って、くだらない馬鹿げたアニメを作るのです。
ギャグは空想だ。空想は実在しない命題だ。
空想が具体化されたものは現象であるから(前述)、
くだらない馬鹿げたアニメも五感で受け止められるはずだ。
まさに人間はそうならなければならないのだ。
それができない間は知覚もないと思え。
日テレのアニメは絵が上手なことは前からよく知っているから、
今後は話のほうを面白楽しくする工夫を考えてほしい。
東京ミュウミュウですら日テレでは放送禁止なのだろうか。
お堅いアニメを作って絵代を無駄にするのもええかげんにせえ!
せっかくお小遣い貯めて絵のきれいなアニメのDVDを買うてもつまらんやないか。
この悲劇を二度とくりかえさせるなよ!
(おれも話し込まんとなかなか本音の出てこん男やな。)

●マジックナイト レイアース#32
日テレが絵のおもしろさを追求した挙句が“男顔の女”か!!
これが絵としてのおもしろさの最高峰だと言うのか?!
これなら、話のおもしろさのほうがまだましじゃないのか。
それにしても、しばらく見ないうちに海と風の顔がきつくなったな。
反対に、光は髪がずいぶん色っぽくかわいらしくなったな。
最初のころは光だけだったのに、
いつの間にか三人ともになっているじゃねえか!

うちゅう戦艦ヤマト#14◎
ヤマトの乗組員達は、あの暗黒4連星がガミラスの作り出した幻覚だということにどうして気づかないのですか?
地球滅亡の日まであと280日(半減期ですか?)

11.30
△マジックナイト レイアース
絵はいいけど、話が重たいのが嫌。
光はかわいいけど、風が陰険メガネ。
光が女っぽいのは、作監にもよるか。

●ミントのこれまで超え
やたら女っぽいお洋服を着て
料理やバレエをするのはこれまでになかったな。
新機軸と言えば、そこんところを明け透けに強調したってことか。
あと、子どものまま変身して、毎回服が変わるのも楽しかったよね。
女の子の友達がいるのもいいよねっ。

12.1
アニ
太陽の牙ダグラム#36
バイクが走る前から轍(車輪の跡)がついているのはなぜだろう。

12.2
レイアース#34
光、海、風の顔が元に戻ってしもうた!
絵はきちんとこぎれいにしとるけど、
のっぺりでつまらんなあ。
これでは見る価値ない。
#32は萌えだったのに〜!!
魔法少女の明日が見えた気がした。
ということは、
作監をチェックだー
平山円先生の回はキャラにいい味が出ていて
とくに光が最高でした。


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